汝の敵を滅せよ ~意地~
「…バベル様」
まだ呆然とする意識では何が起こったのか今一つ理解できなかった。
バベル様の態勢が崩れたと思った瞬間モーちゃんと呼ばれたモンスターの巨大な拳がバベル様を襲い、吹き飛ばしてしまった。
その威力はすさまじく、衝撃で大聖堂はほぼ半壊状態になっていた。
私も風圧で吹き飛ばされ、壁に衝突し先ほどまで気を失っていた。
咄嗟に『ウォール』を唱えていたおかげでダメージは思ったほどではなかった。
あの怪物は、私に目もくれずに立ち去って行ったようだ。
多分、バベル様の元へと向かったに違いない。
震える脚をかかえながら何とか立ち上がり、助けに向かおうと一歩動き出すと何かに躓き転んでしまった。
何に躓いたのか確認しようと振り向くと、絶句してしまった。
そこにあったのは人間の腕であった。
それが誰のものかすぐにわかった。
「バ、バベル様。そんな…嘘よ…バベル様のところに行かなきゃ…」
その左腕を慌てて拾い上げる。
それは想像よりずっと軽かった。
「嫌、嫌だ。まだ…間に合うかも…」
左腕からは血がどくどくと流れ出る。
『ヒール』を使用しても絶対に治すことはできないとわかりきっているのに。
苦戦しながらも左腕を抱え込むように持ち、バベル様のところへ向かおうとすると
「あらあら…随分興味深いものを持っているわね」
クスクスと底意地の悪い笑い声が聞こえる。
今一番聞きたくない声でもあった。
「アフロ…ディーテ…」
「アフロディーテ、サ・マ! 様を付けなさい。あなたは私の所有物でしょ?」
「私は…あなたの所有物じゃない!」
「じゃあ、あの男の所有物になったの? …やらしいー」
アフロディーテは下卑た笑みを浮かべている。
自分が苛立っているのがハッキリとわかる。
「バベル様をあなたと同じにしないでください! あの人はあなたなんかよりもずっと…気高い人です」
「ふん、生意気。まあいいわ。それを見るに、彼はもう終わりね。もう少し、楽しませてくれると思ったけど。所詮たかが人間か…」
アフロディーテはつまらなそうに冷ややかに視線を流す。
唇をかみしめる、やはりバベル様はもう手遅れ…。
いや、そんなことはないと頭を振る。
踵を返し、バベル様のところへ向かおうと駆け出す。
すると目の前の地面が突然破裂した。
遅れて破裂音が聞こえてくる。
「まったく、無礼な女。主人が主人なら、所有物も所有物ね」
振り向くとアフロディーテは鞭を構えていた。
「まずは、あの咎人。そしてあなたよ。大丈夫…あなたの相手はモーちゃんじゃないわ。そうね…ゴブリンの群れとかどう?随分長いこと禁欲させていたから、とってもエキサイティングなことになると思うわ」
アフロディーテは邪悪な笑みを浮かべる。
その光景を想像してしまう。
震えて足に力が入らない。
奥歯がカチカチと鳴る。
「ああ! 怖いの? 大丈夫、心配ないわ。その時はあなたのバラバラになった主人の死体も一緒にいさせてあげる。どう? これなら怖くないでしょう?」
アフロディーテは満面の笑みを浮かべ、ケタケタと笑い声をあげた。
自分が情けなかった。
アフロディーテの言葉だけで恐怖に染まってしまっている自分が情けない。
バベル様は神に打ち勝つために禁忌を犯してまでも抗っている。
許されないことだ。
しかしバベル様の、あの時のあの、ほんの少し触れてしまえば崩れ落ちてしまいそうなあの表情。
そうだ、私は決めたんだ。
始めて会ったあの時から、あの瞬間から、バベル様のために。
私は力を振り絞って駆け出した。
「はあー、煩わせないでよ」
アフロディーテは心底呆れたような声をだす。
足がつくはずの地面が破裂し、私はものの見事に転び、バベル様の左腕を放り投げてしまった。
「あのね、あまり怪我させないようにするのって大変なのよ。虫を潰さないようにするのと同じで大変じゃない?」
アフロディーテはさも難しいことをしているように大げさに言った。
私は無視して地面を這いあと少しで手が届くところで、左腕は遠くへ吹き飛んだ。
「あらあら…飛んでっちゃったわね。また拾いに行かなくちゃ」
クスクスとアフロディーテは笑っていた。
この性悪くそビッチと今までの人生で言ったことのないくらい薄汚い悪口を心の中で叫ぶ。
アフロディーテは優雅に歩きながら近づいてくる。
私は『ウォール』を小声で唱え、アフロディーテの足元に小さな『ウォール』を作った。
目論見通りアフロディーテはそれに躓き、頭から転倒した。
「…虫けら如きが何すんの!」
今までの優雅さなど捨て去り、アフロディーテは声を荒げて叫んだ。
良いザマと心の中でほくそ笑む。
するとアフロディーテの額から血がほんのりと垂れてきた。
アフロディーテはその血に気づくと、顔の血の気が引き真っ青になる。
「え? …え? …嘘、嘘でしょ…血? 私の、この、美しい顔から? 嘘でしょ? 嘘。嘘。嘘」
アフロディーテは壊れたように嘘、嘘と何度も何度も髪を掻きむしりながら呟き続けている。
その美しい黒髪が無残に乱れ始めたとき、アフロディーテは首を傾けながら私を見つめる。
やってしまったかもしれない。
アフロディーテの瞳には何の感情もなくなったかのように光を失っていた。
それが怒りを通り越した感情から来ているものであることを私に理解させるのは十分であった。
「何をしたかわかっている? わかってないわよね? この世で、最も! 美しい顔に、あなたは…傷をつけた。虫けらよりも、ずっと! 醜い! お前如きが! この世の誰よりも、美しい…私を…美の神である私を! 許せない。許せない。絶対に…許さない!」
アフロディーテは無機質に、無感情に、終わりにかけてだんだんとボリュームを上げていく。
アフロディーテは静かに天井から糸につられるように立ち上がる。
全身の細胞が逃げろとサイレンをかき鳴らすが、蛇に睨まれた蛙のように指一本動かすことが出来ない。
ごめんなさいバベル様、と心の中で呟いたとき何か巨大なものが吹き飛んできた。




