汝の敵を滅せよ ~我求める~
恐る恐る確認するとそれは巨大で汚い毛むくじゃらな肉の塊であった。
アフロディーテは先ほどの殺気が消え去り、困惑で顔が歪んでいた。
それはすぐに驚愕へと変わる。アフロディーテはそれが何なのかわかったようだ。
「モー…ちゃん? そんな…あり得ない…」
アフロディーテは、はた目からでもわかるくらいに動揺していた。
毛むくじゃらの塊はあの怪物のようだ。原型を留めていないくらい損傷が激しく一目で判別つかない。
あの怪物を倒せるのはバベル様しかいないと思うが、バベル様は甚大なダメージを負っているのにどうやって倒したのだろうか? いやそんなことより重要なことはバベル様が生きていることである。
ホッと安堵し立ち上がり、あの怪物であったものが飛んできた方向を見る。
大聖堂の崩壊により出来上がった瓦礫に、夕日で煌めいている漆黒の鎧を纏った人物が立っていた。
鎧は身体のサイズにぴったり合い、刺刺しい流線型のデザインで、まるで爬虫類を思わせた。
兜は顔全体をすっぽりと覆い尽くしている。
そしてその人物には左腕がなかった。
「よかった。バベル様。やっぱり…生きていらっしゃったのですね」
涙がこぼれる。バベル様が生きていたことは何よりも嬉しかった。
やはりバベル様があの怪物を討伐していた。
彼は無い腕を前へと突き出す。
何をするのだろうかとその様子を見守ると、無い腕の断面から黒く蠢く液体のようなものが溢れ出してきた。
それは地面を、宙を、なめるように這い、何かを探すような動きをしていた。
黒く蠢くものは吹き飛ばされていた彼の左腕と『退魔の剣』を瓦礫の中から拾い上げる。
それらは急速に彼のところに戻ると同時に左腕が綺麗にくっつく。
バベル様は手を開いたり握ったり、肘を曲げたり伸ばしたりして左腕の調子を確認していた。
彼は一通り確認を終えるとゆっくりとこちらに歩み寄る。
しかしアフロディーテはあの怪物の名前を呼び、彼の存在すら気付かないほど動揺していた。
「なるほど。お前にとって、そいつは切り札だったのか。ふん、そんなガラクタが切り札とはな、呆れるぜ」
バベル様の声にユダの声が重なる。
それは言いようのない感情を掻きたてる。
アフロディーテはその声でようやく気付く。
「え! あ、あなたがやったの? 左腕は!? 引き千切られていたはず!」
「ギャアギャアと小娘のように喚き散らすな。いちいち説明するのもめんどくさい」
バベル様は苛立っていた。
本当に彼なのだろうか、こんなに粗野であったか。彼のちょっとした変化が気になってしまう。
「…そうね。あなたに何が起こったのか、あなたが死ねばどうでもいいわね。勘違いしてない? 私の切り札は…モーちゃんじゃないわ」
アフロディーテはニヤリと笑う。するとアフロディーテの姿が煙のように消え始める。
「…最後は幻覚だよりか。つまらんな」
「つまらないかどうか、決めるのは早いんじゃない!」
アフロディーテの声が四方八方から聞こえてくる。声は反響し、位置を特定するのは困難であった。
「神に逆らうこと! 心底後悔しながら死になさい!」
言い終わるや否や四方八方から鞭が強襲する。私は急いで地面に伏せる。
恐らく本物は一本だけとはいえこれでは避けることはできない。
しかしバベル様は仁王立ちし避けようともしない。大量の鞭が彼に襲い掛かる。
凄まじい甲高い音が響き渡る。
「バベル様!」
バベル様に鞭が直撃したのかと叫んだが、杞憂であった。
彼は鞭を掴んでいた。アフロディーテは信じられないと驚愕している。
「ど、どうやって!?」
「…お前の幻覚は最後まで攻略法がわからなかった。正直判別つかん。しかし思い出したんだ。たった一つだけは本物と忖度ないって」
「たった一つ?」
「痛みだ。俺はただ、痛みを感じた瞬間に鞭を掴んだだけだ。お前のサディスティックな性格が足を引っ張ったな」
とんでもないことをサラッとやってのけていることをバベル様は気付いていないのだろうか。
アフロディーテはそんな馬鹿なといった顔をしていて、私もそんな顔をしているのだろう。
「ふざけないで! そ、そんなバカみたいなので破られるなんて…あり得ない! あり得ない!」
アフロディーテは半ば狂乱しながら絶叫を出した。
なんだか彼女が気の毒に思えてしまった。
そんなアフロディーテを尻目にバベル様は掴んだ鞭を力いっぱい引っ張りあげる。
アフロディーテは悲鳴をあげる。ドンと近くの地面に何かが落ちる音がした。
アフロディーテの姿がそこに突然現れた。
アフロディーテが態勢を整える前にバベル様はすかさずアフロディーテから鞭を奪い取った。
「そう言えば随分痛めつけてくれたな。鞭で叩かれたことあるか?」
バベル様は愉快そうに言った。アフロディーテがその意味を理解する前に彼は鞭をしならせた
「ぎゃああああああ!」
アフロディーテは凄まじい悲鳴をあげる。
「アハハハ! 色っぽい悲鳴をあげるなあ、もっと聞かせてくれよ!」
宣言通り、何度も鞭は唸りをあげ、そのたびにアフロディーテから悲鳴があがる。
「『魔法の宝帯』使わないのか? ハハハ、意地悪を言ってしまったなあ。それ、かなり集中力がいるだろ?…苦痛に耐えながらできるかな?」
バベル様は弄ぶように嘲笑った。アフロディーテは息も絶え絶えにしながらも
「な…なめるな!」
と力強く言い放ち、姿を消す。
「おお! 頑張るなー、その意気だ」
バベル様は楽しそうに笑い、やたら滅多らに鞭を振るった。バチンと破裂音とともに悲鳴があがる。
「あああ! …くそがぁあ!」
アフロディーテの姿がまた現れる。
「例え姿は消せても実体はそこにある。…まあ少しは楽しめた」
アフロディーテは髪を振り乱しながら懇願するようにバベル様の足にしがみつき、こうべを垂れていた。
「ね、ねえ! 見逃して! そ、そうだ! いい事してあげるから! 知ってる? 私のは…どんな女よりも、気持ちいいって! 最高の気分になれるから。ねえ! お願いだから…こんな…ところで…死にたくない…!」
辛くなっている私がいることに驚いた。同情という感情が残っているのか。
それが刺激されるほど今のアフロディーテは無様であった。
バベル様はその姿をじっと穴が開くほど黙って見つめていた。
バベル様の表情は兜で覆われているからわからない。
しばらく静寂に包まれていた。アフロディーテは期待のこもった目でその時を待っていた。
私は先ほどまでの気持ちが掻き消え、降って湧くどうしようもないほどの怒りが込み上げてきた。
どうして自分の祈りは届くと思うのだろうか?
私たちの祈りは届かなかったのに。
じっと動かなかったバベル様が口を開いた。




