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 バルコニーから頭上をうち仰げば、真白い薄雲が見えた。まるで絹糸を散らしたかのようなそれは、ゆるやかに蒼穹を撫でながら東へと流れていく。そよ風にかすれる梢の音が、なんとも耳に心地いい。

 また、晴れ間が続いた。

 この時季は毎日のように雨が降るらしいが、ここ数年は極端に降雨が少ないらしい。〝らしい〟というのは、シャナが来る以前からの事象ゆえ、比較のしようがないからだ。

 この国の人々は雨が憂鬱だと言う。一方で、雨が少なければ作物が育たず困るとも聞く。少々勝手すぎやしないかと思わなくもないが、何事もバランスが肝要ということだろうか。

 人という生き物は——生きることは——難儀だ。

 それでも、自分は生きることを諦めたくなかった……らしい。少なくとも、グラッフルの目にはそう映ったのだと。

 あのとき檻の中で自分が何を考えていたか。正直憶えてなどいないけれど、おそらくそんなことは考えていなかったように思う。むしろ、こんなに痛い思いをするのなら、これよりさらに酷い環境が待ち受けているのなら、いっそのこと——と。

 けれど、自分は救われた。彼が、救ってくれた。

 彼がいわゆる〝裏社会〟の人間だということは、なんとなくわかっている。自分の乏しい知識でも、それはじゅうぶん推し量れる。

 身なりのいい高貴な紳士たちがこの屋敷を訪れるのを、何度も窓越しに見てきた。彼らと自分が直接関わることはないが、物腰柔らかい彼らの目つきが皆一様に滾っていることは、遠目にも明らかだった。

 彼らはグラッフルに〝お願い〟に来ているのだ。彼らにとっての天国を。相手にとっての、地獄を。

 グラッフルの手がどれほど汚れていようと、何に(まみ)れていようと、そんなことは些末なことだ。どうでもいい。

 自分は彼の所有物なのだ。彼に愛されている自覚はあるが、彼の所有物だという自覚もある。

 自分は彼に買われた。彼のことを愛している。

 彼のためなら、堕ちることさえ厭わない。

「あの人以上に大切なものなんて、わたしにはないもの」

 シャナの口からまろび出た、ささやきにも満たないほどの小さな声。

 それを完全にかき消したのは、力強い馬のいななきだった。

「……馬車?」

 来客の予定などあったのだろうか。もしもあったのなら、事前に指示があるはずだ。「外には出るな。応接室には近づくな」と。彼が伝え忘れることなど、ありえない。

「あっ」

 馬車から降りてきた人物を視認し、シャナは思わず声を上げた。やはり伝え忘れなどではなかった。伝える必要がなかったのだ。

 高級スーツに身を包み、帽子(フェドラ)を被ったその人物は、迷わずシャナのほうへ目線をくれると、にこりと笑って手を振った。

 透きとおる金髪に、見る者すべてを虜にするような甘い相貌。

 グラッフルの唯一無二のビジネスパートナー——ベルン・ツェーゲだ。

 ベルンは、振っていたその手で一階のとある部屋の方角を指さすと、再度その花顔(かがん)を綻ばせた。「君にお土産があるんだ」と、形のいい唇が紡いでいる。

 こくりと頷いたシャナは、すぐに踵を返して部屋をあとにした。

 彼が示した、一階の応接室を目指して。


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