034 コルベット
元国王は慎重に車をバックさせた。
牽引台車の後ろから二本伸びた細いスロープからタイヤを外さない様に。
車はコルベットのレースカー……しかしこれはパドルシフトのオートマチック、ただクラッチも着いている。
オートマなのにクラッチ……一瞬ワケわからんとも思ったが、動き出した時にすぐに理解する。
成る程……駆動輪に掛かる力を調整するにはエンジンに頼るオートマギア依りも直接に力を切ったり弱めたりの方が扱い易い。
エンジンは回転が上がるのも落ちるのも、どんなに性能を上げたところでタイムラグは無くならない。
クラッチを切ればそれは一瞬なのに。
オートマにクラッチ……これは理に叶ってる。
ってか……別にオートマで無くても良くないか?
パドルシフトの段階で……どうもトルクコンバーター型では無いようだし。
電子制御でクラッチを自動で切ったり繋げたりしているだけ? その瞬間の繋がりは感じられないが……どうなのだろうか?
そんな事を考えながらに……アクセルを微妙に煽りながら、クラッチで力の加減をして動かす。
後方やタイヤの確認は左のドアを開け放ち、そのドアに半分体重を掛けながらに上半身だけを外に出して直接に目で見てのことだ。
雨が降り始める数分前の出来事だった。
ユックリと後ろに進めて……全ての輪がアスファルトに乗ったのを確認した。
ホーッと息を大きく吐く。
太いタイヤだが狭い二本のスロープを渡すのは中々に緊張感が有る作業だ。
しかも車が貴重過ぎる。
「こういうのは……誰かに誘導して貰うものなんじゃがなぁ」
誰に言うでもない一人言。
しかしその顔はニヤケまくっていた。
ハンドルを大きく切り。
前を塞いでいる牽引積載台車を大きく迂回する。
これもアクセルを軽く一煽りだ。
「うお!」
思わず声が漏れる程の加速。
意図した距離と実際の進んだ距離の辻褄が合わない。
元国王は慌ててハンドルをセンターに戻した。
「何馬力出ておるんじゃ?」
もう既にアクセルからは足は離れている筈なのにコレだ。
両手の平で顔の汗を拭い、そのまま上にズラして髪の毛迄も撫で付ける。
息が整うのを待って。
両手でもう一度ハンドルを掴んだ。
そしてローギアで有ることを確認して……アクセルを煽らずにクラッチを繋ぐ。
だが車は動かなかった。
エンジンが止まる事もない。
クラッチが有る事で普通のミッション車と同じ挙動をすると思い込んでいたので、元国王の上半身だけがハンドルに近付くというおかしな格好に成る。
前に動くと思い込んでの、無意識での予防動作だけを体がしてしまったのだ。
一瞬……? な顔に成る。
が、すぐに思い出す。
結局はオートマなのだからアクセルを踏まなければ進まないのだ。
わかれば簡単。
元国王の右足がアクセルを踏んだ。
とたんに、今度は上半身が後ろの背凭れに投げ出された。
車の加速でシートに抑え付けられたと言うべきか?
「うおおおおぉぉぉ」
ハンドル近くに上半身が有ったものがいきなりに後ろへだ……視界も何もかもが消えた。
辛うじて握られているハンドル。
だがそれは硬直して離せないだけだった。
人間は哺乳類だ……犬や猫でも驚くと手足が突っ張る。
よく車の前に飛び出して、固まって動けなく成る……その状態だ。
そして今の元国王も同じ。
つまりはアクセルを踏んだ足が驚いた拍子に突っ張ってしまった……踏みっぱなしだってことだ。
この時にミッション車なら、同時にクラッチに置いた足も突っ張るので結果……駆動力も切れる。
が、オートマと理解した元国王はクラッチから足を外してしまっていた。
その外された左足は、今は動かないフットペダルを懸命に押し込んでいる。
ただの足置きのそれだ。
まあ曲がりしなの振られる体の支えには成るのだが……直線で発進の今は全くの無意味。
車の能力の大小あれど……よくニュースで聞く、老人がアクセルとブレーキを間違えてコンビニに突っ込むアレと同じだ。
今回は誰も居ない広く開けた道路での事なので、ぶつかるモノが無かっただけ。
ひとしきり走った車。
交差点を二つか三つは越えただろう距離で、やっとアクセルから足を放す事に成功した元国王は……涙目に成っていた。
「メチャクチャじゃぁ」
車に文句を言ったのか?
自分に文句を言ったのか?
元国王本人にも判断が出来ない一言が漏れる。
そして小さな後悔も……。
「マリーの言う通りにしとけば良かったかの……」
歳を取ったこの体では扱いきれん?
驚きで上に振れた感情が……平静に戻ってもソコでは止まらない。
それ以上に勢いの着いた感情はモチベーションに姿を変えて下がり続けるのだ。
その感情の起伏の激しさ……それ事態が歳を取ったという証拠でも有る。
ソロソロとレースカーであるコルベットを走らせる元国王。
その速度は宝の持ち腐れのまだその下だった。
「帰ろうかの……」
完全に意気消沈。
と、その時。
後方からゴン! と音と振動が伝わってきた。
バックミラーを確認する。
車の背中の盛り上がりと大き過ぎるリアウイングのせいで後方視界は悪い。
コルベットは今の世代の一つ前まではフロントエンジンでリア駆動。
だがそれが新型に成り、この車はミッドシップエンジンにフルタイム四駆だ。
背中の盛り上がりのその下にはデカイv8のエンジンが隠れている。
その後方からの振動。
「流石にスピードが遅すぎて……エンジンがおかしくなったとかかの?」
ブツブツとボソボソと。
レース専用の車なのだから、そのエンジンも高回転で回すのが当たり前に造って有る筈。
なら低速の低回転の今なら……燃料が多過ぎての不完全燃焼でも起こしているのかも知れん。
俗に言うバックファイヤーだ。
マフラーに燃え切れなかった生ガス……ガソリンが流れ込んでのそこでの高温で火が着く状態。
クラッチを切って……アクセルを大きく煽る。
回転系の針は中央の頂点に跳ね上がった。
そして今度はボン! と音と振動にプラスされて黒い煙も見えた。
それを何度か繰り返して……元のエンジン音に戻す。
生ガスを燃やし尽くしたか、吐き出させたかだ。
「面倒臭い車じゃ」
元国王はハンドルを目一杯に切って交差点を曲がる。
京都の街は道が碁盤の目に成っているので……都合3回曲がれば元のこの道が見える筈。
その時に右に曲がるか左に曲がるかを決めれば良い。
まあ、元の車屋に戻るのだから……たぶん左に為るのだろう。
そしてまた次の交差点で……。
ドン!
「またか?」
先程と同じ様にアクセルを煽る。
ドン!
ドカ!
しかし今度は治まらない。
それに……妙だと感じた元国王は体を起こして前を覗き込む。
音も振動も前からした気がしたのだ。
前方の視界もやはりに狭いので、その姿勢。
しかし、前には何が有る?
車のフロントには音を立てる様なモノは無かった筈だ。
「何かを踏んだか?」
車高は極端に低いので、ほんの少しの段差にも車体がブツかる。
綺麗なアスファルトに見えても……微妙に高低差が有るとか、波打っているとか……。
それを確認する為にも、今度は尻を浮かせてフロントガラスに顔を近付けた。
目が合った。
こちらに滑ってくる……ペンギンだ!
「さっきからのは……コイツ等か!」
連続してブツかるペンギン達。
今度は横からだった。




