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咎人たちの聖戦  作者: 白騎士58
第二章 冥界に手向ける鎮魂歌
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忘却の椅子 ~安らかに~

 男の皮膚は乾燥しひび割れていた。

 毛という毛はすべて抜け落ち、瞳は虚ろで、呆然と開いている口からは涎がだらしなく流れている。

 着ている洋服はボロボロに朽ち果てさらに汚物で汚れている。

 男はブツブツと何かをずっと呟いている。


 男が座っている『忘却の椅子』は何の変哲もない椅子にしか見えない。


「あの椅子で…人はこうなるのか?」

「誰もあの椅子が罠だと思わない…あの男は椅子に座るまで一つも疑うことはなかったよ。座ってすぐに後悔しただろうがな…」


 まるでユダは見てきたような口ぶりで言った。


「すぐに異変は訪れた。まず男は自分がなぜここに来たのかすぐに忘れた。次は自分の名前、生まれ故郷、家族、楽しかったこと、悲しかったこと、不幸だったこと…幸福であったこと、それらすべてを忘れていった。失禁したとしてほんの数秒で忘れる。食事もしていないことも忘れる。眠ることも忘れる。人と話すことも忘れる。人間の尊厳は奪われ、そのことも忘れる。…この男はただずっとなぜ自分がここにいるのかをずっと呟いている。『忘却の椅子』は年を取ることも忘れさせる…終わることのない、思い出すこともない疑問だけがずっと男を縛る。その様をハデスはペルセポネに見せ続けた。愛した男のその様を見れば自分に靡くと奴は浅はかにも考えたのだろう。フッ、愚かだね…ペルセポネはその命を絶つまで奴を拒み、恨んだ。奴はそれすらもこの男のせいだと考え未だに男を自由にさせていない。ペルセポネは自分を愛しているがこの男の異様な姿のせいでノイローゼになり自殺したと…本当に反吐が出る」


 ユダはいつもの口調で愉快そうに話すが、しかしその言葉の端々には怒りが隠しきれないでいた。


 僕はそのあまりの悲惨な運命に涙が出そうになった。

 あんまりじゃあないか。

 ハデスという異常者に目を付けられた、ただそれだけでこんな目にあうのか。


 僕は怒りで先ほどまでの吐き気を忘れ、自分でも気づかなかったが戦斧を力いっぱい握りしめていた。


 バベル君の様子を窺うと彼は眉一つ動かさず表情の変化がなかった。

 彼は今どのような感情に支配されているのだろうか。


 僕のような怒りにか、ユダのような憎しみにか。


 突然前触れもなく彼はその男に近づいた。


 ここからでも鼻を突き刺す異臭は近づけばその分より強力になる。

 それでもバベル君は表情一つ変えずに近づいていく。


「おい、兄弟…一言言ってくれよ」


 ユダがたまらないといった感じで言う。

 今回、彼は被害者のようだ。


 バベル君はその男に近づき、その男の目線に合わせるように腰を少し落とした。

 じっとバベル君はその男が呟く言葉に耳を澄ますように見つめていた。


 僕も彼に合わせるようにその男に近づく。


 やはり異臭は近づくほどに鼻が曲がりそうになる。

 僕はそれを我慢しながらバベル君の隣へと近寄る。

 僕もバベル君のようにこの男のつぶやきに耳を貸す。


「どうして。どうして。俺? 僕? 私? はここにいるの。どうして。どうして。俺? 僕? 私? はこの椅子に座っているの。どうして。どうして。誰か、誰なの、俺? 僕? 私? が求めているの?会いたいの? どうして。どうして。こんなに焦がれているの? 誰か、誰なの、思い出せない。思い出せない。どうして。どうして。俺? 僕? 私? はここにいるの? …」


 同じ文言をひたすらに何度も呟いていた。

 恐らくこの呟きも口から出したと同時に忘れていってしまうのだろう。


「…どうしたらいい?」


 しばらく黙っていたバベル君が口を開いた。

 誰に聞いたのかは分かっている。


「遠慮することはない。もうずっと前に朽ち果てている男だ。椅子ごと破壊すればいい」


 ユダがきっぱりと答える。


 バベル君はその言葉に頷くとその場に立ち上がった。


 立ち上がる彼を見る。

 彼の瞳には同情はなかった、ただ強い決意だけがあった。


 バベル君は『退魔の剣』を高々に掲げる。

 僕はそっと後ろへとさがる


「『魔を退く閃光』」


 到底必殺技を放つ口調とは思えぬほど優しかった。

 どうか安らかに、そんな思いが込められているのだろうか。


 『魔を退く閃光』の眩い閃光と轟音が男を包み忌々しい『忘却の椅子』とともに光の中へと飲み込まれる。


 その瞬間凄まじい悲鳴とともに粘着感のある黒い霧のようなものが出てくる。

 その黒い霧は一瞬苦痛に歪められた人の表情を見せたと思ったらすぐに空中に霧散した。


 男の死体は当然その場にはなかった。


 彼の放った技が強力すぎたせいかもしれないがユダの言う通り、男の肉体はとうに限界を迎えておりいつ灰になってもよかったかもしれない。


「ありがとう…本当にありがとう…」


 どこからともなく若い女性の声がハッキリ聞こえてきた。

 その声は感謝の念にあふれていた。


 背筋が凍るような思いもするのだが、ここは素直に受け取っておこう。

 べ、別に幽霊が苦手なわけじゃあないからね。


 おろおろしている僕を尻目にバベル君は空を見上げていた。

 先ほどの攻撃で部屋は破壊され外から丸見えな状態になっている。


 彼は天を貫かんとする建造物を見つめている。


「あそこにいるんだな」


 彼は小さく呟いた。


 僕に言った言葉ではない。


 見つめる彼の瞳はどこまでも深く、暗かった。


 マリア君が心配する理由が何となくわかったよう気がする。

 彼を包んでいる雰囲気はあまりにも儚くそしていつ壊れても不思議ではなかった。


「バベル君…行こうか、ここにいると見つかる」


 彼は微動だにしなかった。

 僕もその場から動こうとはしなかった。


 吹き曝しになったこの部屋に風が吹くことはなかった。

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