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 シャナが応接室に入ると、そこにはグラッフルとベルンの姿があった。

 相変わらずグラッフルの面持ちは峻厳だが、ベルンといるときの彼の雰囲気は不思議とどこか柔らかい。それほど気を許しているということなのだろう。

 同い年のふたりは、十五の頃からの腐れ縁。よって、かれこれ二十年以上の付き合いになる。

「やあ、シャナ。今日も麗しいね」

 中性的かつ童顔のベルンは、今日も甘い相貌と甘い声で、甘い言葉を振りまく。帽子を脱ぎ、あらわとなった金色の猫毛。少し(まなじり)の下がった碧眼が、なんとも蠱惑的な魅力を湛えている。「麗しいのはあなたのほうよ」と、シャナは無言で微笑み返した。

「おい」

「ん?」

「なんだこれは」

「何って、お土産だけど」

 グラッフルの呼びかけに、涼しい顔でベルンが応じる。

 絹織物や巧みな意匠の小物入れ。陶器に磁器。香水や化粧品、果物、焼き菓子、諸々(エトセトラ)……。各国の珍しい品々が、テーブルの上に所狭しと並べられている。

 地域経済や国際貿易に多大な影響力を有するツェーゲ商会。その会長であるベルンのもとには、世界じゅうからあらゆるものが集まってくるのだ。

「これ、全部こいつにか?」

「もちろん。お前も欲しかった?」

「……要らねぇ」

 ベルンは、グラッフルを軽くあしらうと、シャナに向かって笑みを投げかけた。「遠慮しないで」と言わんばかりの満面の笑みだ。

 思わずたじろぐ。この部屋に入ったときから——ともすれば先ほど彼と顔を合わせたときから——シャナは心配していた。

 ベルンにとっては、何も特別なことではないのだろう。だが、シャナは彼が土産を持参してくれるたびに心苦しく思っていた。こんなにも大量の高級品を、はたして無条件に受け取ってもいいものかと。

 シャナの内心を、グラッフルは此度も一滴残らず汲み取った。惑い、あたふたするその姿に、「もらっとけ」と目配せをする。

「あ……ありが、とう」

 グラッフルに促されたことで、シャナはベルンに謝意を伝えた。雪のように白い頬が、ほんのり紅潮する。

「どういたしまして。……君は本当に慎ましいね。もっと欲張ってもいいんだよ」

 ベルンの言葉にきょとんとするシャナに、グラッフルがソファに座るよう指示した。シャナとグラッフルに対座する形で、ベルンが腰を下ろす。

 土産物のひとつである焼き菓子を頬張るシャナの隣で、おとなふたりはこの日の本題へと入っていった。

「あの井戸の図面、用意できた?」

「ああ。書庫ひっくり返してようやく見つけた」

 グラッフルはため息交じりにそう言うと、例の古井戸の内部図面をベルンに手渡した。

 涸れてしまった井戸など、リスク以外のなにものでもない。先日埋め立てを検討している旨をベルンに相談すれば、すぐさまお抱えの建築ギルドを斡旋してくれた。

「……あっ。やっぱりあったんだ。敷地の外に繋がる大きな横穴」

 色褪せ、黄ばんだ図面。その一部を指さし、ベルンが声を上げる。

 ざらついたそこには、井戸の底から真横に伸びる、長く大きな空洞が図示されていた。

「昔親父が言ってたときは話半分にしか聞いてなかったが……本当にあったらしいな」

「ここも埋める?」

「そのままにしておく理由はねぇからな」

 そもそもなぜこのような通路めいたものが存在するのか。おそらく、より安定した水の供給を得るため、水源地までの道を確保したかったのだろう。なかなかに骨の折れる作業だったことは推察できるが、今となっては必要ない。

 大がかりな工事になる。数ヶ月か、はたまた数年か。

 グラッフルは、この図面でもって、改めてベルンに依頼した。

「それにしても、ここの紫陽花って年々赤みが増してない? 僕が初めて見たときは、たしか青かったと思うんだけど」

 ベルンの脳裡に、少年時代に訪れたデイヴェス邸の光景が蘇る。当時井戸の水はまだ潤沢で、紫陽花の色はたしかに青かった。

 紫陽花は、土壌の性質によってその色を変える。理由を特定することは難しいが、ここ数年の雨量の減少や、井戸の枯渇も関係しているかもしれないと、グラッフルは肩をすくめた。

「……青い紫陽花があるの?」

 と、シャナが珍しくふたりの会話に入ってきた。いつもは邪魔をしないよう話を振られたとき以外は口を噤んでいるのだが、よほど興味が湧いたらしい。

「僕は青い紫陽花のほうが馴染み深いかも。興味ある?」

 ベルンのこの問いに、シャナは一も二もなく肯いた。

 屋敷からほとんど出たことのないシャナは、赤い紫陽花しか知らない。この世に青い紫陽花が存在するなんて、想像だにできなかった。

 赤い紫陽花は好きだ。けれど、青い紫陽花も見てみたい。だって絶対美しい。

 期待にまたたく(まなこ)をグラッフルに向ければ、「また今度見せてやる」と約束してくれた。

 窓の外。金色に染まった雲が、夕空に溶け込む。この日も見事な晴天だった。

「じゃあ、そろそろ帰るよ。またうちにも遊びにおいで。……あ、そうだ」

 ベルンはそう言って腰を上げると、何かを思い出したように一拍動きを止めた。そうして鞄を開け、あるものを取り出すと、彼を見送らんと立ち上がったシャナに差し出した。

「珍しいハーブティーが手に入ったんだ。乾燥地帯でよく栽培されてるハーブなんだって。よかったら飲んでみて」

 丁寧に包装されたそこから漏れ出る、甘く刺激的な香り。

 ()()()()その香りが鼻翼に触れたとたん。

「……っ」

 シャナの心臓が、どくんと大きく脈打った。

 まるで体を内側から鈍器で殴られたかのような衝撃。耳鳴りが、脳を搔きむしる。

 直後、悲鳴にも似たシャナの叫び声が、室内に響き渡った。

「や、いや……いやぁっ!!」

「シャナっ!!」

 がたがたと震えながら、シャナはその場に膝から崩れ落ちた。とっさにグラッフルが腹部に手を回す。

 ベルンは、何も言わずにシャナを見つめていた。

「……やめて触らないで……ちがうの、わたしじゃない……わたしは何もしてない……や、やだ、やめて……やめてぇぇぇっ!!」

「落ち着け!! お前はもうそこにいねぇだろっ!!」

 グラッフルの声が轟く。シャナを必死に呼び戻す。

 なんだ。

 何があった。

 今の一瞬がシャナの心にどう作用したのかは不明だ。けれど、起きてなお悪夢にさいなまれていることは明白だった。

「悪い、ベルン。見送りはできねぇ」

「……ああ、うん。僕のことはいいから」

 

「そばにいてあげて」


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