年の瀬の人間消失
「ああ、とりあえずその段ボールはドアのそばに運んどいてくれればいいから。ほら、そこにもういくつか並べられてるでしょ。スーツケースのあるところよ」
「了解です」
三年の美里先輩の指示に従い、抱えていた段ボールを出入り口付近の床に降ろすと、僕は腰をさすり、ふうと息をつく。それから、雑多な印象もだいぶ薄れ、小ぎれいになったミステリー研究会の部室を見回した。
十二月二十八日。今年ももう終わりに近づき、新年の足音が聞こえてくる年の瀬。僕たちミステリー研究会は、部室の大掃除にいそしんでいた。授業もあり、四限が終わってから参加した僕は、遅れた分を取り戻すべく、一生懸命働いていた。
「お疲れさま」
と、部室の奥で窓ガラスを拭いていた江野先輩が振り向いて声を掛けてくれた。
「これで全部ですかね」
僕は床に並べられた段ボール三つを見下ろしながら言った。
「うん、そのはずだけど」美里先輩は腰に手を当て、「ねえ、そうよね、江野君」
「ああ、そうだよ。他のはすでにスーツケースに詰めてある」
と、江野先輩は三つ並んだ段ボールの隣に置いてある赤いスーツケースを指さした。
「へえ、わざわざ持ってきたんですか」
一部が空になった本棚を拭いていた二年の神崎先輩が、驚いたように言った。
「まあね。流石にこれだけの量をまとめて運ぶのは大変そうだったから」江野先輩は苦笑して、「それでもやっぱり、全部は入らなかったけど」
どうやらここにある段ボール三箱は、スーツケースにも入りきらなかった分らしい。僕は先輩がわざわざ持ってきたという赤いスーツケースをもう一度見た。人がひとり入りそうなほどの大きさだ。それでも入りきらない分がこんなにあるとは、先輩がこのミス研の蔵書にどれだけ貢献してきたかということが改めて感じられる。そして、その先輩がもう来年にはそれらの本といっしょにいなくなってしまうという事実に何とも言えない寂しさを覚えた。
江野先輩は四年生で、このミステリー研究会のいちばんの古株だ。ミス研には壁一面をすべて覆うほどの大きな本棚が左右の壁にあり、その本棚にある本のほとんどは先輩の個人的な蔵書だった。すでに就職先も決まっていて、来年にはミス研を去ってしまうので、先輩は部室に置いてある自分の本を回収することにしたのだった。
「これでもだいぶ厳選したんだけどね。うーん、しかしなあ。やっぱ、どれももう二、三度は読みたい作品なんだよなあ」
これら段ボールとスーツケースに詰まった本は全て先輩自身のものだが、実はこれがすべてではない。江野先輩は優しいことに、部室に置いてある自分の本のいくつかを、そのままミス研に寄付したのである。それは左右の書棚のそれぞれ半分の量を占めていて、そもそも先輩自身の本が本棚のほとんど全てを占めていたということを考えれば、つまり先輩は自分の蔵書の半分をも寄付したことになる。かなりの太っ腹だ。
「ちょっと、どんな本があるか見ていいですか」と、僕は江野先輩に尋ねた。「来るのが遅れたせいで、スーツケースや段ボールに本を詰める作業には全然参加してないんですよ、僕」
「ああ、いいよ。と言っても、そこに入ってるのは全部これまで本棚にあったのと全く同じだからね。新しい発見はないと思うけど」
「いえ、こうして本棚がすっかり空になってしまうと、これまでどんな本がここに並んでいたかっていうのが、あんまり覚えてなくて」
「おいおい」と江野先輩は苦笑する。「そんな記憶力で大丈夫かい」
「今まであまり意識していませんでしたからね。本棚の中から気になっていた本があったら借りて読んでみるといった感じで。まじまじと、どんな本が揃ってるんだろうって意識して眺めたことはなかったような気がします」
「ふうん。そういうもんか。ああ、けど、スーツケースのほうは開けないでおいてくれよ。そっちは本を詰めこむのにだいぶコツが必要だったんだ。だから、たぶんいったん開けると元に戻すのが面倒だと思うんだよ」
「了解です」
「すみません。俺もいいですか」
すると、神崎先輩も本棚掃除の手をとめて僕のほうにやってきた。
「俺も本を詰める作業には参加してないんですよ。それに、今、菱川が言ったように、俺もどんな本があったのか改めて確認してみたくなって」
「あっ、じゃあ、あたしもあたしも」
と、美里先輩も加わる。
「あれ、先輩たちも本を詰める作業に参加していなかったんですか?」
「うん」と、美里先輩は頷き、「あたしが来た時には、段ボールにはほとんど詰め終わってたよ。少なくともその左側の本棚にある分は詰め終わってたみたい」
「俺が来たのも美里先輩とちょうど同じくらいだったかな。昨日あらかじめ言っていた通り、三限終わってすぐ。右側の本棚にある本を詰めるのを任されただけで、左側の本棚の本を詰める作業には参加していないんだ。で、詰め始めて少ししたらお前が来たから、あとはお前に任せたってわけ」
「なるほど――って、ええっ。じゃあ、スーツケース一個と段ボール二箱分は江野先輩ひとりでやったんですか。うわあ、お疲れさまです」
「いや、流石にそれだけの量をひとりではやってないよ。小諸さんにも手伝ってもらった」
「あれ、彼女、今日来てたんですか」
小諸さんは僕と同じ、今年このミス研に入部したばかりの新入生だ。小柄な女子で、僕が密かに気にしている娘でもある。残念なことに今日はまだ姿を見かけておらず、特に授業はないけど今日の大掃除にはきちんと参加するつもりだと昨日の活動では言っていたのにどうしたのだろうと思っていたところだった。
「うん。二限終わってすぐくらいのときに来てね、作業を手伝ってくれた。けど、用事があるみたいでしばらくしたら帰っちゃった。美里や神崎君が来る直前だったかな」
「ふうん。じゃあ、すれ違いだったんだね」と、美里先輩。「ちぇっ。昨日会えなかったから、久しぶりに会うの楽しみにしてたんだけどなあ。あの娘、小っちゃいくて可愛らしいんだよねえ」
彼女がいないのを残念に思うのは僕も同じだった。
「ねえねえ、それよりも、さっさとどんな本があったのか見てみましょうよ」
と、神崎先輩が僕たちを促す。
僕は頷いて、段ボールを開く。三つめの段ボールに関しては、本を詰める作業に関わっていたので、すでにどんな本があるかをだいたい把握していたが、いちおう全部の段ボールを開けてみた。
どの段ボールにも容量に余裕を持たせているらしく、だいたい七分目から八分目まで本は詰められていた。
先輩たちがしゃがんで、段ボールの中を覗き込む。
「うわあ。『トレント最後の事件』じゃん。懐かしい。おっ、すげえ。こっちにはクイーンの国名シリーズが全部そろってるよ。しかも創元推理文庫と角川文庫、どっちもある。そういえば、去年このサークルに入った時にはほんと驚いたよなあ」
と、神崎先輩は子供のように無邪気な声を上げて、本を何冊か手に取った。
「おいおい、手に取るのは別に構わないけど、せっかく段ボールに詰めたんだから、ちゃんと戻しとけよ」
江野先輩は窓を拭きながら言う。
「わかってますよ」
僕も神崎先輩ほどではないが、どこか興奮した気分になった。箱の中に詰められている推理小説の中にはすでに読んだことのあるものから、いつか読もうと思ってまだ読んでいないもの、作者も題名もまるで聞いたことのないものまであった。我がミステリー研究会にはこれほどの本があったのかと、どこか感慨深い気持ちになった。
「おっ。俺、泡坂妻夫のこの作品、まだ読んだことがないんですよね」
「ええっ。まだそれを読んだことがない人がいたなんて」美里先輩がオーバーな仕草で驚いてみせる。「日本推理作家協会賞を受賞しただけあって、かなり面白いわよ」
「すみません、実は僕もまだ読んだことがありません」
すると、江野先輩は振り向いて、
「うん。その本だったら別に貸すどころか、あげてもいいよ。まあ、どっちが先に読むかは二人で決めな」
「まじですか。よっしゃ。言ってみるもんですね」
神崎先輩はガッツポーズをする。
「僕は自分で買うか図書館で借りるのでその本は神崎先輩のでいいですよ。というか、今は積んでいる本が多くて、新しい本をいただいても読む時間は、年末とはいえ、なさそうです」
「おお、まじか。優しい後輩を持って俺は幸せだよ。――いやあ、国内作家にはあまり手を伸ばしてなかったから、これを機に色々と読んでみるのもありかな」
「うん、良いことだと思うよ」と江野先輩。
「そういえば、先輩。この箱に詰めた本とスーツケースはどうするんですか?」
僕は尋ねた。
「あとでボクの車に乗せて、それで自宅にまで運ぶんだ。車に乗せるところまでは誰か手伝ってくれると嬉しいんだけどね」
「もちろん手伝いますよ」と、神崎先輩が言う。「なっ、菱川」
「ええ」
僕はうなずいた。
「さて、じゃあ、そろそろ大掃除の続きを再開しますか」
美里先輩が立ち上がって言った。
「うっす」
神崎先輩も手に取っていた本を箱に戻す。
「やりましょう」
段ボールを閉じ、僕も立ち上がる。
「どうします? 本棚の裏とかも掃除しておきます?」
「いや。そこはやんなくていいよ」江野先輩が言う。「菱川君はとりあえず、床をほうきで掃いといてくれると助かる」
「了解です」
大掃除が終わると、僕たちは部室の真ん中にあるテーブルに集まり、一息つくことにした。
「そういえば、みんなこのあとの忘年会には参加するわよね」
美里先輩が長い髪を優雅な仕草でかきあげながら尋ねた。
「ええ、もちろん」僕は頷く。
大掃除の後は忘年会。これは毎年の恒例行事なのだと、先輩からすでに聞かされていた。
「部室でやるんですよね。けど、学内でお酒とか飲んで大丈夫なんですか?」
「もちろんだめよ」
えっ。
「まあ、要はばれなきゃ問題ないんだよ」
神崎先輩がおどけたように言う。
「完全犯罪の成立ね」
美里先輩も悪戯っぽく笑った。
「おいおい、頼むからあまり問題はおこさないようにしてくれよ」と江野先輩が顔をしかめた。「せっかく決まった就職に響くようなことは絶対にしてくれるな、頼むから」
「ええっ。本当に大丈夫なんですか? 先輩もこう言ってますし……」
と、僕はつい心配になった。
「まあ、実際のところ、そんなに問題はないのよ」美里先輩はあっけらかんとした口調で言う。「この部室棟の管理人さん、けっこう人が良いから大目に見てくれるの。どこのサークルもやってることだしね。未成年飲酒さえしなければ、ばれてもちょっと注意されるくらいかな」
「うわあ。甘々ですね」
「そんなもんさ、大学っていうのは。十二時までに部室を出れば、特に何も言われないよ」
神崎先輩が言う。
「あれ、いつもは朝まで部室に居れますよね?」
「年末年始はさすがにいつもより早く部室棟を閉めるみたいね。十二時を過ぎると、部室だけでなく、部室棟の鍵も全部閉めちゃうみたい。だからそれまでに鍵を管理人さんに返さないといけないのよ」
「ええっ……。じゃあ、部室で除夜の鐘を聞きながら、『ナイン・テラーズ』を読むという僕の試みは……」
「不可能ね」「無理だな」「駄目だと思うよ」
僕はがっくりと肩を落とした。
「そういえば江野先輩は車で来ているそうですけど、お酒、大丈夫なんですか?」
先輩は首を横に振った。
「悪いけどボクは参加しないんだ。車で来たっていうのもあるけど、これからしなきゃいけないことがいくつかあってね」
「ええー。まじですか」神崎先輩が残念そうに言う。「先輩の分のお酒とおつまみ、買っちゃいましたよ。おつまみ以外は冷蔵庫にしまってあります」
「ごめんごめん。お金は払うから、それは君たちで飲んでいいよ。というか、何だったら、忘年会の費用は全部ボクが出してあげよう。せめてもの餞別ということでさ」
江野先輩が鞄から財布を取り出そうとしたのを、美里先輩が慌てて止める。
「そんな。いいですよ。先輩にはもうすでに大量の餞別をいただいてますから」
そう言って、巨大な本棚の約半分を占める大量の蔵書を横目で見た。
「いいから、いいから。こういうときはおとなしく受け取っておきなさい」
江野先輩は財布から一万円札を取り出して、美里先輩に渡した。
「しかも、多いし……」
と、美里先輩は困ったようではありながらも、満更ではなさそうにそれを受け取った。僕も含めてミス研のメンバーは全員、江野先輩のこうした大人びた態度に憧れているのだ。
「しかし、江野さんが参加しないとなると、一気に人数が減ったなあ」
「小諸ちゃんも今日は来ないのかしら」
「たぶん、来ないんじゃないかな」
「うーん。ちょっと、寂しいですね」
それから少しの間、沈黙が流れた。
すると、江野先輩がぽつりと言った。
「そうだな。せっかくの年の瀬だし、ちょっと密室から消失でもしてみるか」
……………。
「えっと、今、何て言いました?」
一瞬、僕の聞き間違いとも思った。
「うん。ちょっとこの部室から消失してみようと思うんだ」
「それは来年このサークルを去るという意味で? それともミステリー的な意味で?」
「もちろん、ミステリー的な意味で」
江野先輩はにやりと笑った。
江野先輩から提示された条件は簡単なものだった。僕たちが部室の鍵を保管し、江野先輩は部室にひとりで残る。僕たちは鍵を持ったまま、食堂に移動し、三十分ほど待つ。それから、部室に戻ると鍵が掛かっているはずなので、開けて中に入る。すると中にいたはずの先輩は消失している。どのようにして先輩は密室から消失したのか、この謎を解いてみせろ――と、こういう寸法である。ミステリー好きの僕たちは当然、江野先輩のこの提案に受けて立つことにした。
まず部室の鍵が本物であること、そして、部室の中に確かに江野先輩が入っているということを証明するために、先輩が部室の中にいる状態で、美里先輩が部室の鍵を閉めた。もちろん、中から鍵を開ければ江野先輩は密室の外に出ることができるが、外から鍵を掛けることはできない。部室の鍵は一つしかないというわけではないが、マスターキーは管理人さんの手元にあるし、仮に合い鍵があったとしても、元ミス研の部長がそんなインチキをすることはないだろう。江野先輩もそのことは約束してくれた。
僕たちは江野先輩が中にいる状態で部室の鍵を閉めたあと、食堂に向かった。そして、先輩がどんなトリックを使って密室から消失してみせるのか推理しあうことにした。
「もちろん、実際にどんな状況で消失してみせるのかわからないと、正確なことは言えないけど、密室からの消失っていうのはすでにいくつかのバリエーションの組み合わせに過ぎないわけだから、そこからトリックを推測してみることは可能だろうな」
神崎先輩は腕を組みながら言った。
「要するに普通の密室殺人と本質的には変わらないからね。あれだって、密室から犯人が消失したって言えるわけだし」
と、美里先輩が頷く。
「まあ、ただ密室殺人とは違って、人間消失の場合は、初めから密室内に犯人が存在しない、というパターンが成立しませんから、むしろトリックのバリエーションは少ないと言えるかもしれません」
僕も自分の意見を言う。部室の間取りを頭の中で思い浮かべてみた。
部室は縦長の長方形で、ちょうど短辺が南北、長辺が東西に位置している。ドアは南側の壁のやや西に近い位置にあり、出入り口はそこと北側の正面にある窓だけだ。東西の壁は天井まで届くほどの巨大な本棚がすっかり覆っていて、中央にはいつも僕たちが集う小さなテーブルと椅子が置いてある。窓の近くには冷蔵庫と、給湯器やカップなど本以外のものを置くための棚。それから、今日に限ってはドア付近に段ボールが三箱とスーツケースが積まれている。
「今回の場合は、大掛かりな仕掛けは使えないだろうから、おそらくその場にあるものを利用したトリックになると俺は思いますね」
「うん。しかも、鍵は確かにこの場にあるから、外から正規の鍵で施錠したあとにそれを密室内に戻すといったトリックも使えないわね」
「となると、ありうるのは、密室脱出後に正規の鍵以外の方法で外から施錠する場合と、密室が破られたあと――つまり、僕たちがもう一度部室に入ったあとで、こっそり脱出する場合、それから、そもそも密室ではなかった――つまり鍵が掛かっているように見せかける場合。この三つですかね」
「部室の鍵って、どんなものだったっけ?」と、美里先輩。
「ごくごく普通のシリンダー錠だったと思いますよ。内側もよくあるサムターンですね。つまんで横にひねると鍵が掛かり、縦にひねると鍵があく」神崎先輩が答える。
ドアは内開きで、外側から蝶番をはずすこともできないはずだ。以前みんなで試したことがあるのでよく覚えている。蝶番は西側につけられていた。
「窓の鍵も普通のクレセント錠だったと思いますよ。ちなみに窓の上に換気口があったと思います」僕は補足する。「ただ、部室は二階ですからね、窓からの脱出は難しいんじゃないですかね」
「そうか?」と神崎先輩が反論する。「そんな難しくないだろ。別に一階に飛び降りなくても、隣の部屋に乗り移ればいい」
「ああ、そうか」僕は納得する。
「まあ、どちらにせよ、窓の鍵はきちんとかかっていると思うわよ。江野先輩がそんなトリックとも言えないようなちゃちな方法を取るわけがないし」
「そうですよね」神崎先輩はあごに手を当て、「――ちょっと、待ってください」
「どうしました?」
神崎先輩は美里先輩に向かって、
「そもそもその鍵って本物ですかね?」
「そのはずだけど……。確かにさっきこれで鍵が掛かったわよ。鍵を回したあと、がちゃっていう手ごたえもあったし、ドアを開けようとしたら開かなかったもの」
「そこに何か錯誤があるのではないかと思うんですよね、俺は?」
「錯誤というと?」僕は興味を惹かれて、尋ねた。
「たとえばですね、江野先輩はあらかじめ別の鍵を用意して、それと本物の鍵とすり替えるんですよ。それで、美里先輩が外から鍵を掛ける動作に合わせて中から鍵を掛けるんです」
「ああっ、なるほど」
「そうすれば、美里先輩はその鍵が本物だと思い込みます。俺たちも同じですね。その偽物の鍵をこうして見張ることになる。一方で、中にいる江野先輩は本物の鍵を手にしているわけですから、部室から出たあと、その本物の鍵を使って施錠すればいい。密室からの人間消失――見事に成功ってわけです」
「なるほどね」と美里先輩。「けっこう面白いトリックだと思うけど、その方法だとひとつ問題があるわね」
「どうやって、その本物の鍵と偽物の鍵をもう一度すり替えるか、ですね」
僕の指摘に美里先輩は満足げに頷いた。
「うん。だって、結局のところ密室を破るのはあたしたち自身だからね。その方法はこの鍵を使って鍵を開けること。ドアをぶち破るなんていう手段は使うようには言われてないし」
というかそんなことをしたら僕たちミス研は間違いなく部室を取り上げられるだろう。
「つまり、もしこの鍵が偽物だとしたら、江野先輩はこっそりこの鍵をあたしたちに気付かれないように本物とすり替えないといけない。はたしてそんなことできるかしら」
「うーん」神崎先輩は少しの間考え込んでから、「共犯とか?」
「あたしが?」
「それなら鍵のすり替えも簡単かなあ、と。いや、すみません。馬鹿なこと言いました。撤回します」
「あのねえ。あたしが江野先輩の共犯なわけないでしょ。その証拠ってわけじゃないけど、鍵を開ける役目を二人のどちらかに譲ってもいいわよ」
「いえ、あの、本気で言ったわけじゃなくてですね……」神崎先輩はたじたじとなる。
「ともかく、共犯だということはないんじゃないですかね」と、僕は言う。
「菱川君、それはどうして?」
「この前、江野先輩が言っていたんですけど、自分は共犯を使った密室トリックはあまり好きじゃないと」
「へえ、それは意外だなあ」
「別に否定するわけではないし、そういうトリックがまるで駄目だというわけではないけど、ただ単に自分はあまり好きじゃないんだ、と。そんなことを言っていました」
「ふうん。そういえば、俺も江野さんがそんなことを言うのを前に聞いたことがあるな」
「あたしもあるわね」
「となると、この三人の誰かが共犯ってことはないのかな……」
神崎先輩はそれでも自信なさげに言う。
「ともかく、互いに互いを見張っていれば大丈夫じゃないですかね」
この僕の提案に、先輩たちは力強く頷いた。
「となると、あと考えられるのは、さっきも言ったように外から鍵以外の方法で施錠した場合と、僕たちが密室を破ったあとに密室から脱出する場合の二つですか。密室に見せかけるトリックは、外から正規の鍵を使って解錠する以上、難しそうですしね」
「ああ、そうなるな」
それから僕たちはしばらくして、おそらくこれではないかというトリックを思い付いたのだった。
三十分が経った後に、江野先輩から連絡が入った。
『すでに密室から消失した。もう開けに来てもいいよ』
僕たちは部室に向かった。部室の外の廊下にはあの赤いスーツケースが置いてあった。何か理由があって部室の外に出しておいたのだろうか。
するとまた、江野先輩からのメール。
『早くドアを開けなさい』
結局、部室のドアは僕が開けることになった。先輩たちは僕が鍵をすり替えたり、すでに解錠されているドアを鍵を二回まわして、たった今解錠したように見せかけたりしないように、じっと僕の手元を見つめていた。
がちゃり。
解錠音は間違いなく一回きり。どうやらちゃんと密室のようだ。僕はそっとドアを開こうとした。内開きのドアをそっと押すと、何か手ごたえを感じた。
「ドアが重いですね。内側から何か置いているみたいです」
「何かしら?」
「さあ。けっこう重いです。力強く押せば動きます」
「よし、俺も手伝うよ」
別に手助けはいらなかったのだが、僕は神崎先輩の申し出をありがたく受けることにした。二人でドアを押し開ける。
「おりゃ」「よっと」
勢い余って、ドアが全開しそうになったが、何かに突っかかって止まった。ドアは中途半端に開いたままだが、人ひとりが入るには充分なすき間ができたので、僕たちはそこから部室の中に入った。
「江野せんぱーい。いますかー」
部室には明かりがついていなかった。カーテンも閉じられている。冬ということもあり、外はすでに日が暮れかけていて、部室の中も薄暗かった。
明かりをつける。江野先輩の姿はやはり部室にはなかった。
「いませんね」「いないな」「いないわね」
どうやら、密室からの消失は無事成功したらしい。
「いちおう窓の鍵とか確かめておくか」
「そうね」
そう言って、先輩たちは真っ先に窓に向かった。カーテンをばっと開く。
「窓の鍵はかかっているな」
「こっちもかかってるわ。補助錠もしっかりとかかってる」
となると、換気口から糸などで窓の鍵を閉めたとは考えづらい。補助錠は小さくて、外から糸で操るのは中々に難しいのだ。
次に僕はドアの前に置いてあったものの正体を確かめることにした。
「ドアの前に置いてあったのはやはりさっきの段ボールでした。三箱全部、ドアの前に積まれていました」
ドアが途中までしか開かなかったのは、この段ボールが西側の本棚に突っかかったからだった。
僕は段ボールを一つ一つ、床に降ろしていった。
「たぶん、その中に江野先輩はいないと思うぞ」と、神崎先輩がおかしそうに言う。
「まあ、念のためです」
僕は段ボールの蓋を開けた。そこには、隙間もないほどに本がぎっしり詰まっているだけだった。江野先輩の姿は当然、ない。
「さて、じゃあ、どうしようか」
美里先輩は中央のテーブルに直接腰を掛ける。そして、ちらりと部室の西側の壁にある本棚を見た。その本棚は壁一面を完全に覆ってしまうほど巨大なもので、天井とのすき間もほとんどなかった。
「この本棚、よく見ると、片側にだけ本が置かれているわね」
僕は頷いた。片側にだけ置かれているというのはつまり、部室の奥のほう、北側の棚にだけ本が置かれているということだ。
「うーん。これはやっぱり」
神崎先輩は苦笑いする
「ですね」
僕はそっと本棚に近づいた。よく見ると、本棚がわずかに斜めっているのがわかった。
「よっと」
そして、本棚を手前に向けて引き寄せた。予想よりは重くなかった。動きもスムーズだ。おそらく北側の棚にだけ本が偏っていることで、てこの原理が働いて、動かしやすくなっているのだろう。
本棚を充分に引っ張ると、本棚と壁の間にすき間があることがわかった。人ひとりが十分に入るすき間だ。僕はそのすき間を覗き込んだ。
「やれやれ、見つかるのが早いや」
江野先輩が頭を掻きながら、すき間から出てきた。
「まったく。どうしてわかったんだ?」
予想に反して服はそれほど汚れてはいないようだった。
「そもそも、先輩がどうして密室からの消失トリックをこのタイミングでやろうと思ったのかっていうのが、最初に気になったんですよ」
そう解説したのは神崎先輩だった。
「言いかたは良くないですが、先輩はどう考えても、その場の思い付きでトリックを考え付いたように見えました。もし、前から考えていたものだとしたら、もっと準備したと思うんですよね」
その後を美里先輩が引き継ぐ。
「それに、せっかくの年の瀬だし、という言葉も何となく引っかかりました。何の脈絡もない冗談のようにも聞こえますが、それがそのままの意味だとしたらどうかなってあたしたちは考えたんです。つまり、年の瀬だからこそできる消失トリック。そう言う意味合いじゃないか、そんな風に考えました」
「そうなると、江野先輩の考えたトリックには、年の瀬のこの状況が重要だということになります」今度は僕が発言する。「この状況というのはつまり、大掃除のあとの状況ということですね。では、この状況の場合、いつもの部室と何が違うか。部室がきれいになったこと? 段ボールやスーツケースが登場したこと? 本棚が整理されたこと? おそらく、これらのどれかだろうと僕たちはあたりを付けました」
「なるほどね。ボクの考えはすっかり読まれていたわけだ」
江野先輩は苦笑いをした。
「ここまで来ればあとは簡単ですよ。俺たちの推理は一直線でした。部室がきれいになったことで機能するトリックなんてまずないだろうし、段ボールやスーツケースも、中には本が詰まっているから、その中に隠れることなんてのもできない。仮に本を全部本棚に移し替えたとしても、段ボールは人が入ることができるほど大きくないし、スーツケースは入ったあと、自分で蓋を閉めるのは難しい。そうなると、考えられるこの日ならではの状況と言えば、本棚がすっかり片付いたことです。本棚が空になるとどうなるか。軽くなり、動かしやすくなります。動かしやすくなるとどうなるか。本棚と壁との間にすき間を作ることができる。本棚と壁との間にすき間を作るとどうなるか。そこに隠れることができます。俺たちはおそらくそう言うトリックではないかと思いました」
「本棚が壁一面を完全に覆っているからふだん意識しないけど、本棚の後ろには当然、壁があります。そこと本棚との間というのはある意味盲点ですから、気付かれにくい。実際、こういう特別な状況でなければ、あたしたちは中々トリックに気付かなかったと思います」
「慰めをありがとう」
「あとはもう細かい点の補足だけですね。先輩はまず、軽くなった本棚を動かして、本棚と壁との間に人ひとりが入れるだけのすき間を作りました。動かしてみてわかりましたけど、あの本棚、けっこう軽いですね。あれなら充分一人でも動かせます」
「気付きにくいけど、あれ、底の部分に小さいキャスターが付いているんだ。これまでみたいにぎっしり本が詰まっていると、動きにくいけど、今日みたいに本が少なくなると、だいぶ動かしやすくなるんだよ」
「なるほど。キャスターがあったのには気付きませんでした。――ともかく、先輩はそのすき間に隠れることにしたわけですが、その前にいくつかすることがあったはずです。その一つが、ドアの前に、あの段ボール三つを積むことでした」
「あれに何の意味があったかわかるかい」
江野先輩は挑戦的な笑みを浮かべた。
「あれは本棚を壁に押しつけるための媒介だったんですね」
「へえ、気付いたんだ」江野先輩は心底驚いたような顔をした。
「馬鹿にしないでください。僕だってこれでもミス研の一員なんですよ」
「ああ、ごめんごめん。続けて」
「本棚と壁の間に隠れるというのは簡単なことのようにも聞こえますが一つ問題がある。それは、すき間に入った状態では、本棚を壁のほうに近づけることができない、ということです。つまり、本棚と壁とのすき間に身を潜り込ませるには、いったん本棚と壁とをかなり引き離す必要がありますが、その後でもう一度、本棚を壁際に近づける作業をしなければいけません。そして、それには本棚を外側から押す力が必要となる。先輩はその作業を、僕たちのドアを開けるという行為に仮託させたんです」
「回りくどい言いかたをするね。探偵役が板についているじゃないか」
江野先輩はにやにやと笑って言った。僕も笑い返して、続けた。
「僕たちは段ボールごとドアを押し開けました。本が入っているというだけあって、段ボールは結構な重さです。僕たちはかなり力強くドアを押しました。けど、その力は、本当に段ボールだけに掛かっていたのではなかったんですね。
密室に入るとき、ドアは中途半端に開いたまま止まりました。その前に置いてあった段ボールが本棚につっかえていたからでした。もう解りますよね。壁とのすき間とにもぐりこむために片側に大きくせり出した本棚は、段ボールを介してドアと繋がっていました。僕たちは、あの重い段ボールを押しているようで、実はそれごと、本棚も押していたんです」
「そう、その通り」江野先輩はやれやれといった風に首を横に振った。「まったく、苦労した割には一瞬でトリックが見抜かれてしまうとは、ボクもまだまだだな。ちなみにいくつか補足すると、電気を消してカーテンを閉めて部屋を薄暗くしたのは、言うまでもなくその本棚のトリックに気付かれにくくするためだよ。トリックの性質上、本棚が多少は斜めになる――つまり、壁と水平ではなくなるのは仕方のないことなんだけど、部屋を薄暗くすることでそれに気づかれにくくしようとしたんだ。もちろん、電気をつけられれば意味はないんだけど、何もしないよりはマシかと思ったからね」
「けど、とっさに考えた割にはけっこう色々策を練ってますよね」
神崎先輩が感心したように言った。
「まあね」江野先輩は力なく頷き、「――はあ、とりあえず、君たちには完敗したよ。うん。これならボクがいなくなってもミス研はきっと安泰だな」
「任せてください」美里先輩が誇らしげに胸を張る。「次期部長としてあたしがしっかり彼らを引っ張っていきます」
「うん。期待してるよ」
僕たちはそのあと、江野先輩の段ボールとスーツケースを部室棟に横づけて駐車してあるという、先輩のワゴン車にまで運んだ。段ボールは僕たちが運び、スーツケースは江野先輩自身が運んだ。どれもかなり重かったが、部室棟にはエレベータがあるので、それほど苦労しなかった。
「今日はありがとう。久しぶりに面白かったよ」
「いえ、先輩こそ。これまでお疲れ様です」
「おいおい、今日からもうやめるってわけじゃないんだ。来年だっていちおうは、まだいるんだからな」
僕は頷いた。涙が出そうになった。
「じゃあね、よいお年を」
「はい、よいお年を」
僕たちは江野先輩の乗った車に向かって、テールランプが見えなくなるまで手を振り続けた。
それから、僕はふと思い出したように呟いた。
「小諸さん、やっぱり来ないのかな」
少し、寂しかった。
***
江野はしばらくしてから、路上に車を停めた。そこは人通りの少ない橋の上だった。彼は運転席を降り、後部座席のドアを開けた。そこから赤いスーツケースを取り出し、路上に広げた。そして、その中にうずくまる小諸の死体を冷たい視線で見降ろした。
彼女が死んだのは些細な事故だった。美里や神崎が来るまでの間、彼女と江野は部室の大掃除を先に始めていた。その大掃除の最中、二人はちょっとした口論をした。それほど激しいものではない。推理小説についての議論が発展しただけのものだった。
しかし、それがとんでもないことになった。
江野は興奮する彼女を軽くなだめようと、彼女の肩に軽く手を置いただけのつもりだった。実際、彼はその程度の力しか加えていなかった。しかし彼女は極度にのけぞり、そのまま床に落ちていた一冊の本に足を取られ、転倒してしまった。
彼女は店頭の際、棚に強く頭をぶつけたようだった。江野はすぐに彼女に駆け寄ったが、彼女の意識はなかった。江野の背筋に冷たいものが走った。
彼がその場で考えたのは救急車や人を呼ぶことよりも、この状況を何とかしなければいけない。ただそれだけだった。というのも、もしこのまま小諸の意識が戻らないなんてことがあれば、自分の人生はきっとめちゃくちゃになってしまうだろうと思ったからだった。ようやく掴んだ内定もだめになってしまうかもしれない。そう思うと、江野は恐ろしくてならなかった。
時計を見ると、もう間もなく三限が終わるころだった。前日、神崎は三限が終わってすぐに来ると話していたのを江野は思い出した。急いで彼女のことをどこかに隠さないといけないと、彼は考えた。
スーツケースにはすでに本を詰めていたので、今から彼女の身体を詰めなおすのはかなりの時間がかかると思われた。そうなると、どこに死体を隠すべきか……。
本棚と壁とのすき間を利用することが思いついたのはその時だった。
西側の本棚からはすでにだいぶ本を段ボールとスーツケースに移し終わっていたので、その本棚を一人で動かすことは充分に可能だった。江野はすぐに本棚と壁との間にすき間を作ると、そこに小諸の身体を鞄といっしょに押し込んだ。神崎たちが来たのはその作業が一段落した直後のことだった。
しかし、死体をどうにかして隠した後も問題は山積みだった。死体を自分の車に運び込めさえすれば、あとはどうとでもなるのだが、その運び込むまでが難題だった。まず部員の目を盗んで死体をもう一度本棚と壁とのすき間から取り出さないといけないし、その死体を人通りの多い部室棟の廊下を通って車にまで運びこまなければいけない。部員たちは部室で忘年会をやると言って、中々部室から離れそうにはないし、かと言って、彼らが忘年会を終えるまで待ったとしても、その後すぐに部室棟の鍵がかけられてしまい、来年まで部室の中に入れなくなってしまう。菱川が本棚の裏を掃除しようとしたのを慌てて、止めたりしながら、江野はこの難問をどう解決するかに必死に頭を悩ませていた。
名案はすぐに思い付いた。それがあの密室からの消失だった。案の定彼らは江野の提案に乗ってきた。これは部員たちをいったん部室から追い出す良い口実となった。
部員たちが食堂に向かうと、江野はすぐに本棚と壁とのすき間から小諸の死体を取り出した。小諸の死体はほこりまみれだった。彼は次に自らの持ってきたスーツケースを広げ、そこに詰まった本を全部外に出し、スーツケースを空にした。それからその中に小諸の死体と鞄とを詰め込んだ。スーツケースは人が入るほどに大きいし、小諸は小柄だったので、死体は充分にスーツケースに収まった。また鞄のほうも、彼女はこの日は授業がなかったらしく中身はすかすかだったので、スーツケースの空いたスペースに無理やり押し込むことができた。
スーツケースから取り出した本は、三箱の段ボールに分けて詰めなおした。段ボールにはだいぶ容量に余裕を持たせていたので、本のほうもどうにか収まった。だが、最初に本を詰めたときとは違って、段ボールの中はすき間がまるでないほどぎっしり本が詰まってしまい、誰かが段ボールを開けてそれに気づかないかは心配だった。
スーツケースを廊下に出しておいたのは、部員たちが密室に入ってきたときに、スーツケースの中に自分が隠れていないか確かめようとスーツケースを開けるのを避けるためだった。密室に入る前に部員たちがスーツケースのことを調べようとしないよう、江野は、早く来るように部員たちを急かした。
密室からの消失トリックは、全く彼らの推理通りだった。何も訂正することはない。小諸の死体を隠していたのと同じスペースに江野は隠れたので、彼の身体にはあまりほこりが付くことはなかった。
江野は死体を抱えたまま、橋の下を覗き込んだ。確かこの道は彼女の通学路と同じだったはずだ。このまま彼女の死体を投げ捨てれば、橋からの転落事故と警察は誤認してくれるかもしれない。仮に殺人だと断定されても、自分がその犯人だと疑われるような証拠は何ひとつないはずだ。唯一の懸念材料である彼女の髪や衣服に付着したほこりも、夜の街を流れる川の水がすべてを洗い流してくれるだろう。
江野は死体を橋から投げ落とした。そして、口笛を吹きながら車に戻っていく。
ふと振り向いた。大学の部室棟に明かりが見えたような気がした。すぐに首を振って否定する。ここから部室棟が見えるはずはなかった。明かりが見えたとしてもそれは決してミス研のものではないだろう。江野は残された彼ら部員たちのことを考えた。彼らは今頃三人だけの忘年会を楽しんでいるのだろうか。少し羨ましく感じた。だが、そこに自分の居場所があるはずはなかった。もう自分は決してあの場所に戻ることはないだろう。
江野はもう一度首を振り、運転席に戻ると、夜の街を静かに走り去っていった。
この落ちは自分でもちょっとずるいなって思います。もっと伏線張ればよかったですね。