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49話 ハイリゲンシュタットの遺書


12月24日。


今日は、美和君の誕生日。

私は、耳の聞こえない美和君にヴァイオリンを演奏する。


-------


朝から凍えるような寒さだと思ったら、昨日から降っていた雨が雪に変わっていた。


ホワイトクリスマス、と言えば聞こえはいいけれど、本当に寒い。

コートを着て、マフラーをして、手袋もしているのに震えが止まらない。



私は、美和君のマンションまでの道を早足で歩く。



この寒さで手が冷えてしまうと厄介だ。

ヴァイオリン奏者は指が命。とにかく、雪道で転ばない程度に早く行かなきゃ。


とはいえ、今日は昨日降った雨が凍って道路が凍結しており、なかなか思うように前に進めない。

四苦八苦しながら道を進み、やっと美和君のマンションが見えてきた。



美和君がマンションの前に立っている。



美和君が私に気付くと、嬉しそうに笑って私の元へ歩いてきた。



「待っていてくれたの?」



私は、携帯電話を開いて、LINEで美和君にメッセージを送った。

病院を退院してから、私たちは筆談ではなく、LINEで会話をしている。


美和君が私のメッセージを見て、返信を返した。



「うん。家、オートロックだし、この寒さの中、待たせるの嫌だったから。」



彼は私にメッセージを返すと、私の手を握ってくれた。




美和君、どのくらい待っていたのかな。




彼は今、このマンションじゃなくて実家に住んでいる。

一応、寮から出る時にLINEで「今から向かうね」とメッセージは入れたけど、

もしかしたらその前からずっとここで私を待っていたのだろうか。


美和君は恥ずかしそうに早足で私の手を引っ張ってマンションへと入っていった。




---------



「寒いな。ホットミルク作ってやるからちょっと待っていて。」



部屋について早々、美和君はLINEで私にメッセージを打って、台所でホットミルクを作ってくれた。



「懐かしいね。私が初めてここに来た時もホットミルク作ってくれたね」



私がメッセージを送ると、美和君はメッセージを読んで恥ずかしそうな顔をした。



「何でそんな前のこと覚えてんの(笑)バカじゃないの?」



「覚えているよ。だって、あの時、美和君がいなかったら私どうなっていたのか分からないもん。

もしかしたら、全く違う人生を送ることになっていたかもしれないから。」



「そういうこと言うなって。恥ずかしいだろ。」



美和君はメッセージを返してから台所からホットミルクを持って来て、テーブルの上に置いた。

私は、「いただきます」とメッセージを送ってホットミルクを飲む。



暖かくて優しい味がした。



「美和君、ホットミルク作るの本当に上手だよね。すごい美味しい。」



「まあ、昔、よく作っていたから。

数こなしていれば誰でもそれなりにうまく作れるようになるって。」



そうかなぁ。

きっと、私が作ってもこの味は出せない気がする。



美和君が愛情込めて作ってくれるからこんなに美味しいホットミルクが出来上がると思うんだけどなぁ。

それを言うと、きっと、美和君は顔を真っ赤にしながら否定すると思うけれど。




ホットミルクが身体の芯まで暖めてくれるような気がする。




私は、ホットミルクを飲み終わり、美和君に「ご馳走様」とメッセージを返して、

ヴァイオリンの調音をはじめた。



調音を終えて、私は、一度携帯電話を取り、美和君にメッセージを送る。



「今日は、ベートーヴェンのロマンス一番を弾きます。」



メッセージを送った後、私は、携帯電話を机の上に置いて、

深呼吸をしてからヴァイオリンを弾きはじめた。


-------------




音海がヴァイオリンを弾きはじめた。



彼女がヴァイオリンを弾いただけで、空気が変わったのを感じる。

音は聞こえないけど、なんとなく、彼女の想いが伝わってくるような気がした。



ああ、音海、ヴァイオリン上手くなったんだろうなぁ。

耳が聞こえていたら、じっくり彼女の音を聞いていたというのに・・・



ベートーヴェンのロマンス一番と言えば、出だしの重音がすげーキレイな曲だ。

この曲はメロディというより和音重視の曲で、音の響きがとにかく美しい。


まあ、音海がこの曲を選んだのは俺に曲の良さを堪能してもらうためじゃないと思う。



この曲が出来る前にベートーヴェンが耳の難聴の苦しみから

「ハイリゲンシュタットの遺書」という遺書を書いている。

実際にベートーヴェンは自殺しておらず、

この「遺書」は死後に発見されたので遺書というよりは決意表明のようなものとされている。




少しだけ内容を紹介すると、こんな感じだ。






(前略)



私の心と魂は、子供の頃から優しさと、大きな夢をなしとげる意欲で満たされて生きてきた。



だが6年前から不治の病に冒され、

ろくでもない医者たちによって悪化させられきたことに思いを馳せてみて欲しい。


回復するのでは、という希望は毎年打ち砕かれ、

この病はついに慢性のもの(もしかして治療するにしても何年もかかるだろうし、だめかもしれない)

となってしまった。



情熱に満ちた活発な性格で社交も好きなこの私が、もはや孤立し、孤独に生きなければならないのだ。



すべてを忘れてしまおうとしたこともあったが、

聴覚の悪さがもとで倍も悲しいめにあい、現実に引き戻されてどれほど辛い思いをしたか。



もっと大きな声で叫んでください、私はつんぼなのです、などと人々にはとても言えなかった。



他の人に比べてずっと優れていなくてはならぬはずの、

以前は完璧で、音楽家の中でも数少ない人にしか恵まれなかったほどの感覚が衰えている、

などと人に知らせられようか - おお、私にはできない。



だから、私が昔のように喜んでお前たちと一緒におらず、引きこもる姿を見ても許して欲しい。


こうして自分が誤解される不幸は私を二重に苦しめる。



交友による気晴らし、洗練された会話、意見の交換など、私にはもう許されないのだ。  

どうしても避けられない時にだけ人中には出るが、

私はまるで島流しにされたかのように生活しなければならない。


人の輪に近づくとどうしようもない恐れ、自分の状態を悟られてしまうのではないか、

という心配が私を苛める。 -


賢明な医者が私の気持ちをほぼ察して薦めてくれた「できるだけ聴覚をいたわるように」

という言葉に従って、この半年ほどは田舎で暮らしてみた。



人恋しさに耐え切れず、その誘惑に負けたこともあった。  



だが、そばに佇む人には遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえない、

人には羊飼いの歌声が聞こえているのに、私にはやはり何も聞こえないとは、何と言う屈辱だろう。



こんな出来事に絶望し、もう一歩で自ら命を絶つところだった。



しかし芸術、これのみが私を思いとどまらせたのだ。



ああ、課された使命、そのすべてを果たしてからでなければ私は死ねそうにない。  

だからこそこの悲惨な人生を耐え忍んで生きてきたのだ。



何と惨めなことだろう。  



最上だった状態から突然奈落の底に突き落とすという変化をもたらしたこの過敏な身体 - 

忍耐、これこそが私のこれからの指針でなければならない、 そう決心したのだ。 

 

呵責のない運命の女神が私の生命の糸を断ち切るその日まで、

この気持ちを見失わないよう願い続けている。  

ひょっとするとよくなるかもしれないがもしもよくならなくても私の覚悟はできている。



28歳にして悟りを開かなくてはならないとは何という苦しみだろう。



芸術家にとってはなおさらだ。  

神よ、あなたは私の心中を見通し、わかっておられるはずです。  

そこにあるのは人間愛と、善行への欲求だということを。


おお、世の人々よ。  

いつの日かあなた方がこれを読めば、

あなた方がいかに不当なことを私にしてきたのか悟ることでしょう。


自分を不幸だと思っている人は、自分と同じ一人の不幸者が自然のあらゆる障害にも関わらず、

価値ある芸術家として、人間として認められようと全力を尽くしたことを知って、

そこに慰めを見出すことができるでしょう。



(後略)



この遺書は音楽家として命である耳が聞こえなくなったベートーヴェンが、

過酷な運命に立ち向かうとする意思が書かれている。


ベートーヴェンはこの遺書を書いた後、交響曲第3番「英雄」を作曲し、

「運命」「田園」「ワルトシュタイン」「熱情」など、『傑作の森』と言われる創作期に突入する。



音楽家として活動するには絶望的な状況でも、音楽家として活動することを諦めずに成功を手にした。



きっと、音海も俺にそうなって欲しいと思っているんだろう。



耳が聞こえなくても、音楽をやる事を諦めないでって音海の声が伝わってくるような気がする。




―――ああ。今だけでいいから、耳が聞こえるようにならないかな。



耳が聞こえなくても、音海の伝えたい事は伝わってくる。

だけど、もし、耳が聞こえたら、もっともっと深い所まで伝わりそうなのに。




―――おい、神様とやら。





普段はいないと思っているけど、今だけお前に祈ってやる。



お願いだ。俺の耳を今だけ聞こえるようにしてくれ。




世界で一番好きな奴が目の前で俺の為に一生懸命演奏しているんだ。

それを指を咥えて見ているだけなんてもったいねえよ。

どうせだったら、音まで聞いて100%音海の音を堪能したいんだ。



確かに俺は性格悪いし、普段の行いも良くねーけどよ・・・。

でも、音海は悪くないだろ。

なあ、神様、俺じゃなくて、音海の為でもあるんだ。お願いだよ!




俺は人生で初めて天に祈った。




神様とやらなんて信じる気は更々ないけど、

でも、もし、祈る事で奇跡とやらが起こるのなら、俺は涙を流してでも天に祈ってやるよ。



俺の為に演奏する音海を見ているだけなんてもったいなさすぎる。



彼女の音が聞きたいんだ。




俺は本気で心の底から天に祈っていた。



たぶん、こんなに真剣に祈る事は最初で最後かもしれない。

プライドを捨てて、藁にもすがるような思いで祈ってた。






―――その時だった。



急にヴァイオリンの音が聞こえてきた。




俺の祈りが通じたのか、世界に、音が戻ってきた。



音海の音だ。


ロマンス一番で俺が一番好きな重音の部分を演奏している。

彼女の音は、静かなのに内に秘めた熱い情熱を感じさせるような音だった。




気がついたら、俺は泣いていた。



音海が泣いている俺に気がついたのか、演奏を止める。



「そのまま続けてくれ。」



俺が音海に対してそう言うと、音海はびっくりしたように目を丸くした。



「音が、今、聞こえるようになったんだ。」



音海が一瞬で理解したようにうなづいて、黙って曲の初めから演奏してくれた。



心地いい重音が、俺の耳に届く。




―――ああ、幸せだな。




音楽が聴けるってすげー幸せな事なんだな。



感動で胸がいっぱいで、感想が出てこねえや。



俺は目を閉じて、彼女の音だけを集中して聞く。

しなやかで優しくて暖かい音色が聞いていて心地よい。



な言葉で「好き」と言われるより音楽で伝えられた方がより音海の気持ちが伝わるというか・・・



やべーな、これ。



今でもやばいくらい好きなのに、これ以上音海のことを好きになったら俺はどうなってしまうのだろう。

どんどん音海に惹かれていって、音海の事を知れば知る程、彼女を好きになって行く。




ここまで女にハマるなんて思いもしなかった。



きっと、もっともっと彼女を好きになる。

彼女の笑顔だけじゃなくて、もっと色んな一面を見たい。




その為には、俺も音楽頑張らないとな。

頑張っている彼女に置いてかれねーようにしないと。


俺は彼女の演奏を聞きながら、改めて決意を固めた。


---------



演奏が終わり、ヴァイオリンをケースに閉まったのを見計らって、

美和君がいきなり後ろから抱きついてきた。



「ありがとう、奏。」



久しぶりに聞く彼の声。

美和君の息が耳に吹きかかって、心臓がドキドキ鳴る。




私は、身体を反転させて、彼の方を向く。



「み、美和君、な、名前・・・・」



それに加えて、美和君が初めて名前で呼んでくれた。

美和君の低い声で名前を呼ばれるといつも以上にドキドキして・・・

頭がふわふわしてどうにかなってしまいそうだ。



「おい、いつまで苗字で呼んでんだよ。名前で呼んでくれ。」



美和君が楽しそうにニヤニヤ笑いながら私を見る。



私は名前を呼ばれただけでいっぱいいっぱいだっていうのに、美和君は余裕そうだ。羨ましい。



「あ、朝音・・・・・君。」



私は言葉に詰まりながらも初めて彼の名前を呼んだ。



彼が少し不満そうな顔をする。



「君はいらない。呼び捨てで。はい、やり直し。」



「ず、ずるい。美和君。・・・あっ。」



思わずいつもの癖で苗字で呼んでしまった。



彼が満面の笑みで私に笑いかけながら、指でちょんと私の唇を触った。



「今度苗字で呼んだら、罰ゲームね。

俺の言うことを何でも聞いて貰おうかな。」



美和君は楽しそうにニヤニヤ笑っている。




美和君ってこんなに強引だったっけ?



どうしよう。心臓のドキドキが止まらないよ。



「ず、ずるいよ・・・あ、朝音・・・。」



かすれるような声で私はなんとか彼の名前を呼んだ。

名前を呼ぶことがこんなにドキドキすることだなんて知らなかった。



「上出来。」



美和君は満足したように笑って、私に優しくキスをした。

彼のキスで私の頭がとろけそうになる。




思わず腰が抜けて、座り込みそうになったけど、美和君が腕で私の身体を支えてくれた。



彼が熱っぽい視線で私を見る。

彼の視線に応じるように身体も熱くなっていく。




私たちは、その後何回も何回もキスを交わした。



彼の耳が良くなって、本当に良かった。

彼に音楽を届けられて、本当に良かった。



彼の瞳に光が戻ってきたのを感じる。




―――想いはきっと届く、夢はいつか叶う。



おばあちゃんに昔よく言われていたこの言葉を、私は今改めてかみしめていた。



END

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