8-3 陥穽の果て、光の果て
ローブ姿の一人が投じた透明の球体は、アルティアを庇ったサナギの肩先を擦り上げた。
「いッ……!」
一切の攻撃を受けつけないはずのサナギの輪郭から、僅かながらも鮮血が散る。
「…………!」
非常にまずい。
まずすぎる。
サナギの切り札が無効化された。
俺を助けるどころか、このままじゃ二人のほうが先にやられちまうぞ。
どうする?
俺はどうすればいい?
ほかに手は、ないのか。
……こうするしかないのか。
『なあ、クシナイアンってなんだ?』
あ?
なんの話だ。
『いや、今あの憎たらしいローブどもがそんなこと言ってたから』
いい加減にしろよお前。
今はそれどころじゃないんだ。
俺は一か八かの賭けに出ることにした。
机の陰から飛び出し、奴ら目がけて突っ込んだのだ。
「追一、ちょっと何してんの!」
「よせ、山田!」
そう、俺は確かに見たんだ。
サナギの肩を掠った球体が、壁を素通りしてその向こうへ飛んでいったのを。
サナギとアルティアを攻撃可能になった透明の球体は、逆に普通の物体には効力を発揮しなくなったんだ。
てことは、隠形法にかかっていない、単なる人間に過ぎない今の俺には、あの球体は通じないんじゃないか?
ローブの一人が透明球を投げてきた。
反射的に眼を閉じる。
最悪の事態が脳裏を過ぎり、四肢が震える。
為す術なく額に命中……するはずだった球体は、些かの感触も残さず後方へ飛び去っていった。
オッケー読み通り。
これなら、行ける!
『読み通りの割にゃ、結構リアルに頭カチ割られるの想像してたよなお前』
うるさいな。
これなら行けるんだよ。
傍らのもう一人が、性懲りもなく球体を放ってくる。
が、今度は霊子を帯びた通常の鉄球。
当たればそのまま病院行きだ。
もちろんそこは計算済み。
俺はそれを左に躱した。
同時にバッグから俺の唯一の武器、マークⅡを取り出し、敵の眼前に翳す。
……とうとう俺は、逃げの一手を放棄することになるのか。
引き金に指をかけ、そして。
「うおぉっ!?」
思わず声が出た。
不意にローブ姿が天井へ跳ね上がったのだ。
と、飛んだ?
いや、敵が上空へ逃げたんじゃない。
逆だ。
俺の体が下に沈んだみたいだ。
ん……下に沈む?
なんでだよ。
下は床だろ?
けれども俺の体は、間違いなく膝頭近くまで床に沈んでいた。
……床にぽっかり開いた、虹色に変色する謎の窪みのせいで。
「な、なんだこりゃ?」
「追一! 大丈夫!?」
「空間を、歪ませた……!」アルティアの声がいつになく上擦っている。「もしやこやつら、地下に住まうクン・ヤン……クシナイアンの末裔ではないか? 失われた神聖言語を話し、独自の物理法則に従い事象を改変するという」
クシナイアン?
「いやしかし、クシナイアンは時代の裂け目に、世界を震駭する者と共にしか出現しない定めのはず。だとしたら、既にワールド・シェイカーは世に出ていて、そして〈禍座〉も……?」
譫言のようなアルティアの言葉は、半ばで途切れた。
なんの抵抗もできず窪みに沈み込んだ俺は、右も左も判らない凄まじい奔流に呑み込まれてしまったからだ。
全身が揺さぶられる。
頭がグラグラする。
巨大な洗濯機の中に放り込まれたような、異様な躍動感が全身を包んだ。
それでもどうにか眼を開けたが、暗すぎて何も見えない。
揺さぶりは次第に小さくなり、続いて頭頂のほうへと際限なく突き進んでいく感覚。
いや、これは。
頭から下に落ちているのか。
ごくたまに寝入った瞬間に陥る、あの落下する感覚とは比べ物にならない、どこまでもどこまでも落ち続けていく感じ。
もしこの先に堅いコンクリートでもあれば、病院行きどころか確実に即死だ。
……おい、やけに静かだな。
とうとう喋るのも諦めたか、ソウル・ブラザー?
『うるせーな。考え事をしてるんだ。邪魔するな』
考え事?
何を今更。
俺たちは重力しか存在しない暗闇に突き落とされて、ひたすら落下していくだけなんだぞ。
『聞き憶えがあるのは間違いねーんだ。俺は……俺はどこであの言葉を聞いたんだ?』
言葉?
俺は発言の真意を問い質そうとしたが、頭上が急激に明るくなったのを見て、これ以上こいつに構うのをやめた。
暗闇から一転、周囲は。
白。
俺自身を除く全ては、何もかもが純白に輝いていた。
落下の感覚はないが、立つための足場もない。
奇妙な浮遊感の直中で、世界の光度はいよいよ強くなっていく。
もう眼も開けていられない。
俺は瞼を閉じた。
光は閉じた瞼の裏側さえも明るく照らし、純白に塗り替えた。
ダメだ。
眩しい。
眼が。
潰れる。
あのサングラスをかければ、少しは和らぐかもしれない。
藁をも掴む心境で、俺はアルティアのバッグを探ろうとして、はたと気づいた。
ない。
サングラスはおろか、バッグそのものが手許にない。
また落としたのか。
いつ?
思い出せない。
襲い来る光に喰い荒らされていったのは、視界だけじゃなかった。
意識が……意識までが、
白く、
朧に、
遠く霞んでいく。
……そうだ。
あのバッグには、アルティアと〈マグヌス〉を繋ぐ、命綱のタブレットが入っていたはず。
手ぶらで戻ったら怒鳴られる。
ここんとこ怒られてばっかりだ。
全くツイてない。
『何しょーもねーこと考えてんだ。気が散って集中できねーじゃねーか』
人生の最期に思い浮かべることなんて、こんなもんだろ。
『なんだ死ぬのかお前?』
さあな。
でも、死ぬのも意識がなくなるのも、似たようなもんだろ。
ところで、俺が死ねばお前はどうなる。
やっぱり死ぬのか?
それとも、ほかの誰かに取り憑いて生き延びるのか。
『死んだ後のことなんか、死んでから考えりゃいいんだよ』
なるほど。
お前らしい。
それだけの図太さがあれば、俺の体を乗っ取って生き続けることもできるかもしれない。
『帰れるかどうかも判らねーのに、帰った後の心配してるお前のほうが、よっぽど……だっつーの……ったく……やがって……』
声が、
小さくなっていく。
抗いようのない睡魔がやって来た。
意味のあるものは何もかも遠ざかり、
光だけが、
強烈に、
大きく拡がって、
そして……。




