とある男の罪と罰
影の庭園
とある戦場に男はいた。くすんだ空の下、砲火の轟音が腹の底を揺らした。雨上がりの大地から、泥と火薬の香りが立ち上っていた。
――細君が危篤である。
急な知らせがあった。だが男は戦地に留まった。彼は有能な士官であった。責任を放棄して戦地から離れる訳にはいかなかった。
半年を経て男はついに細君のもとに向かった。幸い、彼女の命に別状はなかった。寧ろ回復の兆しさえあると男は聞いていた。
――それもこれも全て弟のおかげだ。彼が居なければ妻の命は無かった。
男の吐いた息が白く染まった。彼の身なりは流石に整ってはいたが、隠しがたい疲労があった。身に染みる寒さが重苦しくさえ感じる、二月下旬のことであった。
平和な場所だった。細君が長らく療養を続けてきた病院は戦場から遠く離れた町にあった。男の弟はこの病院で医者をやっていた。
弟は実に気の利く男だ。彼は他人の心を良く慮り、丁寧な気遣いを完璧にこなす。そうして人を幸せな気分にする。
一方で男は未だに人と言うものが良く分からない。彼が無口であるのは、それを恥じていたからだ。不用意な言葉で、いつ他人に不愉快な思いをさせてしまうか……否、そうしたことにすら、気が付かないかも知れない。
男には人はつねに心を巧妙に隠し過ぎているように思えた。
この男は嘘をつかない。細君は常々それを称賛していた。しかし、嘘を上手くやってのけるだけの器用さなどは元から男に備わっていなかった。
物事には真っ向からぶつかる他無かった。そうした姿勢は男をひどく疲れさせた。人と会話することよりも銃火器の引き金を引いている方がいくらか気楽であった。
これではただの外道だ。純真無垢な妻は騙されている。そのような考えで男は時たま罪悪感に襲われた。自分のような男の妻になった彼女が憐れであった。あるいはそれこそが男をこの場所から遠ざけた真相であったのかも知れない。
――見ている世界が違うのだ。
己と弟との相違を考えた。
例えば、男が赤を見て流血など破壊的な想像をする時、弟は生命の力強さを感じ取るだろう。2人にはとても根本的な部分に隔たりがあった。
――唯一の肉親ですら、そうなのだ。もはやこの世界に私と分かり合える人間はいないのかも知れない。
諦念というべきだろうか。しかしそのような色褪せた感情の中に、耐えがたい疼きがあった。 男は燃える箱庭に思いを馳せる。もう灰を残すばかりの小さな庭園。
夜の帳はとうに下りていた。夜空に星は無い。すべてのモノの輪郭が夜の底に融ける中、眼前の病院だけが例外であった。夜闇の中に病的な白さで浮き上がるそれはまるで実直な清潔さに忠誠を誓っているかの様にも見えた。
男は何とも言い難い抑圧を感じながらその建物の中に足を踏み入れた。
男は細君の病室を目指して歩を進める。スリッパの音だけが廊下に響いた。
病的な白さが暗闇に調和していた。そのなかで緑の非常灯だけが灯されている。
ふと。遠く。思いがけず、町の教会の鐘が鳴った。聞こえるはずのない鐘の音が男の頭に反響した。
――妙に響く。‥‥やはり疲れているに違いない。
男の喉が渇きを訴える。彼は粘つく唾を呑み込んだ。
その時、廊下の空気を、男の全身を揺するようにして、一層凄まじく鐘の音がした。
ぐらりと男の視界が揺れ、一瞬だが意識を手放した。彼は思わず手を壁に突く。リノリウムの白い壁は手の平を不快に湿らせた。男は顔を覆って指で眼球を強く圧迫した。彼は難儀そうに頭を振ると再び歩き出した。
彼は遂に曲がり角に到着した。廊下の光源は遠い。暗がりが彼を拒絶するかのようにして幕を降ろしていた。
一瞬、そこが行き止まりであると錯覚した。廊下の突き当たりに一枚のドアがある。男はドアの前で立ち止まった。
リノリウムの床に色濃い青紫のカンパニュラが一輪だけ落ちていた。彼は足元のそれを拾い上げて何となしに鼻に近付けた。香りを嗅ぎ取ることは出来なかった。
――彼女の好きな花だ。だが、季節外れも甚だしい。
赤を青で包み込んだような色合い。内向的な見た目にひっそりとした優雅さを持つこの花が、細君と重なって見えた。またその花は病的な不健康さと深い結び付きがあるようにも見えた。病室の窓際でカンパニュラを愛でる彼女の姿を彼は想像した。縁起でもないが、彼女の傍らで最も映える花だった。
暫らく静止していた男は一歩踏み出した。
――此処ではない。この部屋ではない。
細君の病室は曲がり角の向こうにあると聞いていた。しかし、彼は直感的に確信していた。
――妻はこの部屋にいる。
男は息を殺し、そっと中を覗き込んだ。
闇の中で、二つの影が蠢いていた。
魚だ。生を謳歌するかのように躍動し、優美に身体をくねらせながら闇を泳ぐ、二匹の魚だ。
男は束の間、その美しい光景に幻惑された。果たして見間違える筈もない。それは性行為にふける細君と弟の姿であった。
彼は驚愕に目を見開き身体を震わせた。
奇妙な感情が心中に渦巻く。例えるならば、そう。揺れる吊り橋だ。山間の、底知れぬ渓谷に張り渡された吊り橋に、男の精神はあるのだ。何時、この頼り無い場所から宙に放り出されるのか。落下。その先に予期される、胃がひっくり返るような浮遊感。そして、バラバラだ。岩肌に衝突するとともに肉体が四散するのだ。最後には濁流に呑まれて消えていく。
自分が自分のものではなくなるような感覚に彼は委縮した。
男の額から一滴の汗が流れ落ち、目の縁にから眼球に侵入する。
美しい男女が絡み合う病室はまるで世界の中心であるかのようであった。男には忍び込むことはおろか寄り添うことも許されない場所であった。狂気のなせる業か。男は敬虔な信者となって美しい男女が繰り広げる性の営みを食い入るように見つめた。
男は膝を突き両手でカンパニュラの花を包み込んだ。その姿は教会で祈りをささげる様に酷似していた。
ただ男は一心に拝跪した。そうする他なかった。目にする光景に筋肉は緊張し、そこから生み出される情動を感受しようとした。
男と細君。あるいは男と弟。その間に横たわる無限の断絶。監獄の壁。どれほど足掻いたところで、男の魂は肉体という名の監獄から解き放たれることは無かった。
絶望があった。身を切り裂くような疎外感だ。もはや縋るべきものは無い。ここにいるという意識が希薄となって行く。男は錯乱していた。
不意に、細君を抱いていた弟が頭を上げた。男と弟の視線がこの場において初めて交わる。弟は妖しい頬笑みを浮かべた。
――貴方達は、夫婦揃っておっとりしていらっしゃるから、僕としては心配が絶えないのです。
かつて弟が男に言った言葉が脳裏に甦る。あの時も今と同じように微笑んでいただろうか。男には、分からない。男には、人の表情というものがよく分からない。
男は弟の笑みを信じられない思いで見た。
だがそれと同時に彼はようやく理性を取り戻すことが出来た。新鮮な空気を肺に吸い込む。狂気に蝕まれていた思考は靄が晴れ渡るかのように現実を捉え直した。
弟の下で艶めかしく腰を捻じり、嬌声で喉を震わす女は魚ではなかった。泳いでなどいない、ただ溺れていた。乱された白いシーツの上にカンパニュラの青紫があった。恍惚とした表情で弟を求める彼女は狂気に囚われているのだ。彼女の瞳に夫の姿は映らない。
弟の顔に罪悪感の陰りは一片もない。
男は全てを理解した。弟の残忍な計略を知り彼を心底憎悪した。
――何と言う裏切り。何と言う背徳。これを我らが主は許すのか? 否、許す筈がない! 報いだ! 公明正大な神の意志を代行し、審判を下すのだ!
襲撃だ。罪の何たるかを教授するという、暴力的な使命感が男の胸にあった。彼は腰のホルダーに手を伸ばし、ーーそこにはピストルもナイフもなかった、ーー明確な敵意を抱き、ドアを開け放とうとした。
その瞬間。音がした。一粒の水滴が水面を叩く音だ。彼は音のした方向に視線を向けた。
一人の老人がいた。至極自然な様で壁に背を預け座り込んでいる。全身に黒衣を纏い頭巾を目深に被っていたため、顔を見ることはおろか、その性別を判別することも出来ない。
唐突に気が抜けるほど自然に老人が腕を上げて、男の背後を指差した。彼は導かれるままゆっくりと振り返った。
音がした。重たい何かが床に落ちる音だ。
男は暗がりの先に男が目を凝らした。そこには一個の生首があった。恐ろしいほど醜悪な生首だ。顔に垂れた髪。皮膚は腐敗し、重力に抵抗することなく怠惰に崩れていた。男が見ている内に、涙を流しながら眼窩から目玉が零れた。焼け爛れたような肉と血で、妙にエラ張って見える顎の下に、古新聞が敷き詰められていた。
この世の悪徳の全てがそこに書き記されていた。とある新聞に小銃を担ぎ行軍する兵隊の写真があった。
――掲げよ、旗章。胸に記章。勇猛果敢な蝋人形。旋状銃の渦の中、古兵の夢の跡。軍歌の指揮者は手を鳴らし、軍靴はカカカと地を叩く……
無邪気な子供の歌声が聞こえた気がした。怖気を感じた彼は、紙面から視線を逸らした。
一個の生首。相変わらず、それは男の方を眺めていた。
――なんと言う醜さよ。だが同時に、何と憐れな生首か。
男の心に宿った同情。憐憫の情であった。
腐肉が頬骨に引っ掛った。盛り上がった頬が笑顔を形作っている。そう、男には見えた気がした。否。彼は疑いもなく信じた、この生首は笑っているのだと。
――かつて、これほど深く他者の表情を理解したことがあったであろうか。
長い時間をかけてようやくパズルを解いたような、その種の愉悦が心に芽生えた。
――ようやく、出会えた。
彼は手の平で、口元を覆う。知らずに握りつぶしたカンパニュラの、優しく穏やかな香りが鼻孔に満ちた。