自嘲
私は人間嫌いである。いや、人間嫌いと言うとあまり大袈裟かもしれないが、一日誰とも会わず、誰とも口を利かず、部屋に籠ることを苦に感じない程度には他人との交流を疎ましく思い、また確固たる己というものを持っている、つまりは完成された人格の持ち主なのである。
ただ、現代社会で生きていくには年がら年中部屋に籠っているわけにもいかない。現代社会、文明を語っておきながらなんと嘆かわしいことか。そういう意味ではこの社会は未発達だと言わざるを得ないかもしれない。
私は週三でコンビニエンスストアのアルバイトをしている。世間ではフリーターと嘲られるかもしれないが、他人の評価などに右往左往するような柔な人間ではないのだ。
私は仕事のない日には極力のこと外を出歩かないよう心掛けているのであるが、人間生きていれば色々とある。休みであっても外に出なければならないときはやはり訪れるものだ。
ああ、腹が減った。そう、たとえば空腹なのに部屋に何も食料がないときなどである。
そういうとき、私は三十分ほどを費やして象のように重い腰を断腸の思いで持ち上げ、尻のポケットに財布を突っ込んで、のっそのっそと出掛けるのである。
私はこれでなかなかのお洒落である。部屋にいるときから最先端のデザインをとりいれた、ゴールドのラインの入ったスウェットを見事に着こなしているので、出掛ける際にわざわざ着替える必要がないのだ。玄関でインテリアの役目も担っている赤いキャップ帽をかぶれば、完璧なのである。巷で噂の『赤キャップのお洒落さん』とは私のことである。そんな噂が巷にあるのか知らないが。
緊急で食料を調達するときは大抵アパートから徒歩二分のコンビニエンスストアを利用する。ここで誤解を招くおそれがあるので忠告しておくが、このコンビニエンスストアは私のアルバイト先ではない。私が勤めているのはもう少し先、年中ボウフラの浮いている池の近くにあるコンビニエンスストアである。夜は滅多に人が寄り付かず静かで趣のある店なのだ。
まあ、私のアルバイト先の話は今回とくに重要ではなく、アパートの近くにある方のコンビニエンスストアに食料調達へ赴いたある日のことである。
私はいつも通り、カップ麺、おにぎり、ペットボトルのお茶を手に取り、さあレジへ向かおうか、と思ったときだ。
「さばの味噌煮はどこにあるかいねえ?」不意にそう問いかけられた。初め私は、それが私に向けられた質問だとは思わなかったのだが、「さばの味噌煮は――」と繰り返されたことで、どうやら私に尋ねているらしいぞ、と声のした方へ私は振り向いた。
そこには六十だか七十だかの老婦人がちょこんと立って私を見上げていた。どうにも私には老人の年齢というのが見当しにくい。六十だか七十だかと言ったが、この老婦人は八十を越えているのかもしれないし、或いは五十代かもしれない。私が黙ってそんなことを考えていると、
「さばの味噌煮は――」とまたもや同じ質問を繰り返そうとしたので、
「ああ、さばの味噌煮ならあっちだったかな」と指をさしながら、老婦人の言葉を私は遮った。同じことなんべんも繰り返されるのは好きではないのだ。
「ああ、ああ、こりゃどうも有り難うさまです」老婦人は深々と頭を下げて、「それで、さばの味噌煮はどこにあるかいねえ?」とまたもやその台詞を口にした。
ああ、駄目だ。ああ、駄目だ。私は頭を掻きむしりたいのを必死に堪えた。だから今、あっちだ、と言ったではないか。この婆さんはすっかり耄碌しちまってるに違いない。私は内心うんざりしながらも、口で説明するより婆さんをさばの味噌煮のあるところまで案内した方が手っ取り早いと結論付けた。もとより私は他人に何かを説明するというのがあまり得意ではないのだ。「こっちですよ」と極力ぶっきらぼうにならないよう努めて、――実際は相当な仏頂面をしていたと思うが――婆さんがついてきているのを確認しながら歩き出した。 ここで正直に告白すると、さばの味噌煮がこの店のどこにおいてあるか私は知りもしなかったのだが、――つまり先ほどは適当に指をさしたのだ――私もコンビニエンスストアでアルバイトをしている身なので案外すぐに発見することができた。
「これです」私はさばの味噌煮を指さした。ここで商品を手に取って渡してやるような親切心は私にはない。私はさっさとこの婆さんから解放されたいのだ。
しかし、どうしたことか。婆さんは一向に商品を手に取ろうとしないのである。それどころか、何やら険しい顔をして、さばの味噌煮と私の顔を行ったり来たり見比べ始めた。そうして、そんなことを三回も四回も繰り返してようやく、「これやないんよ」と言った。
「これじゃないのか?」私は無駄と知りつつ、さばの缶詰めを手に取って問い直した。
「それやない。それやない」案の定、婆さんはこれでもかというほど首を振って、
「缶詰めやのうて、あちしが欲しいんはお湯で温めるやつなんよ」
どうやらこの婆さんがご所望なのは缶詰めではなくパックに入ったさばの味噌煮だったらしい。それならそうと先に言ってくれればこんな二度手間のようなことをせずに済んだというのに。なんとも忌々しい婆さんである。年寄りというのは、あれとか、これとか言えば相手に自分の言いたいことが伝わると信じ込んでいるから始末が悪い。
「ああ、ええと、それならこっちですね」私は頭を掻きながら、――掻きむしりながらと言った方が正確かもしれない――なんとか悪態をつくのを堪えてそう言った。
「ああ、ああ、そうですか。すんませんねえ」 私は婆さんがついてきているかも顧みることなくさっさと歩き出した。弁当コーナーの横に湯煎して食べられるパック詰めの商品が並んでおり、その中にさばの味噌煮を見つけて、私は後ろを振り返った。婆さんはのろのろと遅れてついてきている途中である。早くしてくれよ、と私は婆さんに表情をみられないよう横に顔をそむけて溜め息をつき、問題の商品を手に取った。
「これですね」
婆さんが私の前までやってきたのを確認して、商品を差し出した。
「ああ、ああ。これや、これや」婆さんは顎をガクガクさせながら、激しく首を縦に振った。「とめさんがこれはたいそう美味しいから是非食べてみんさい言いなさるからな、あちしも買ってみよう思いましてん」
誰もそんなことは訊いていないのに婆さんは勝手に喋りだしたかと思うと、「ほんに、これやこれや」と満足そうに頷いて、それから大事そうに私の手渡したさばの味噌煮を抱え、礼も言わずにさっさとレジに向かいだした。
おいおい、まじかよ、である。私は天を仰いで目を瞑り、はあ……、と大きく息を吐いた。礼を言われたくてやったわけではないが、ありがとうの一言くらい言えよ。 私はすっかり不機嫌になって、また一度婆さんと出くわすのを恐れ、すぐにはレジに向かわず店内を十分も二十分もうろうろしてから会計を済ませてコンビニエンスストアを後にした。
自室に帰ってくればもうこちらのものである。買ってきたばかりのカップ麺に湯を注ぎ、ベッドに倒れ込んで、うーんと手足を伸ばした。誰の目を気にすることなく、ありのまま、気ままにくつろぐことのできるこの開放感。虚栄を張ることなく本来の自分自身でいられるという安心感。
今日ばかりは本当に外界というものにほとほと辟易した。まさしく厄日。もう今日は一歩もこの部屋を出ない。出ないと言ったら出ない。これは決定事項だ。
私は状態を起こし、そろそろ三分が経つカップ麺の蓋を取り払って、それを半分に折り畳み、それからカップ麺の下に敷いて温めておいた液体スープを注いだ。
「いただきます」割り箸を手に合掌。
イライラしていたのは腹が減っていたせいもあるのだ。火急的速やかに腹を満たそう。私は麺をすくい、ふうふう、と息を吹き掛けて、さあ食べるぞ、と箸を口に近づけたときだった。
私の食事を邪魔するかのように玄関のチャイムが鳴った。はいはい、留守ですよ。私は無視して食事に取り掛かろうとした。それを見越したかのように、間髪いれずまたチャイムが鳴った。ええい、うるさい! また鳴った。ええい、うる――、また鳴った。
これはもはやただの嫌がらせではなかろうか。どこのどいつかは知らぬが懲らしめてやる。
私は鼻息荒く、されど足音を忍ばせ玄関へと向かった。その間もチャイムは気が狂ったかのように鳴り続けている。
魚眼レンズから外を確認することもせず、勢いよく扉を開いた。
私はなぜだかわけも分からずはっとした。そこにいたのは、あのコンビニエンスストアで出会ったさばの味噌煮の婆さんだった。
「なかなか出てこんさかい留守か思いよったわ。ほんにおってくれてよかったわな。さっきは有り難うさまやったに」
婆さんは手に提げていた風呂敷包みを、顔を朗らかにしわくちゃにさせながら、手渡してきた。思いの外重い。なんだこれは? 私は婆さんに視線を向けた。
「親切にしてもろうたさかい、そのお礼に思って持ってきたんや。若い子の口に合うか分からんけんど」
私は眉間に皺を寄せ、風呂敷包みと婆さんを見比べた。どうしてこの婆さんは俺の家を知っているのか、それが私には分からなかった。まさかあとをつけてきたなんてことはあるまい。
「ほんに大きいなったわなあ。小学校さ行きよる頃は毎朝見かけよったけんど、知らん間に男前になって。お婆さん、親切にしてもろうてほんに嬉しかったわ」
私はこのときまでまったく気づいていなかったのであるが、この婆さんは隣の家に住んでいる婆さんなのであった。婆さんの言う通り、私は小学生の時分には毎朝この婆さんにおはようございますと挨拶していたのである。どうして今の今まで気づかなかったのだろうか。私は急に恥ずかしくなって、穴があったら入りたい気持ちであった。
「ほんに今日は有り難うさまでした」婆さんは深々と頭を下げるので、私は恐縮するしかなく、ただただ婆さんに負けじと、「こちらこそありがとうございました」などとわけの分からぬことを口にしながら深々と頭を下げ返した。
もはや私には婆さんにあわせる顔もなく、婆さんが立ち去るまで頭を下げ続けた。
婆さんが立ち去ってからどれくらい経った頃だろうか。私はおもむろに抱えていた風呂敷包みを開いた。中身は大きなタッパーに入った金目鯛の煮付けだった。
なんだこれ。私はなにやら可笑しくなって渇いた笑い声をあげた。