障害観
投稿しようか迷ったけれど,せっかく書いたので出してみる。
障害は人と環境の間に立ち現れるもの。環境とは作用するもの作用されるもの全てを包含する概念だから,より正確に言えば,障害は環境の中に生じるものである。
ICIDHのImpairment – Disability – Handicap構造(1980) に代表される個人(医学)モデルは,障害は個人の内部にあり,修整・治療されるべきものだという障害観の醸成に貢献した。その後,個人モデルと対立する枠組みである社会モデルが登場した。これらを統合するように,ICFモデル(2001)のような,個人の特性と外部要因の相互作用によって初めて障害が現れるという考え方が現れた。
障害はカテゴライズされたものである。診断基準が存在し,当てはまるかどうかで障害が判定される。DSMやICDがその診断基準の具体例である。例えば,ASDはコミュニケーション・こだわり・感覚過敏(鈍麻),知的障害であればIQと適応行動の有無がたいていの判断の基準になる。
カテゴライズが生み出す問題がある。ジョンストン(2008)ではカテゴライズのことを「レッテルを貼ること」と表現し,特に標準から外れて社会的に逸脱したものに対するレッテル貼りの危険性を述べている。極端な否定と見下しを伴うレッテル貼りを「スティグマ」と称して警鐘を鳴らしている。そんなスティグマの一つが,障害とは個人の中に存在するもので,治療されるべき劣った状態であるのだという医学モデル的な考え方なのである。
ここで冒頭に立ち返る。障害は環境の中に存在する。個人のある特性と,環境のある特徴がたまたまミスマッチしたときに,障害はある種の壁のようなものとなって,個人の前に立ち塞がる。
クレッチマーの体型による性格分類に違和感を抱く人は多いだろう。性格特性は例外の多い類型論では把握しきれず,特性論が主流となっている。端的に言えば,特性なんてものはグラデーションであり,連続変数であり,名義尺度では捉えきれないものなのである。分類することは非常に困難であり,敢えて名前を付けて分類しようと試みるなら,言葉の使用には細心の注意を払わなければならない。適切な表現を諦めたのがASD(自閉症スペクトラム障害)である。行き着く先がグラデーションになるのは,当然の帰結である。
グラデーションにわざわざ切り込みを入れるから,歪んだ理解と対処が生まれる。障害には免罪符のような働きがある。「障害なら仕方ない」という考え方をもったことはあるだろうか。ADHDで実行機能が弱いから,なかなか衝動を抑制できない。だから走り回っても仕方ない。一見筋道立った考え方だが,では障害と判定されず,しかしながら教室で怒られている児童は「障害がないから」怒られるべきなのだろうか。違うだろう。障害の有無にかかわらず,その子どもに会った環境を構築することが,真に教育の場において求められるはずだ。
上に挙げたような,前提のおかしい理解の仕方にちらほら直面する。筆者もこの考え方にハマっていた一人である。つまり,「障害があるから○○が起こる」という考え方のことである。しかし実際はそうではなく,こういう特性で,こういうときに問題行動が現れるから,障害ですねと判定するのである。大切なのは,障害の有無にかかわらず個人個人の特性に注目し,認識と肯定、修整のバランスを上手に取ることなのであるが,障害というカテゴリーはこれをゆがめてしまうような節がある。
障害者雇用もある側面ではおかしな制度である。就職活動は弱肉強食の世界で,能力のない者は落とされる。障害者雇用は,そんな世界観を全く無視することができる。障害者は就職活動において不利であり,かつそれは当人のせいではないという考え方によるのだろうか。制度の趣旨についてはいささか勉強不足であるが,レッテル貼りの残滓を感じるとことである。
また,能力の低さに自己責任が発生するかどうかの分水嶺はどこにあるのか。制度からすれば,それは「障害があると判定されたかどうか」である。このとき次に救われないのはグレーゾーンにいる人間であろう。就職に恵まれないが,公的援助の網にもギリギリ引っかからない人間が出てきてしまう。ここからはもうイタチごっこになってしまうことが容易に想像できる。
知的障害についてもこれと同じことが言える。IQが70以下でなければ大抵その診断基準から外れるが,いわゆる境界性知能の子どもが学校の勉強に苦しむことは想像にたやすい。そして実際に起こっていることであり,支援の重要性もよく指摘される。カテゴライズに基づいた支援は,ギリギリそれに引き上げられなかったグラデーション上の人間を助けられない。
乳幼児期の検診では,自閉傾向があるかどうかのチェックがされる。ここで自閉傾向が確認されても,だからといって自閉症と診断されるわけではないことは,もはや説明不要だろう。しかしそうした判断をする自治体もある。こうしたカテゴライズの先行は親の不安を煽り,よろしくない。
カテゴライズに関わる様々な問題を指摘してきたが,一方でこれが支援に多大な貢献をしてきたこともまた真実である。障害者雇用は,確かに食に困った人を救済した。特製の理論化によって,必要な支援がある程度わかりやすく呈示され,取り組みやすいものになった。だから,枠組みに頼る部分と,それから抜け出した考え方というのはバランスの問題で,すでに実践の場ではその道の「プロ」が多く活躍しているのだろうと思う。それは保健師さんであったり,親であったりする。
ユニバーサルデザインの話ではないが,もし障害に触れる機会が今後なかったとしても,障害について考えることが生きていく中で役に立つこともあるだろう。ここがゴールではないし,これからも考え続けていきたい。
障害について語り出せばあれもこれもと考えが溢れて,なかなかまとまりにくい。センシティブな話題であり,そうでありながらたくさんの議論と実践がなされてきた分野である。今回はカテゴライズに注目したが,ADHやASを知的機能でごまかしてきたような個人的回想,実際に触れたことが少なくてよくわからないといった話など,書き切れていないことが多々ある。それはまた次の機会に。
引用文献
ICIDHとかICFとか (原典探すの面倒だったのでやってない)
デビッド・ジョンストン. 小川 喜道・於保 真理・曽根原 純・高橋 マリア 美弥子・麦倉 泰子 (訳) (2008). 障害学入門 福祉・医療分野にかかわる人のために. 明石書店.