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 湿った空気に、甘い香りがかすかに混じる。

 外は雨。篠突く大雨。

 およそ一週間ぶりの悪天は、庭に咲く紫陽花をさらに鮮やかに染め上げた。水滴が紅色の装飾花をなぞり、落ちて地面に小さな円を描く。昨年よりも赤みを増したそれらは、実に妖艶だった。

 シャナは、その光景をじっと見つめていた。

 今の時季は憂鬱だ——この国の多くの人々は口を揃えてこう言うけれど、シャナは違った。

 雨は嫌いじゃない。砂漠の国で育ったシャナにとっては、傘を叩くこの雨音でさえも心地よかった。

 もう少しこのまま紫陽花を眺めていたい。ぬかるんだ地面で足を遊ばせていたい。だが、あまり長居をしては()が心配するので、シャナはしぶしぶ屋敷に戻ることにした。

 厳然と(そび)える赤煉瓦の塔。ところどころに蔦が絡まった組積造のそれは、さながら小さな古城のよう。

 紫陽花の下からわずかに見える、不気味な古井戸を横目に、シャナは歩き始めた。

 苔むしたあの井戸は、今では厳重に塞がれている。以前は潤沢に湧き上がっていたという水も、ここ数年で完全に()れ果てたらしい。

「危ないから近づくなよ」

 傘の上。

 雨粒とともに落ちてきた、低く重みのある響きに、シャナは可憐に笑って答えた。

「心配しなくても、そんな子どもみたいなことしないわ。わたしもう十八になったのよ?」

 茶目っ気たっぷりにこう告げるも、見上げた先の灰青(はいあお)の目は、いささか懐疑的な色を湛えていた。黄褐色の前髪から覗く、まるで獅子のような炯眼。支配的で、威風があって、畏怖さえ感じられる——。

 けれど、その奥に宿る優しい光を、シャナは知っている。

「冷えてんじゃねぇか。……ったく、いつからここにいるんだ」

 彼——グラッフル・デイヴェスの手のひらが、シャナの白い首筋に触れた。ぴくっと、シャナの細い肩が小さく跳ねる。

 大きくて厚い手。大好きな、大好きな、彼の手。

 あまりの愛おしさに頬ずりをすれば、「猫みてぇだな」と、彼は笑った。

 広大な敷地を、ふたり並んで歩く。身長差が甚だしいせいで傘を分け合うことは難しいけれど、多忙を極める彼とこうして一緒に過ごせることが、シャナにとってはなによりの幸せだった。


 遡ること三年。

 シャナがグラッフルの屋敷にやってきたときも、今と同じように紫陽花が咲いていた。

 初めて見る薄紅の苑に、シャナは心を奪われた。こんなにも美しい花が存在するのかと、心の底から感動した。

 奴隷でもいい。この花を見られるのなら。生きて、いられるのなら。

 覚悟を決めたシャナに与えられたもの。

 それは、なに不自由ない穏やかな生活と、彼からの深い愛情だった。


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