1-4 なんなんだ、こいつ……?
少女に歩み寄り、まじまじと刀を見つめた。
すらりと伸びた刀身は、少女の瞳のように瑞々しく濡れて光る。
俺はふと、刃先の尖端が僅かに赤くなっていることに気づいた。
「君、どこかケガしてない?」
「ケガ、ですか?」
「刀の先にうっかり触ったとか」
「いえ、触ってない、と思いますですけど」
柄を持っていない右手を開いた少女は、幾度も手を裏返してどこにも負傷がないのを確認した。
「あれ? おっかしいなー。じゃあその赤いのって」
『それお前の血だよ』
「俺の血? マジかよ」
『だってお前斬られてんじゃん』
「はぁ? 嘘だろ、俺どこも痛くないんだけど……って、え?」
「……え?」
…………。
……誰だ?
……今の声、誰?
少女を見る。
全く要領を得ない顔でこっちを見ている。
「今……何か言った?」
プルプルプル。
両眼を見開いたまま首を振る少女。
『ちげーよ。俺俺、俺だって』
「…………!」
ま……まただ。
また聞こえた。
少女の唇はぴくりとも動いていない。
それにどう考えても男の声。
しかも、肝腎の声は俺のすぐ耳許から聞こえた。
誰もいない、いないはずの、俺の耳許で。
何者かの、声がする。
「あっ……!」
今度は弱々しい叫び声がした。
今一度少女を見る。
叫んだのは、確かに眼の前の女生徒だった。
「き、切れてます、です。腰のところ、Yシャツが、ちょっとだけ……」
言いながら、少女は心配そうに俺の右脇腹を覗き込んできた。
覗き込むのはいいとして、照準を定めるように日本刀を身構える必要は、果たしてあるのだろうか。
「うわっ!」
悪寒が走る。
俺は横に飛び退いた。
一瞬前まで俺がいた空間を、濡れた刀身が霧のような飛沫を飛ばして鋭く薙ぎ払った。
「なっ何すんだおい!」
「ちち違うです、腕が勝手にです、本当です」
少女は柄を持つ左手を押さえつけるように右手で握り締め、華奢な肩を苦しげに上下させている。
「腕が勝手にって、んなアホな」
不意に頬を赤らめ、少女は肩を竦めて俺の陰に身を潜めた。
肩越しに振り向くと、裏庭の様子を見咎めた数人の生徒が、歩みを止めずにこっちを見ている。
見られたくないのは判ったけれども、訳もなく俺を斬りつけたり隠れ蓑にしたり、こいつ実は相当ひどい奴なんじゃないか?
そんなことを考えていると、
『こりゃあ医務室に直行だな。ケガもしてることだしさ』
……またしても声。
耳許で、眼に見えない、誰かの。
声だけが聞こえる。
「だ、誰だ? てか、どこにいる?」
『おっと、そこの女に迂闊に近づくなよ。お前逃げ足だけは速いらしいが、護身術どころか武道の心得ゼロだろ』
だから、お前は一体……。
『俺か? 俺はまあ、今眼が醒めたばっかだから細かいことは知らん』
今、眼が醒めた、だと?
なんだそれ。
『言った通りの意味だよ。呑み込み悪いなお前。ついさっきまで寝てたんだわ、きっと』
寝てた……きっと?
どこで?
『ここで眼醒めたんだから、ここで寝てたんじゃねーの? つーかさぁ、そういうお前こそ誰なんだ。人様の名前を訊く前に、まず自分から名乗るのが筋ってもんだろ』
そりゃそうかもしれないが。
ていうかお前……。
お、俺の心を読めるのか?
『そういうことらしいな。どうやらお前の中にいるみたいだし』
お、俺の中にって。
俺の、心の中か?
『心かどうかは知らん。取り敢えずここはお前の中だろ。そんでもって俺はお前の外には抜け出せそうにない。まっ、そういうことなんで、よろしく頼むぜ、名も知れぬ我が同胞よ! ははははっ』
なんなんだ、こいつ……?
何がよろしく頼むだよ。
一体何が、どうなってやがんだ?
俺の困惑を嘲笑うかの如く、脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かぶ疑問符の数々。
無為な時の流れは一向に疑問を解明する手助けにならず、腰の辺りにじんわりとした軽い痛みを感じるまでには更なる時間を要した。
手放すことのできない刀を手にした女生徒と、耳に飛び込んでくる謎の声という非現実的な現実の前に、俺は渡り廊下の喧噪が収まるまで、為す術なく立ち尽くすしかなかった。
『いつまで突っ立ってんだお前。いいからさっさと医務室行けよ。お前この学校の生徒だろ?』
医務室っていうか、保健室……。
『どっちでもいいわ! なんなんだてめーは喧嘩売ってんのか』
なんなんだ。
おい、なんなんだ。
なんなんだ、こいつは?
こいつは何者で、どうして俺の中にいる?
俺は……俺はどうしてしまったんだ?