6:葛藤
大分遠くまで来た。
あれから俺は息を切らしながらも、止まることなく走り続けた。
時折響く爆音に目を奪われそうになるも、懸命に堪えながらあの場から逃げ続けた。
「クソ……クソ、クソ、クソッ!!」
これでいい。そう自分に言い聞かせながら走る。
あの場にいた四人のうち、二人は年端も行かない子ども、一人は戦う意思などまるでない臆病者。
どう考えても足手まといでしかない奴等が傍らにいては、石蕗はまともに戦えない。
それにあいつは振り返るなと俺に言った。もしここで俺が後ろを向けば、命を懸けて逃がしてくれた石蕗の勇気を冒涜することになる。
好都合だ。俺は戦うのも魔術も大嫌いだ。たった一人の犠牲で、大勢の人間が助かるならいいじゃないか。
これでよかった。
これで、よかったんだ。
……そう。これで──
「お兄ちゃん、泣いてるの?」
「……は?」
「泣かないで?はい、これ!」
「いや、泣いてなんか……っ」
ない。差し出されたハンカチを断りながらそう言おうとした時、頬を流れる熱い雫の存在に気づく。
それと同時に悟った、心に巣食う黒い靄の正体。
「…………俺は、何で」
どうして逃げたんだ。
本当なら、俺が残るべきだったんじゃないのか。
自分より遥かにか弱い異性に任せて立ち去るのではなく、俺が時間を稼ぐべきではなかったのか。
今更すぎる「後悔」は、冷たい鎖となって俺の心をきつく締め上げる。
「何を、してるんだ……!!俺は……っ!!」
痛み出す胸を右手でぐっときつく掴む。当然その程度で落ち着くはずもなく、次第に呼吸が乱れ始める。
脳は己を責め続けているというのに、身体はまるで時が止まったかのように微動だにしない。
いや、時が止まっているというのは適切な表現ではないだろう。
あの日からずっと、前にも後ろにも行くことなく止まったままなのは、俺自身なのだから。
「はぁ、はぁ……!!」
得体の知れない恐怖と自責に苛まれた俺は、胸の苦しさに耐えながら呆然と立ち尽くすしかなかった。
全身が怒りで震え始める。例に漏れず小刻みに振動を刻んでいた左手から、握っていたはずの小さな手が離れる。
目をやると、握っていたはずの少女の手は本人の顔の前で祈るようにぎゅっと握られていた。
「実柑姉ちゃん、何してんの?」
「さっきのお姉ちゃんが助かりますようにらって祈ってるの!ほら梨久も!」
「あ!う、うん!」
そう言って実柑と梨久という名の姉弟は、来た道を振り返って祈り始めた。それを見た俺は「強い奴らだ」と感心していた。
自分達が危険に晒されているにも関わらず、この二人は他人を思いやっている。しかもたった今会ったばかりの名前も知らない女のことを慮って、届くかもわからない祈りを捧げ続けている。
俺とは大違いだ。
俺はいつも自分のことばかりで、いつも覚悟が足りない。
それに比べてこの二人は、逃げてばかりの臆病者とはまるで違う。
勇者という称号がこんな腐った世にあるとしたら、それはきっとこいつらの為のものだろうと思いながら呟く。
「お前達は強いな」
「え、あたし達?」
「あぁ。お前達みたいに心の綺麗な奴らが力を持っていたら、どれほど良かったか」
そうだ。俺のような臆病者の屑よりもよっぽどこいつらの方が強い。
なのになぜ、選ばれたのは俺だったのか?
戦う意思も誇りもない、醜く弱い俺がなぜこの力を持つに値すると見定められたのだろうか?
自らを嘲ける俺に対し、そんなことないと少女が首を振りながら言った。
「お兄ちゃんも強いよ!」
「強い……?俺が?」
「うん!だって、あたし達を守ろうとしてくれたじゃん!それはお兄ちゃんの心が綺麗で、すっごく優しいから出来たんだよ!」
俺を見つめる瞳が、穢れを知らない純粋な輝きを放つ。
言いたいことを言って満足したのか、少女は曇りなどないまっすぐな笑顔を見せてきた。屈託のない笑顔は、心に根強く巣食っていた恐怖を祓い、迷いを生み出す。
「……そうだ」
もう二度と、戦わない。
そう決めたはずだった。
「決めたんじゃ、なかったのか」
あの日、もう二度とこの拳は振るわないと誓った。もちろんそれを忘れたことは一度だってない。
なのに。
本当にそれでいいのかと、自分の中の自分が強く問いかけてくる。
逃げたことへの後悔と、戦うことへの恐怖に板挟みにされ、心が悲鳴を上げ始めた頃に、それは聞こえた。
『迷った時は、自分に従うんだ』
亡き父が、俺と姉に告げた言葉。そしてそれは、揺らいでいた俺の意思を徐々に固く強固なものに作り替えていく。
「……俺は」
これから先も、なんてことは言わない。
今日この瞬間、一度きりでいい。
この拳を振るうことを許してくれないだろうか。
「…………ふぅ」
いるかどうかも分からない神に問い、彼らが答える間もなく覚悟を決めた俺は姉弟に向き直る。
何かを悟ったような表情の少女と、何事かと呆ける少年の目を、交互に見つめる。
「弟と仲良くな」
少女に告げると、元気よく頷いた。それを見てから少年に向き直り、豪快に頭を撫でながら語りかける。
「姉ちゃんはお前が守れ。絶対にだ」
かつての自分が出来なかったことを託すかのように、少年の目を見つめながら告げる。
そんな俺の願いが届いたのかどうかは分からないが、少年は目を逸らさずに何度も頷いていた。
そんな彼の強い視線に微笑んで返し、不測の事態に備えて常にポケットに備えている転移用の魔力結晶を握らせる。
「心配するな。あの姉ちゃんも、お前らも、絶対に助ける」
今一度強く告げ、屈んでいた上体を起こした俺は腰を持ち上げ、先程歩いてきた道を引き返す。
「…………死なせない」
今もなお鳴り続けている地響きが、戦いはまだ続いているというとを暗に示している。
戦闘の副産物か、離れの森は荒れ果てていた。
倒れた木々やむき出しになった地面から察するに、あの巨人が街に足を踏み入れたらどうなるかは容易に想像がつく。
絶対に止める。
その為に、俺は今走っている。
「もう二度と、誰も……!!」
決意は魔力に変わり、蹴り出す足の力を強めた。吹き荒れていた向かい風は、いつしか優しく背を押すそよ風に変わっていた。