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花を育てる人

作者: 千日紅





 この年になって、遺書というものを書いてみたく、筆を執りました。


 私はやはり、ちょっとの価値もない女として、このまま死んでいくのでしょうが、こうして机に向かっている気持ちを、なんと申し上げればいいか、こうして記し続けるうちに思い浮かぶのではないかと、仄かな期待のようなものを持っていることは確かです。



 私は花を育てて暮らす老人です。人は私を魔女と呼びます。

 それは、私が売る花の中に、薬となる珍しい花が含まれていること、それから、私の容貌に由来します。

 魔女とはあやしい薬を使う醜い老婆でしょうね。

 その通り、私はひとえに醜いのです。親ですら忌み嫌って縁を切られたほど、大変、醜いのです。幼い頃から今まで一貫して、私は醜い生き物でした。

 額は広くはげ上がり、鼻は潰れて横に広がり、瞼の重たく被さった細い目はどこを見ているかわかりません。分厚い唇は卑しげで、いつも食べ物を欲しがっているように見えます。顔中には面皰がふき出て、これがまた決まって腐って、臭い汁を垂れ流すのです。

 顔が醜いのみなら、隠すこともできたでしょうが、生まれつき私の背中は曲がっていて、手足は短く不格好で、引っこ抜かれた切り株みたいな体つきなのです。歩くには、鶏みたように顎を突き出しながら、足を引きずらねばなりません。従って、私は嫌悪の目を向けられているのをわかっていても、のろのろと醜い姿をさらし続けるしかないのです。

 毛虫を嫌いになるように、蛇を嫌いになるように、人々は私を嫌いました。善良な人は、私への嫌悪を隠そうとして失敗しました。誰も悪くないのだ、と早い時分に私は悟りました。両親も、街の人々も、私の醜さを憎んでも、私を憎みたいわけではないのです。彼らを苦しめているのは私なのです。

 私は自然と、街を離れ、一人で山奥に暮らすようになりました。



 何の喜びも、楽しみもない、ちっぽけな日々でした。

 世の中の私以外のすべてが、美しく、うらやましく見えました。そのうち、私は自分の手の届く美しさを求めるようになって、出会ったのが花でした。

 花は私の醜さを知りません。私は種を土にまき、水をやります。私は罵りや冷たい視線を背に受けて、瞳には花だけを映しました。

 私は花と話すことはできません。花になることもありません。花は確かに美しく、それゆえに私を一層孤独にしましたが、花を捨てることはできませんでした。美しさとはそういうものだと思うのです。

 うつくしければきっと、あいされたのでしょう。

 私は生まれてこの方、愛された記憶がございません。愛されなかったという思い出だけは育ててきた花の数ほどあるので、面白いものです。




 あの子の話をしなければいけませんね。私があの子と出会った日のことを。

 女達が、子供を産んで育てる年になっても、私はひとりでした。その頃には、私はすでに魔女と呼ばれていましたし、もちろん夫になってくれるような男の方もいませんでした。ひとりで花を育てて、そのまま死んでいく、そんな風に自分の行く末をおぼろげに描いていた、ある日のことです。

 私が住む山奥の小屋の前に、ひとりの赤ん坊が置き去りにされていたのです。

 彼は、私が育てた花々のあいだに、朝露のように置かれていました。

 私は彼を抱き上げました。

 今でも克明に思い出すことができるのです。その時の軽さや、頼りなさを。空がどんなに青く透き通っていたかを。遠くから聞こえてきた鳥のさえずりを。風があたたかく私の剥き出しの腕を撫で、日の光がやさしく肩を温めていた日のことを。

 小さい顔でした。つんと上を向いた小さな鼻と、むずむず動いている唇。やわらかな髪は額にかかっていました。その下の、頬に影を落とす長い睫。草笛の音のような寝息。甘酸っぱい幼い命の匂い。

 私は彼を家に連れ帰りました。そして、花にするように大事に育てました。

 彼はすくすくと育ちました。よく食べ、よく眠り、よく遊び、よく学びました。




 あなたの手を引いて、よく、散歩をしましたね。

 躍るようなあなたの足音が、私のまわりにあるとき。

 すぐに新しい発見をして、私に教えてくれるあなた。

 あなたは、私の先に走って行っては、振り返って「おいで」とせかすのです。

 私は早く走れません。

 ひとりで行かないで、危ないから。と私は言います。

 もし、先に行ったあなたが、私の前から消えてしまったら、私は息の仕方も忘れてしまう。




 私は彼に、私が知る限りの、想像しうる限りの、善いもの、美しいものを与えたのです。

 不思議なことに、彼の目に私の醜さへの嫌悪が宿ることはありませんでした。おそろしいことに、私に抱きついて、「大好きだよ」とさえ言いました。

 ふたりぼっちの狭く閉じた花園で、彼は淋しさを知らないままでした。

 ずっとずっと側にいてね。寝る間際、昔話をしてやると、決まって彼は言いました。

 ずっと、ずっと。

 蝋燭の細い灯りに照らされた、産毛が輝く丸い頬。健やかな眉毛。赤く染まって落ちる夕陽に似たぬくもり。

 いつまでも、時が止まっているようでした。


 彼は、真っ直ぐな瞳とやさしい手を持った若者になりました。

 成長につれ、山奥の狭い小屋が、窮屈に彼を押し込めることは、明らかでした。

 彼には広い世界が必要でした。

 当然です。私が美しいと思うものすべてを与えた彼、その彼には、広い世界がふさわしい。

 そして、彼を、きっと誰もが愛するでしょう。

 彼こそが、愛されるべきなのです。


 そして、私は彼の足かせでしかないのでした。





 私は彼を捨てました。幾許かの路銀を与えて、小屋から放り出したのです。

 これ程、冷酷な言葉が出るのかと、自分でも、本当はこの子を憎んでいるのではと疑ってしまうくらい醜い言葉を浴びせかけました。

 彼は泣いて私に縋りました。私よりも大きくなった体を縮こめて、いやだ、いやだと泣きました。

 私は足で彼を払って――こんな足、切り取ってもいいくらいです。彼を蹴りつけた足など――出て行けと怒鳴りました。

 彼は何度も叫びました。ここにおいてくれ、何でもするから、捨てないで、と。

 私はやっとのことで、彼を小屋の外へ押し出しました。彼はしばらく、小屋の外で私の翻意を待っていました。

 それでもとうとう、涙も涸れ果て、しわがれた声で、「いつか」と言ったきり、あなたは去って行きました。




 もうひとりで行ってもいい、あなたは私が知る限り、もっとも美しいのだから。

 どんな苦難もきっと乗り越えられる。

 だから、あなたは私の手の届かないところへ行ってもいいのです。


 あなたの手を引いて、よく散歩をしましたね。

 あなたの手が、私の手の中にありました。

 あなたが私を信じてくれたように、私はあなたを愛しています。





 ここまで書いてみて、私は自分のうちにある気持ちがなんであるのか理解できた気がします。

 この気持ちも、私が消えれば私と一緒に消えてしまう。それが少しだけ……悲しかった。

 今でも夢に見ます。小さなあなたは眠っています。あつがりなあなたの足が毛布を蹴り上げ、ふわんといい匂いが漂いました。

 あれはあなたの匂いでしたね。素敵なものを全部小さな体に詰め込んで、あなたからはいつもいい匂いがしました。

 お日様でしょうか。風でしょうか。水でしょうか。おいしい食べ物でしょうか。あなたは頼もしい食いしん坊でした。それでも、やはり、たとえるなら花でしょうか。

 あなたからはいつも、この上ない、いい匂いがしたのですよ。

 私はもうずっと、それを覚えているのです。



 時が経ちました。あなたに出会う前までの時間より、あなたがいなくなってからの方がうんと長いのです。

 あなたと過ごしたのは、人生で一番短い間のことでした。

 その短い時間が、巻き鍵となって私のゼンマイを巻くのです。

 ぎしぎし、手足を軋ませながら、私は毎日花に水をやります。

 肥料をやり、虫をどけ、草を刈り、花を育てます。



 私が醜く生まれたのは、誰のせいでもありません。仕方のないことです。けれども私は醜さゆえに、卑屈になって、恨んでいました――自分自身を。もう少しまともな顔なら、もう少しまともな体なら、そんな風にまわりをうらやみ続けました。

 みんなは楽しそうに笑っている。でも、私を見ると決まって彼らの笑いは消えてしまう。悲しかった。醜いから仕方がない、わかっていたけれど、それでも悲しくてならなかった。

 悲しくて、悲しくて、愛されないのが悲しかった。愛されたいのに――愛したいのに――その資格もない、と思っていました。

 けれど、今、やっと思えるのです。

 資格など、愛を行うのに、あなたを愛することに、資格など必要ではなかったと。


 私は決して美しくはありませんが、美しいものはいつも私の傍らにありました。

 それから、もっとも美しいものの思い出は――あなたと過ごした日々は――私の魂にきちんとしまってあるのです。

 私は花とともにありました。

 花も、私とともにありました。

 ただそれだけなのです。

 ただそれだけのことが、何より大切なのです。




 誰が読むこともないでしょうが、遺書と言うくらいですから、これだけは残しておきたいことを書くのであれば、私はうつくしいものを愛しました。

 私はあなたを愛しました。どれ程の悲しみも、あなたを愛した喜びに勝ることはありません。

 いかがでしょう、どうやらこれが私の今の気持ちのようです。

 ああ、もうすぐゼンマイが止まる、けれどいま、私はとても安らいでいるのです。

 私は、あなたを愛したことで、満たされているのです。






 ドアを叩くのは誰でしょう。

 こんな魔女のところに尋ねてくるなんて、奇特なひとですね。

 すっかり耳も遠く、目も悪くなってしまったので、何をするにも一苦労です。

 ああ、こんなことを書いている間にも、ドアを叩く音はひどくなります。

 外から匂いがします。何でしょう、


 花よりもなお

 花のようにかぐわしい、


 うつくしいにおい



 それは、いつか


 あなたの








 鶏みたように のところは夏目漱石あたりによく出てくる使い方で、「みたようだ」から助動詞の「みたいだ」にのち変換した言葉です。響きが好きなので使っています。お知らせありがとうございます!

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[一言] 純文学ってジャンルはあまり読まず、この作品もランキングから拾ってきてとりあえず読んでみるかって感じで読み始めたら、一気に作品の中に引きずり込まれました。 私は読み終えた作品の余韻に浸り、…
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