転職を繰り返した女(解決編) そして、正のループへ(エピローグ)
ミネラルアップに入社してから2年後、梨華は結婚をした。夫は、ミキコが紹介してくれた、ミキコの同僚だった。梨華よりも1歳年下のケイスケは、名門大学の修士課程を修了して新卒からずっと同じ会社で研究職をしているという、梨華とは正反対の経歴をしていた。ケイスケはあまりコミュニケーションが得意なタイプではなく、特に女性の相手をするのは得意ではないようだった。初めはお互いに少し気まずさを感じていたけれど、今となっては最愛のパートナーになった。
そしてさらにその1年後、梨華は男の子を出産をした。生まれる前は子育てに対する不安が大きかったけれど、実際に育ててみると、以前よりも毎日が格段に楽しくなった。
かつて両親が自分にしてくれたのと同様の育児をしたわけではない。けれど、ケイスケと2人で毎晩のように話し合って、一生懸命、子供を愛した。子供の立場でしか経験したことのなかった「育児」を、親の立場で経験することで、かつての自分を追体験しているような、不思議な感覚になった。
梨華が仕事に復帰したい旨を伝えた時、母は少し驚いた様子で、自分が子育てを手伝うと申し出てくれた。
梨華が母親になってから2年が経ったころ、ついに社内での月間成績が1位になった。梨華に表彰状を手渡してくれたのは、昨年、最年少で執行役員になっていたアキラだった。
アキラは、
「初めて梨華さんと会った時は、正直またすぐに辞める新人だろうなと思ったんですけど、ここまで上ってきてくれて嬉しいです」
と、言っていた。
その翌月、梨華の成績はごく平均的なものに戻った。先月はたまたま調子と運がよかっただけで、梨華は、月間MVPを連続で取れるほど優秀になったわけではなかった。
梨華は今でも、平社員だったころのアキラのように、年収700万円だとか1,000万円だとかを稼げるわけではない。むしろ、梨華の年収は、世間一般の37歳女性としては低い方だった。けれど、厳しい職場環境だったにもかかわらず、6年間正社員として勤務を続け、一瞬とはいえ社内で1位になれたということが、梨華の中で大きな自信になっていた。
ある日、梨華は都心の雑居ビルの階段を上っていた。「エージェント面談の方はこちら」と書かれた看板は、以前に見た時よりもさらに錆びついている。
「14時からご予約の、大橋梨華さん。待ってたわ」
梨華が重い扉を開けた途端、懐かしい声が聞こえた。
「はい。本日はよろしくお願いいたします」
梨華が元気よくそう言うと、6年前と何も変わらない、幼い少女のような顔立ちのユキナは、満足そうな笑みを浮かべた。そして、そっと椅子を引いて、着席を促してくれた。
「正直驚いたわ。あなたが6年間も水を売り続けられるなんてね」
梨華が椅子に座るのを見届けてから、ユキナが口を開いた。
「育休で1年ほど休んでますけどね。それでも、自分でも頑張ったと思います」
そう答えた梨華の顔には、かつて一度は失った万能感が戻っていた。
「さぁご覧なさい。これが今日、私があなたに紹介できる求人よ。もちろん、全て正社員の募集だわ」
ユキナがそう言い終える前に、梨華は目の前に積み上げられたコピー用紙の山を、次から次へと読み漁っていた。