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短編集

卵かけごはんで始まる魔物と人の英雄譚

作者: セキムラ

卵かけごはんで世界が救えるか!?

 春だ。

 霜柱が汚染された土を押し上げることはもうなくなり、新たな生を謳歌せんと植物たちが芽吹き始める。冬眠から覚めた生物たちが、空腹よりもまず柔らかな日差しに目を細める。少年少女たちが、新たな人生の門出を迎える。桃色の花吹雪をかき分けるように進む彼らを、時代を担ってきた大人たちが見送り、彼らはようやく半生を振り返るいとまを見つける。

「……春だ」

 今度は口に出して言ってみる。そうすることで、より強く実感できるような気がしたからだ。

 私は愚かなのだろう。

 人間と魔物との長きにわたる戦争は、激化の一途をたどっている。たいした力もない自分のようなものだって、いつ徴兵されるかわからないご時世だ。優秀な兵士だった父が今の私を見たら、雷鳴のような怒号でもって叱咤したに違いない。季節の移ろいに目を細める時間があったら、護国のために身体を鍛えて備えるべし。父が戦争に行って五年。戦死を告げる報せが届いてから三年が経つ。母は私産んですぐに死んだそうだ。窓を閉めてしっかりと施錠し、父母の遺影に手を合わせて家を出た。

 出勤してしまえば、力強くも心地よい春の息吹を感じることはできない。私は短い通勤路をできるだけゆっくり進み、通常の倍――三十分ほどかけて目的地にたどり着いた。

 巨城の正門は高く、それを見上げる私の目から太陽を完全に隠してしまっていた。城の主の意向で全ての窓が陽光を避けるように設置されている。この建物の最下層である地下牢が、愛すべき私の職場だ。

「やあ、バンさん」

「……」

 私の姿を認めるなり、一人の囚人が声をかけてきた。囚人との会話は禁じられているわけではないが、みだりに口をきいてよいものでもない。しかし私は、私を「バンさん」と呼ぶこの囚人が好きだった。私の知らない世界で生まれ、戦場で捕虜となった彼は、退屈でしかない牢屋番の仕事を少なからず面白いものにしてくれる。

「なあ、バンさん」

 今日はとっておきの話があるんだぜ。そう言って、格子の向こうで粗末な寝台に寝転んだまま手招きをする彼の近くに立って、私は槍の穂先を天井へ向けた。表向きは職務を全うしているように見せるためだが、頬が自然に緩むのを止めることはしなかった。

「俺がマルマン地方の遠征に参加したときのことさ。三日目の晩に――」

 私は牢屋に背を向けて立っているというのに、彼はかまわず話し出した。私は相槌を打たないし、気の利いた返事を返すわけでもない。ただ彼の話を黙って聞いているだけだ。彼はとても有名な戦士であり、様々な戦地で戦ってきた。その手にかかった仲間の数は、百や二百ではないそうだ。

「そこで食った鳥料理は最高だった! 葡萄をソースに使っているというんだがな、それまで味わったものとは一線を隔す旨さだった。それがマルマンで採れる野生の葡萄でないと、その味は出せんというのだから意地が悪いことこの上ない!」

 だのに、彼は武勇伝を語ることはなかった。彼以外の囚人たちは、私を毎日口汚く罵ったり、どれだけ多くの仲間を殺してきたかを恐ろしげに語る者がほとんどだった。城に囚われた戦争捕虜は、例外なく処刑されてきた。その日が近づくにつれて、囚人たちは様々に変容していくが、大抵は意気消沈し、泣き言を垂れて命乞いをした。中には気が触れたようになって排泄物を投げつけてくる者もあった。

「しかもだ、バンさん! その希少な葡萄だけを使って作る葡萄酒の味ときたら! ああ、思い出すだけであの甘美な舌触りに酔ってしまいそうだ」

 彼はいつも饒舌だった。この日だけ特別明るく振る舞っているわけではない。処刑の日を明日に控えているというのに、この男の胆力には舌を巻くばかりだ。

「……アルフレッド」私は振り返り、彼に呼びかけてみた。私は名前を持たないが、囚人の名前くらいは知っている。牢屋番として当然のことだ。

「嬉しいね、初めて話しかけてくれたな、バンさん」

 アルフレッドは、野放図に伸びた髭に包まれるようになって、かさかさに乾いた口許をほころばせた。二か月に及ぶ囚人生活ですっかり痩せこけ、頬骨が浮き、絹の様だった髪は油と血で岩のように固まっていた。ボロボロにすり切れた麻衣を纏い、墓場から這い出た魔物もかくやという出で立ちのアルフレッドが、朽ちかけた木の寝台から身を起こし、苔が生えた石造りの床に足を降ろした。

 冷たい石の隙間から染み出す水を啜る力も残っていないはずの囚人――かつて勇者と呼ばれていた男が、枯れ枝のようになってしまった足で冷たい石床に立ち上がった。片脚を失っていることも手伝って、それはひどく緩慢な動作であり、軽くなってしまった体重を支えるために格子にかけた左手は震えていた。男のどこに立ち上がるだけの体力が残っていたのか。私は廊下の高い位置に設置された松明の炎によって、仄暗く照らされたアルフレッドの目を見て戦慄を覚えた。だが、恐れることはないと自分に言い聞かせた。彼が並外れた力を誇っていたことは間違いないが、数多の仲間を屠った剣の柄を握っていた右手は、腱を切られて使い物にならないし、今の彼は何の武器も持っていない。そして何より、彼の目から殺意を感じることはなかった。

「死ぬ前に……喰いたいものはあるか」私はどうにかその場に踏みとどまり、訊ねてみた。

「……ははは」

 アルフレッドは、一瞬目を丸く見開いて沈黙した後、親しげにそれを細めて笑った。そして「酷なことを言うなあ」と呟いた。

「酷だろうか」私はいささか憮然として答えた。

 彼は牢屋で毎日のように、楽しい話を聞かせてくれた。祭り、踊り、豊かな食事――見たことがない人間の暮らしぶりを想像して、私は早く戦争が終わればいいと思ったものだ。魔物の中にも反戦派――親人間派がいることはいる。魔王の支配力が強大に過ぎる故に、私の様な思想を持つものがそれを表明することは許されない。人間のことを記した書物を所有することも、何もかも。だが囚人が地下牢で喚くのを、わざわざ止めに来るものはいない。私は彼に、何かお礼がしたかった。と言っても、私にできることは多くはない。せいぜい顔なじみの料理番に頼んで、少しいい食材を譲ってもらうくらいだ。アルフレッドは食い物の話ばかりしていたので、きっと喜ぶと思ったのだが。

「酷だろうよ。バンさん」

 期待に反して、アルフレッドは項垂れてしまった。

「お前は明日、魔王様ご自身の御手によって処刑されるのだ。死ぬ前に望みを叶えてやろうと言うのが、酷なことか?」槍を肩に担ぎ、バンさんという名前をくれた囚人に訊ねた。

「ああ」

 アルフレッドが冷たい床を見つめたまま応じた。

「なぜだ。お前はいつも、あれがうまかったとか、これはもう一度食べたいとか話していただろう」私は格子に一歩近づいた。あと半歩で、奴が腕を伸ばせば届く距離だ。「死ぬ前に、喰いたいものはないのか」

「俺がなんで、食い物の話ばかりしていたと思う」

 絞り出すような声で言うと、アルフレッドは顔を上げた。どのような責苦に晒されようと、うめき声一つ発しなかった男が、初めて見せた苦悶の表情だった。

「喰うのが好きだからだろう」

 人間は、欲にまみれた生き物だと聞いている。自分たちの世界だけでは飽き足らず、魔界をも手中に収めようとしているのだと。

「そうじゃないんだよ……バンさん……本当に食いたいものを、忘れるためさ」

 アルフレッドは深く息を吐くと、眉間に皺を寄せて話し始めた。その口調は、これまでのものより幾分幼いものに変わっていた。

「ガキの頃からわかってた。俺は、他のやつらとは違うってな。俺にはさ、バンさん。神の声ってやつが聞こえてた。そいつが言うんだよ。『神の子よ、魔王を退治て世界を救え』って。迷いなんて無かった。剣の稽古に魔法の勉強、成人してからはひたすら魔物を狩った。なんつったか忘れちまったが、魔王の側近とかいう牛のバケモンを倒したことで、俺は王様から『勇者』の称号を頂いたんだぜ」

 勇者自らが、勇者たる所以について語った。アルフレッドに倒された側近とは、猛牛将軍デスフリート様のことだろう。大々的に国葬が行われたことは記憶に新しい。

「間抜けにも掴まっちまってから神の声は聞こえなくなった。ああ、俺は見放されたんだと思ったよ」

 アルフレッドが右肩を軽くすくめて見せた。手首から先は、力なく垂れ下がったままだ。

「足を切られ、手首の腱を切られて逃げ出すことも不可能になった。俺はこのまま死ぬんだと悟るのに三日もかからなかったぜ……」

 兵士たちの会話が耳に入ったことがある。戦いに身を置く彼らは、戦場で死ぬことこそ本懐だと言っていた。勇者のように牢獄に囚われ、徐々に衰弱させられていくなんてまっぴらごめんだと話していたのを思い出した。

「俺は喚いた。運命を呪ったよ。神の言葉なんて無視して、病気の母ちゃんのそばに居てやればよかったんだ。……なあ、覚えてるかい? 俺たちが初めて会った時のことを」

 私がアルフレッドの牢番に配置換えを命じられた時には、彼が投獄されて一週間ほど経っていた。初日、私が世界最強の人間が囚われた牢へ緊張して赴くと、彼は不自由な身体を引きずるようにして移動し、格子にすがるようにして立っていた。普通の人間ならとっくに絶命していると思われるほど傷だらけであったにも関わらず、その眼光は鋭かった。名前を訊ねられた私は、正直に名前などないのだと伝えた。魔物の子に与えられるのは血と肉になる食物と、仕事だけだ。名前があるのは魔王様を始めとする仲間の頂点に立つ王族と、将軍や大臣などの高官、それから特別な功を立てたものに、魔王様が気まぐれに名前を授けてくださることがあるが、極々希なことだ。

「『ただの牢屋番だ』あんた、そう言ったんだ」

 アルフレッドの言う通りだった。そして彼は「じゃあ、バンさんだ」と言った。夕食のことかと首を傾げた私を見て、満身創痍の勇者は一瞬キョトンとした後に笑ったのだった。

「あんたはほとんど何も言わなかった……俺を罵りもしないし、槍で小突くこともない。妙な魔物がいたもんだと思ったよ。勘違いだったらすまないが、あんたはちょっぴり、俺を憐れんでもいた。そうだろ?」

 またしても彼の言う通りだった。私は、かつて戦場で恐れられた最強の人間の姿を見て、憐れだと思った。戦争は、不幸な犠牲者を量産する災害のようなものだ。私は黙って頷いた。

「俺は、それで力が抜けちまった。悔しいとか生きたいとかいう感情がストンと抜け落ちてしまったんだ……そしたら、無性に食いたいものを思い出したんだよ」

 まるでその言葉に合わせて糸が切れたように、彼は床に崩れ落ちた。ついに体力の限界を迎えたのだろうか。助け起こしたい衝動に駆られたが、それを実行に移すわけにはいかなかった。格子の向こうに居るのは敵であって友ではないのだから。彼と直接触れ合ってしまえば、後戻りはできなくなる。そんな予感が私の足をその場に縫い付けた。

「ああ」

 アルフレッドは仰向けに倒れ、荒い呼吸を繰り返していた。

「卵かけごはんが、食いてえ」

「卵かけ……なんだって?」

「…………」

 勇者はそれきり、何も言わなかった。彼はその後、夜勤の時間になっても口を開くことはなかった。城の最下層、地中深くに造られた地下牢に彼の呼吸音だけが響き渡っていた。



「なんだー? 今忙しいんだ! 後にしてくれないか?」

 城の厨房はいつも活気にあふれている。私が夜勤のものと交代する時間は特に。とりわけこの日は、勇者処刑の前夜祭の準備とあってか、知っている料理番を訪ねた私は、厨房の奥から出直すよう告げられてしまった。

「すまないが急いでいるんだ! 『卵かけなんとか』という料理を知っているかー!」

「はー? 卵~?」

「おい、お前! そこどいてくれよ!」

 レンガを積み上げて作られた竈の前で鉄鍋を振るう友人と私の間には、同じような造りの窯が十も並んでいる。その全てに火が入れられ、厨房で働くものは皆汗まみれだった。鍋を振るっているものたちの後ろでは、料理を盛り付けるものとそれを運ぶもの、洗い場へと汚れ物を運ぶもの、食材を切り分けるものなどでごった返しており、その中から碧眼の小鬼が飛び出してきた。

「ほらほら、どいたどいた! 仕事の邪魔だよ!」

 黄色地に茶色の斑点模様が描かれた腰布を巻いた小鬼が、私の足元でピョンピョン跳ねて口をとがらせていた。彼女は自分の頭の三倍はありそうなスイカを抱えていた。道を譲ってやるとすごい勢いで厨房を飛び出して行き、それを見送った私の背に、友人から答えが返ってきた。

「卵なんちゃらなんて、知らないよー! 卵なんて、丸ごと食う以外にどう料理するってんだ! なあ!? みんな」

 厨房のあちこちから同意の声が上がり、私の知り合いは満足そうに頷いた。

「それよりお前、暇ならてつだって――って、お~い」

 私は厨房を後にした。

 城の料理番たちが知らないのであれば、手の打ちようがない。表立って人間を研究している学者などいるはずもない。知に秀でた文官の誰かならばあるいは――

「またお前か! そこどいてくれよ!」

 厨房の入り口で思案しているところに、先ほどの小鬼が戻ってきた。出て行くときに持っていたスイカはなく、彼は手ぶらだった。

「すまない」

「……」

 脇にどくと、小鬼は少し珍しいものを見るような目で私を見上げた。

「城で働く奴で、おいらに『すまない』なんていう奴、初めてだ」

 小鬼は、魔物の中でも力が弱い部類に入る。足は速いが、それは訓練されていない人間と比べればというレベルの話であって、兵士としては役に立たない。加えて魔力も多く持ち合わせておらず、頭もそこまで良くない。百年以上続く戦乱の世にあっては、小鬼の地位はけして高くなかった。

「お前、牢屋番だろ? なんで厨房にいるんだよ」

 小鬼は、胸元に光る紋章を見て私の身分を判断したようだ。私は彼女に正解であることと、厨房を訪ねた目的を告げた。すると小鬼は腕を組み、小さな胸を張ってみせた。

「ははーん、それはお前、『卵かけごはん』だな」

「知っているのか!!」

 まったく期待していなかった相手から卵料理の情報を得られると思い、気がつくと私は彼女の両肩を掴んで揺さぶっていた。

「教えろ! それはどういう料理なのだ!?」

「い、痛いよ! 離してくれよぉ!」小鬼の悲鳴で我に返った。彼女たちに比べれば、私の方がずっと力が強いのだ。

「す、すまない……」

「ったくぅ。卵かけごはんてのはな、人間が食べるコメってやつに、卵を割って中身をかけた食いもんさ。……お前、なんだってそんなに必死なんだよ」

「それは――」私は言い淀んだ。卵かけごはんの正体が分かったことは僥倖だったが、自分がなぜこんなにも必死にそれを求めているのだろうか。

「まあ、いいさ。ムズカシイことは、おいらにはわからねえからな」

 小鬼は胸の前で組んでいた腕を頭の後ろに回し、フンと鼻から息を吹いた。

「……」

 私は顎に手をやって考え込んでしまった。コメという食材は聞いたことがない。城の料理番たちも、卵を料理した経験など無いようだったし、アルフレッドの望みを叶えることが困難であることは十分にわかった。しかしどうにならないだろうか。

「……もしかしてお前、卵かけごはんが喰いたいのか? もしそうなら、おいらがなんとかしてやるぜ?」

「本当か!?」思いもかけない言葉に、私は再び興奮していた。

「ああ」

 小鬼が、まかせとけと言って下から私の目を覗き込んだ。いたずらっぽい微笑みを浮かべているが、小鬼は嘘をついたり策を弄したりすることはないはずだ。

「実は、卵かけごはんを求めているのは、私ではない」

「なーんだ。じゃあ、誰が喰うんだ?」

 私の答えに対し、小鬼は不満そうに問いを返した。彼女も魔物である以上は、勇者に喰わせると聞いたら協力してくれないだろう。

「……私の母だ。病気なのだ」

 私は、生まれて初めて嘘をついた。



 勇者処刑の前夜祭が行われているおかげで、城の中庭は大変な賑わいを見せていた。魔王様の演説が終わり、前祝の酒が振る舞われてからはより一層の喧騒となっていた。

 私は小鬼と連れ立ってその喧騒を抜け、城の敷地内の北東の隅に掘られた巨大な穴――ゴミ捨て場に来ていた。

 小鬼――ほんの数日前まで人間に奴隷として飼われており、名を「イコ」という――によれば、彼女を連れていた隊商を仲間が襲った際、荷の中に確かにコメがあったそうだ。魔物はコメを食べる習慣がないため、それをここに運んだとイコは主張した。

「あったぞ! コメだ!」

 ニコが穴の縁から下を覗き込み指差したそれは、藁で編んだとみられる奇妙な円筒状の物体で、隣に突き出ている巨大魚の頭と同じくらいの大きさだった。何か大きな塊を包んでいるのだろうか。

「……あんな巨大なものに、卵をどれだけかければいいのだ」

 イコによれば、人間は卵をたくさん産む鳥を飼っているらしい。そのような技術を持たない私たちにとって、卵は希少な食べ物だった。故に、料理にして振る舞うほどの量が出回ることはなく、狩りに出た猟師と食通たちの間における、ささやかな楽しみ程度にしか知られていない。当然城に備蓄されているものではないし、知り合いの料理番に頼んでも手に入るのは一つか二つだろう。

「バンは馬鹿だな。あれ全部をごはんにするわけないだろ」

 イコが呆れた顔で言った。彼女に名前を訊ねられ、私はバンだと名乗っていた。魔物のほとんどは名前を持たないので、彼女は私に名があることをとても喜んでいた。アルフレッド意外にそう呼ばれたのは初めてのことであり、私はなんだかむず痒いような気持ちになった。

「バン、コメはすごいんだぜ。コップ一杯のコメを水と一緒に煮ると、人間一人分のごはんができる!」

 そんな私の気持ちに気づくはずもなく、イコはバンを繰り返した。

「ところで、ごはんとはなんだ?」

「バンはそんなことも知らないのか。コメを煮ると、ごはんになるんだぜ」

「なるほど。だがコップに一杯程度の量で、人間は腹が膨れるのか?」

 アルフレッドは肉や魚、パンなどというものは大量に食べていたと聞いている。彼が、その程度の少ない質量で満足できるとは思えなかった。

「ほんと、馬鹿だな~バンは。コメはな、水で煮ると大きく膨れるんだぜ」

 私が何度も質問すると、イコはうんざりした顔になりながらも答えてくれた。

「……そうか」

 イコに何度も馬鹿と言われるのは少々癪だったが、どうやら大量に卵を手に入れなくても済みそうなことがわかり、私は胸を撫で下ろした。

 私はイコと共にコメの近くに飛び降り、爪で藁を裂いた。すると中から茶色がかった小さな粒が零れ落ちた。

「これがコメか?」

 サラサラと流れ落ちてくる粒を両手に受けながら訊ねた。勇者一人分なら、片手に一杯も調理すれば十分だろう。元々捨ててあったものをいくら持ち出そうが、誰も文句は言うまい。

「そうだぜ。でもそのままじゃあまり旨くないんだ。こうやって……」

 イコはコメの粒を一つまみすると、指同士をこすり合わせ始めた。

「ほら! カラが取れた!」

「おお」

 開かれたイコの掌には、ややくすんだ白い粒が十ほど転がっていた。「食べてみろよ」と言われ、私はそれを一粒口に放り込んだ。鋸歯状の歯で噛むのに難儀したが、粒が砕けるとほのかに甘みを感じた。

「甘いのだな」

 私が感想を述べると、イコはにんまりと笑って頷いた。

「洗って、煮るともっと甘くなるんだぜ」

「ふむ」

 藁の中からアルフレッドに喰わせるには十分すぎる量を掻き出して、スカーフに包んだ。イコを脇に抱え、一跳びでゴミ捨て穴から飛び出した。彼女は楽しそうに声を上げて笑っていて、私は内心の焦りを悟られなくてよかったと思っていた。アルフレッドの容体も気になるし、あまり長くゴミ捨て穴に留まると、「ゴミ処理屋」が目を覚ましてしまうかもしれなかったのだ。



 イコからごはんの作り方をより詳しく聞き出し、お礼にコメを少しばかりやって別れた。イコはごはんを作るところを見たいと言ったが、万が一、それを虜囚に喰わせるつもりであることが発覚した場合、彼女にも危険が及ぶことになるだろう。それは避けたかった。頬を膨らませながら去って行くイコを見送り、奴隷身分であった頃と、今の暮らしとどちらが幸せかを、彼女のむち打ちによると思われる傷だらけの背中に訊ねることはやめておいた。

 厨房へ戻ると、知り合いの料理番の他に仲間はいなかった。皆、前夜祭の仕出しを終え、後片付けまでの時間を広場で過ごしているのだそうだ。

「へぇ~、これがコメかぁ」

 私の知り合いは、皿に出したコメを長く伸びた爪の先で器用に一粒だけ摘まんでしげしげと眺めていた。

「これを煮て、卵の中身をかけるのだそうだ」

「ふんふん。で、それって旨いのか?」

「イコ――小鬼によるとこれだけの量で四~五匹分はある。コメを喰えばたちまち腹が膨れ、奴らは日が沈むまで働けるそうだ」

「そりゃあ、すごい! こんな小さな粒にそれほどの滋養があるのか!」彼は感嘆の声を発し、指の腹でコメの殻を剥きながら「だが、殻を剥くというのが面倒だな……」と不満を漏らした。食糧事情は兵士たちの士気に大きく影響する。新しい食材を目にし、すぐさま実用できるかどうかの検討に入ったようだ。だが私としては、今にも死んでしまいそうなアルフレッドのために、できるだけ早くこのコメを煮てごはんとやらを作ってもらわねばならない。彼がコメに対する興味を失わないよう、持っている情報は隠さず与えてやることにした。

「田畑のある人間の村へ行けば、すでに殻を剥いたものが保存してあるそうだ」

 勇者としては、コメのために人間の村が襲われるようになるのは不本意に思うだろうか。

「なるほどなるほど。人間を襲えばいくらでも手に入り、滋養も高い。これで味もいいとなれば、これまで捨ててきたというのが馬鹿らしいな。……どれ」

 殻が剥けたコメ粒を耳まで裂けた口に放り込むと、彼は咀嚼という行為を行うことなく飲み込んだ。蛇型の魔物は基本的になんでも丸呑みにしてしまうくせに、きちんと味わっていると主張する。だが、城の料理番たる彼らが作る料理は実に旨い。味覚は信用できるはずだ。私は黙って彼の様子を見守った。

「ふーむ……かすかに甘みがあるな。これは、麦やなんかよりよほど味がいい」

 どういう仕組みで飲み込んでしまったものの味を感じるのだろう。彼は口角の隙間から二股に割れた舌を覗かせながら感想を述べた。

「煮ると膨れて柔らかくなり、ごはんという料理になるそうだ」

「ふむふむ。なるほど……この硬さからいくと、水はこんなもんだろ」

 すでに殻を剥いて白い肌を露出させたコメを洗い、鍋に水を汲みいれた。それは、イコから聞いていたのと相違ない分量に見えた。料理番の勘というものだろうか。彼の腕前は信用しているが、ごはんを作る際に欠かせないある決まり事だけは伝えておかねばならない。

「蓋をして火にかけるのだそうだが、まず呪文が必要だそうだ」

「なんだって?」

 呪文を唱えるということは、魔法を使うということだ。行使する力の大きさにもよるが、魔法は魔力が無ければ使えないというのが常識だ。したがって料理番が、「魔法が使えなきゃ作れないのか?」と言って肩を落としてしまったことは仕方がない。

「大丈夫だ。これは、魔力なしで使える呪文なのだ。人間の農夫にもできたそうだ」

「そうなのか。じゃあ、早くその呪文を教えてくれ」

 新しい料理への挑戦と、呪文を唱えて魔法を使うことの両方に興奮したのだろう、急かす彼を落ち着かせ、私はゆっくりと呪文を教えた。なにしろ呪文というものは、正確に唱えなければ効果を発揮しないのだから。焦らずに挑んでもらいたいものだ。

「では……」

 竈に火が入れられ、私たちは鍋を見つめながら呪文を唱えた。魔力を多く持たない私にとって、このような儀式めいた行為はとても緊張するものだった。これがうまくいかなければ、アルフレッドにごはんを食べさせてやることができない。そう何度も、ゴミ捨て穴に出向くのは危険だ。

 はーじめちょろちょろ、なかぱっぱー

 くつくつと煮え始めた鍋を前にして、私と料理番は厳かに唱え続けた。



 私は再び、薄暗い地下牢を訪れた。先刻交替した牢番が、訝しげな視線を送ってくる。

「どうしたんです? 忘れ物ですか?」

「いや、そういうわけじゃないが……変わりはないか」

 私は慎重に言葉を紡いだ。

「はい。交替してから今まで、奴はまったく言葉を発しませんでした」

「そうか……」

 アルフレッドが、私以外の牢屋番に話しかけることはほとんどないことは知っていたが、この日ばかりは死んでしまっているのではという思いがあり、私は焦燥を悟られないよう咳払いをした。

「お前も、前夜祭に出たいだろうと思ってな。私は十分に楽しんだし、明日は非番だ。今夜は私がこのまま番を務めよう」

「ええっ! 宜しいのですか!?」

 私より五つ後輩の牢屋番は、飛び上がって歓喜の表情を浮かべた。ネズミ型の魔物の特徴である二本の長い前歯が大きく顔を出した。

「ああ。この通り、夜食も用意してきた」

 私は懐から、木箱を取り出してちらつかせた。

「くんくん。なにやら嗅いだことのない匂いですね。なんですか?」

「知り合いの料理番と一緒に作ったのだ。そのうち城内で出回るようになるかもしれん。まだ開発の途上故、口外してはいかんぞ」

「わかりました。……でも、本当に宜しいんですか?」

「いいから、行け。楽しんでこい」

「ありがとうございます!!」

 若い牢屋番は、槍の穂先に皮のカバーをかぶせると、いそいそと地上へと続く階段を上がって行き、ほどなくして重い石扉が開閉される音が響き、地下牢には静寂が訪れた。

「……」

 私はさらに数分待った。それこそ若い牢屋番が忘れ物だとか言って戻って来るかも知れない。

「…………アルフレッド」

 他に誰も居ないことは十分に分かっていたが、私は声を潜めて呼びかけた。

「ごはんと、卵を用意したぞ」

 格子の向こうからは返答がなかったが、私は懐から木箱と卵を取り出した。

鍋から湯気が出なくなるまで煮たコメは、元の体積の三倍程度に膨張していた。鍋肌に少々焦げ付きはしたものの、概ねイコから聞いていたごはんという料理の特徴は再現できた。料理番はそれを試食し、「確かに腹が膨れるし、旨みや甘みなどは生で食したときとは比べ物にならないな!」と言って目を輝かせていた。卵は、よい食材を紹介してくれた礼にと快く分けてもらえた。彼が新たな料理への探求心で興奮している間に、私はそそくさと厨房を後にした。あまり長居して、卵かけごはんのことをあれこれ聞かれるのは困る。

「おい、アルフレッド」

 私は格子に近づき、木箱の蓋を開けた。まだ温かい白銀の粒たちから湯気が立ち上り、ふくよかな香りが鼻孔をくすぐる。

「アルフレッド……?」

 囚われた勇者は、何の反応も示さなかった。腐食と彼の血でどす黒く変色してしまった寝台の上に仰向けになったまま、ピクリとも動かない。もっと彼の様子を知ろうとして、私は格子に顔を挟むようにして中を覗き込んだ。危険な囚人を監視する牢屋番として、絶対にやってはいけない行為だ。アルフレッドが処刑前夜に逃走を謀り、死んだふりをしている可能性もある。この距離では簡単に首を掴まれてしまうし、目つぶしなどの攻撃もあり得る。もちろん、夕方までの彼の様子からしてそんなことができるとは思えなかった。

 一旦格子を離れ、廊下の松明を一つ取って戻った。私は格子の隙間からそれを中に突き入れ、寝台の上を照らした。

「アルフレッド……」

 三度、横たわる友人の名を呼んだ。

 アルフレッドの顔色は青白く変色していた。冷気が漂う地下牢では、吐く息は白くなる。ボロを纏う胸の動きは認められず、半開きの口からはいささかの曇りも出ていなかった。明らかに、勇者は息絶えていた。

「…………」

 私は格子から離れて松明を戻し、牢屋の前に座り込んだ。

「間に合わなかった……のか」

 間に合わなかった。彼の命の灯は消えてしまった。開けたまま床に置いてしまった木箱を持ち上げ、スカーフで汚れを拭き取ってから膝の上に乗せた。いつの間にかごはんは冷めてしまっていたが、まだ艶やかさを保っていた。

「卵を、かけるのだったな」

 考えてみれば、中身だけをごはんの上にかけるという行為は非常に難しい。なにしろ卵を割ったことすらないのだから。割れて中身が出てしまった卵なら、見たことはある。

 私は爪で、卵の殻を突いた。小指の先ほどの穴が開き、それをごはんに向けて振ってみたが、半透明の液が小さな半球状に盛り上がるだけで、中身が落ちてくることはなかった。仕方なく卵を持ち直し、爪の先を使って穴を広げた。中身だけをかけると言うのだから、硬い殻は入らない方がいいのだろう。柔らかいごはんと卵の食感の中に、硬い殻が入っていることを想像した私は、できるだけ丁寧に作業を続けた。

 どうにか中身が滑り出て来る大きさに穴を広げ、ごはんの上にそれをかけた。半透明液の向こうに白いごはんが透けて見える。中央に鎮座する黄色の部分が目玉のように見えた。お世辞にも、旨そうには見えない代物だった。

「本当にこれでいいのか? アルフレッド」

 暗い牢屋の奥に向かって問いかけたが、当然返事はなかった。アルフレッドは、いつごろ息絶えたのだろう。若い牢屋番と話しているときは、まだ生きていたのだろうか。少しでも、ごはんの匂いだけでも感じられただろうか。それとも私が余計な気を回したために、より深い絶望を味わわせてしまったのだろうか。

 私は立ちあがることができなかった。本来なら、囚人の死を報告に行かなければならないのだが、どうしてもアルフレッドのそばを離れられなかった。



「牢屋番! 何をしている!!」

 どのくらいそうしていたのだろう。私は誰かの怒号で我に返った。座ったまま振り返ると、怒号の主は私の上官だった。格子のすぐそばで座り込む私に燃えるような視線を送りながら階段を駆け下りてきた。その後ろを複数の足音がついて来るのも聞こえたが、そちらの歩調はゆっくりとしたものだった。

「ええい、すぐにその場をどくのだ! 何を捕らえているかわかっておるのか!」

 彼の言うことはもっともだ。私はぼんやりと頭の中で肯定し、木箱をもって立ち上がった。

「まったく、のんきに夜食など喰らっている場合ではないぞ……ん?」

 上官はのろのろと立ち上がった私の目の前を通り過ぎ、牢屋の奥に目を凝らした。

「これは……貴様!」

 ハッと息を飲むと、すぐに私に詰め寄ってきた。

「囚人が死んでおるぞ! いつだ!! どういうことだ!!」

「ほう、死んだのか」

 襟元を掴み上げ、語気をさらに強める上官とは違う、落ち着き払った声が地下牢に響いた。それは、ただ声を発するだけで魔の眷属すべてを従え、光に属するものを威圧する存在。光ある限りそれを喰らい尽さんとし、覇道を阻む全てを蹂躙する闇の王。魔王様だった。

「陛下! 事の顛末を早急に――」

「よい。死体を運び出す手筈を整えよ」

 上官は私を突き放すと、魔王様に最敬礼して言葉を発したが、魔王様はそれを遮ってしまわれた。

 私たちにとって、魔王様のお言葉は絶対だ。上官は主の命に異を唱えることはなく、再び最敬礼をしたのちに階段を駆けていった。

「……アムドラよ、よく見るのだ」

 魔王様は、傍らに控えておいでだった王子殿下を呼び寄せた。祭礼用の煌びやかな宝飾が施された軍服を着たアムドラ様が、格子に近づいた。

「牢屋番、灯りを」

「はっ」

 私は片手に木箱を持ったまま、慌てて松明を取りに走った。たかだか牢屋番が、魔王様と王子殿下両名と対面することなど本来ありえない。このように近くでお言葉を賜ることもこの上ない名誉なのだ。それを頭では分かっている故に、条件反射的に行動できた。だが心の中では、アルフレッドを死に追いやった張本人を前にして、黒い感情が頭をもたげていた。

 牢屋を開き、私が魔王様と王子殿下を先導する形で中に入った。

「ふうん。死んでしまえば、別段他の人間と変わりないものだな」

王子殿下は松明の灯りに照らし出された勇者の躯をしげしげと眺めるでもなく、一瞥しただけで興味を失ってしまわれたようだった。

「それでよいのか。こやつには貴様の兄や、将軍たちが殺されたのだぞ」

「ええ。民草の見ている前で怨み言などをぶつけるわけにも参りませぬ故、父上に処刑されてしまう前にと思いましたが……」

 王子殿下はもう一度アルフレッドが横たわる寝台に目を向けると嘆息し、「死体を弄るような趣味もありませぬ」と言って牢を出られた。魔王様は、王子殿下のご様子をご覧になってから頷かれ、地下牢を後になさった。王子殿下は、「牢屋番と話がございます」と仰せになり、その場に留まっておられた。

「まったく。死にかけの囚人一人を訪ねるのに、お守りが必要だと思われていることが歯がゆいわ」

 ご子息以上に豪奢に飾りつけられた外套を揺らして去っていった魔王様のお姿が見えなくなると、王子殿下は苦笑いを浮かべた。

「殿下……お話しとは」

 王族と二人きりで話す機会などこれまで訪れたことがない。私は何を訊かれるのかわからず混乱していた。発言の許しも得ずに声を発してしまったことを後悔する前に、王子殿下が振り返って口を開いた。

「そなた、父上にわずかに敵意を抱いたな」

「……!」

 ほんの一瞬、アルフレッドの仇とも言える魔王様によくない感情を抱いたことを見抜かれていたのだ。不敬罪に対する罰は極刑だ。私の背を、冷たいものが伝った。

「くくく。そう硬くなるな……たかだか牢屋番ごときが、大魔王フェルディナスを前にして、

平伏するどころか敵対視するほどの胆力を持っているとはと褒めているのだぞ?」

「そんな、滅相もございません……」

 今のお言葉に「ありがたき幸せ」などと答えるほど馬鹿ではない。しかしどう答えていいかもわからず、私の混乱は狼狽に変わった。

「やれやれ……」

 私の様子をご覧になって、呆れたように肩を竦めた王子殿下は、なんと牢屋番が休むために設置されている粗末な椅子に、どっかりと腰を降ろした。

「そのように硬くなられては話も出来ん。身分の差がそうさせているのなら、命じてやろう。今よりそなたは俺と対等に口をきくのだ。出来ぬと言うならこの場でそっ首刎ねてやろうぞ」

「い、いったい、何故……」

「父上に敵意を抱いた理由を話せ」

「それは……」

 正直に勇者の仇だからですなどと言えば、やはり首を刎ねられてしまうのではないだろうか。殿下の真意が読めなかった。だが、対等に口をきけというのならそのようにさせてもらおう。

「殿下には、言えません」

「なんだと?」

 アムドラの紫眼に炎が宿ったように見えた。

「殿下は私に対等であれと命ぜられました。私が魔王様に僅かながら……その、悪い感情を抱いてしまった理由を申し上げれば、魔の眷属として生きる私の運命を左右することになるでしょう。故に、言えません」

「なるほど。そうきたか……ならば――」

「魔を総べる王の子が、舌の根の乾かぬ内に命令を撤回なさるのですか?」

「ぬう……」

 アムドラは唸り、緩やかなウェーブがかかった黄金の髪が生える頭をバリバリと掻いた。王族の命令を逆手に取って窮地を脱しようとしたのだが、これでアムドラが激高してしまえば、私のような小さきものなどあっという間に消滅させられる。だが、これからもずっと、友を失った悲しみが満ちる牢獄で番をして暮らしていくよりはマシかもしれない。

「ふん! そなたは、なかなか口が回るようだな……ん?」

 アムドラは立ち上がると、私の左手の木箱に目線を落とした。

「父上のことはいずれ聞き出すとしよう。それは何だ?」

「これは……」

「なんだ? それも秘密か?」

 またしても言い淀んだ私に、アムドラが詰め寄ってきた。

「見たこともない代物だな……まるで巨大な魚の目のようだ」

「これは、卵かけごはんです」

 ごはんの存在は、すでに料理番に知られている。味と栄養の評価が済めば、今後兵士、場合によっては王族の食卓に並ぶこともあり得るのだから、今秘密にしたところで損にしかならないと判断した。

「卵……なんだと?」

「卵かけごはんです。白い粒がコメを煮たごはんというもので、上に乗っている半透明と黄色のゲル状のものが卵の殻を割った中身です」こうして口で説明してみると、ずいぶんと単純な料理だ。世界中で美食を味わったアルフレッドが、死ぬ前に食べたいと呻くほどのものとは思えなかった。

「つまり、食物だということだな?」

「その通りです」私は、ごはんの原材料のコメという作物の存在と、イコと料理番と協力して、最終的に呪文を唱えて完成させたことを説明した。

「なるほど、それで、それは旨いのか?」

「料理番の評価は上々でした。それに私の友は……死ぬ前にこれが食べたいと言い残して……逝きました」

「……そうか」

 今の言葉と私が牢にこれを持ち込んだことで、私とアルフレッドの関係を察したのだろう。アムドラはチラリと暗い牢の奥へと目を走らせた。

「牢屋番……それを余に喰わせてくれぬか」

「え?」

 これで魔王様に反感を抱いた理由も説明がつき、友という言葉を使ったことで反逆罪にでも問われるかと思っていた私は、意表を突くアムドラの言葉に目を丸くした。

「どうした。祭事にて公務に当たっていた余は空腹なのだ。そなたには別途、夜食を用意させる故、それをよこせ」

「し、しかし」

「毒見など必要あるまい。すでに料理番も試食したのだろう」

「いえ、そういうことでは――あっ!」

 突然、私の身体を電流が走ったような衝撃が襲った。脊髄を走る痛みが去った後、私の身体は一切の自由を奪われていた。

「ふん。問答にも飽いたわ……おお、抵抗するか」

 アムドラの左手掌から、魔力が流れて私の身体を拘束していた。どうにか逃れようと身を捩ったが、すぐに全身がしびれて硬直してしまい、不平を言うことすらできない。

「動きを止めるだけだというに余の片腕を使わせるとはな。……とにかく、それを寄越さぬか。人間最強を誇った勇者が死に際に望んだという料理。是非とも味わってみたい」

 空いた右手で木箱をひったくると、魔の王子は大口を開けて中身を口中に放り込んでしまった。

 私の中に大きな喪失感が広がっていった。アルフレッドとの繋がりが断たれてしまった。そんな風に感じて、私はアムドラの魔力に抵抗することをやめた。

「牢屋番。この料理の名は何と申した」

「…………卵かけごはんです」

 力が抜けてしまった私は、喉を鳴らして全てを飲み込んだ王子の拘束から解かれて床に崩れ落ちたまま答えた。

「旨かった」

「それは、よかったですね」

 できればその言葉は、アルフレッドの口から聞きたかった。

「こんな旨いものを人間が喰っていると知れば、略奪がいっそう激しいものになるだろうな……」

 それは、私も考えたことだった。すでに料理番にはイコから得られた情報を伝えてしまっている。

「牢屋番。お前とその料理番と……小鬼を連れて、明日一番で余のもとへ来い」

「何故ですか」

「勇者が死に、戦争は間もなく終結する。父王は、人間の降伏など許さぬ。人間を皆殺しにするおつもりなのだ。そうなれば――」

 アムドラは真紅の唇の間から、碧がかった舌先を覗かせて舌なめずりをした。

「そうなれば、コメを作ることができなくなるではないか」

「はあ、まあ……そうでしょうね」

 人間がいなくなってしまえば、戦争も起きない。別段コメが無くても、私たちは今まで通りの食生活を続ければいいのではなかろうか。私が考えを述べると、アムドラは目を見開いて怒鳴った。

「馬鹿を申せ! このような美味なるもの、一度食してしまえば忘れることなどできようか! 人間を絶滅させてはならぬ。そなたらと余で、父王を説得するのだ! とはいえ牢屋番ごときが魔王と目通りが叶うわけもないか……」

 まったくその通りだ。私は別に、人間たちが絶滅させられようと生かされようと知ったことではない。政治的なことに巻き込まれるのもごめんだ。

「そうだ!」

 いつの間にか再び椅子に腰を落ち着けていたアムドラが、膝をポンと打った。

「殿下、私は――わっ!」

 そのまま立ち上がり、アムドラが私の両肩をがっしりと掴んだ。驚いて声を上げた私の両肩をそのままバシバシと叩き、彼は満面の笑みで言葉を発した。

「そなたを新たな職に付けることにしよう! ……卵大臣でどうだ!」

「……は?」

「料理番と小鬼はそなたの部下に取り立てようではないか! どうだ!?」

「いえ、その……」

 興奮するアムドラの勢いは止まらない。

「くくく。戦ばかりで常々(まつりごと)から遠ざけられていた余が、ついに国政を左右する日が来たのだ……」

 右拳を握りしめ、遠い目をしたアムドラを呆然と眺める私だったが、次に彼が投げかけてきた言葉で我に返った。

「牢屋番! そなたの名は何と申す!?」

「私の……名でございますか」

「そうだ! 大臣ともなれば名無しでは格好が付かんからな! 無いのなら、余が与えてやるが――」

「名なら、あります」

「そうか? よいものをいくつか見繕って――む?」

何やら思案しだしたアムドラを手で制し、私は考えた。アムドラの言う政には興味がない。所詮私は、小さな力しか持たない魔物にすぎない。どのように喚いても、魔王様の前では羽虫の羽音に等しいだろう。

アルフレッドが横たわる牢を盗み見た。

しかし、もし一杯のごはんで、彼の仲間が皆殺しにされるのを止められるなら――

「私の名前は――」

 彼がつけてくれた名を名乗り、足掻いてみる価値はあるのではないだろうか。アルフレッドは間に合わなかったが、彼が守ろうとしていた幾千万の命を救えるのだとしたら。

 私はアムドラに視線を戻した。

「バン。それが私の名です」



「バンよ。本当によいのか?」

「はい。アムドラ様」

「ふん……余が考案した名の方がよほどしっくりくるというに」

 アルフレッドの躯を運びにやって来た上司とすれ違いに、アムドラ様の執務室へと移動していた。明日の朝になる前に、調印しておくべき書類があるのだそうだ。名前が無くては書類にサインもできない。

 私は文字を書くことはできないため、畏れ多くもアムドラ様に代筆をお願いしたのだが。

「アムドラ様。ずいぶんと文字数が多いように見受けますね」

「うん? そ、そんなことはないぞ」

 明らかに狼狽した様子の王子と数秒見つめ合った。

「……ここには何と、書いてあるのですか」

「……っち」

「はい?」

「ターマゴッチ」

「却下です」

「なぜだ!? 別によいではないか! 記録だけなのだから! 余はこれからもそなたをバンと呼ぼう!」

「公式にそのように記されては、魔王様も他の宦官も私をその妙な名で呼ぶでしょう。却下です」

「妙とはなんだ! そなた、主に向かって――」

 執務室に設置された重厚な造りの机を挟み、私とアムドラ様の言い合いはいつまでも続いた。自分でも不思議なほど、たくさんの言葉が口を突いて出て来た。宮仕えなどできはしないと思っていたが、彼とならやっていけるかもしれない。

 私はくすりと笑い、魔王城の中で唯一、朝日が入り込む執務室の窓の外に目をやった。長い夜が明けようとしていた。


卵かけごはんには様々な流儀があると思います。勘は鋭いけど間抜けな王子と卵大臣は、今後どのような卵かけごはんを生み出していくのでしょう。ご意見、ご感想など頂けると嬉しいです!

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