14話 理想と現実
その日、家に帰ってヴァイオリンを弾いてみた。
皆とやった時の音をイメージして、ヴァイオリンを弾いてみる。
「・・・・あれっ?」
その音は、いつもの私の音だった。
皆と一緒にやったあの音とは程遠い、いつもの私の音。
あの音を聞いてしまうと、今までの音がどんなに下手か、ということを痛感させられる。
・・・誰かとセッションすると、相乗効果で実力以上の音が出るということは知っているけど・・・
まさかここまでとは。
「・・・ど、どうしよう・・・」
どうしても脳内にごびりついている音と、今の自分の音を比較してしまう。
イメージが強すぎて、冷静に今の自分の音が分析できない。
ただ一つ、はっきり分かることは、あの音を出すには、実力が足りない・・・ということだ。
どれだけの階段を登ったら、あの音に近づけるのだろう。
天まで届くような果てしない階段。高すぎて、ここからではゴールが見えない。
とにかく、練習しなくっちゃ。
すごくたくさん練習しないと・・・あそこには辿り着けない。
私はその夜、食べることもお風呂に入ることも忘れて夜中までヴァイオリンを弾いていた。
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9月18日。
この日は12月に開催される全国コンクールの課題曲の発表日。
・・・あれから、ずっとヴァイオリンを弾いているけど、
美和君達とやっている時以外は、あの音は出せてないままだ。
・・・こんな状態でコンクールに出れるのかな、という不安を抱えつつ、
私は、課題曲を聞きに昼休み、職員室へと来ていた。
「・・・今回の課題曲はドヴォルザーク「わが母の教え給いし歌」よ。
今年は鹿児島県で開催されるみたいね。」
先生がそう言って、全国コンクールの資料を渡してくれた。
・・・わが母の教え給いし歌か・・・・苦手な曲だな。
《ジプシー歌曲集》作品55の第4曲。元は歌曲として作られた。
歌詞を日本語に訳すと、
『母がわたしに この歌を
教えてくれた 昔の日
母は涙を 浮かべていた
今は私が この歌を
子どもに教える ときとなり
私の目から 涙があふれ落ちる』
・・・・と、まあ、こういう感じのことを歌っている。
歌の内容としては、かつて母親に教えられた歌を今度は自分が子供に歌を教えるというものだ。
・・・・そう、この歌で歌われていることは、どんな国のどんな立場の人でも共感できるような内容だ。
・・・・でも、私は・・・・
「難しい曲だけど、頑張りましょうね。」
何も知らない先生は、そう言って、笑った。
・・・私は、苦笑いしかできなかった。
「それで、課題曲はどうしようか?音海さん、希望はあるかしら?
初めての全国コンクールだし、好きな曲でいいわよ。」
課題曲か・・・課題曲なら、弾きたい曲がある。
文化祭で美和君と音を合わせてみて、ちょうどあの曲を弾きたいと思っていたのだ。
「・・・あの、チャイコフスキーの「メロディ」を弾きたいんですけど・・・」
「分かったわ。それじゃあ、メロディで申請を出しておくわね。
それから・・・音海さん、世界大会に挑戦してみないかしら?」
「へっ?」
突然の先生の提案に頭が真っ白になった。
「ほら、毎年3月に行われている、
若い音楽家のためのチャイコフスキー国際音楽コンクールがあるじゃない?
そこのヴァイオリン部門に音海さんをエントリーしてみてはどうかって、職員会議で話題になったのよ。」
「・・・はぁ。」
若い音楽家のためのチャイコフスキー国際音楽コンクールとは、
世界三大コンクールのチャイコフスキー国際音楽コンクールのジュニア版のコンクールである。
8歳から17歳以下の音楽家達が集まり、4年に1度開催されるコンクールだ。
このコンクールの参加者、入賞者は後に国際音楽コンクールにて入賞を果たしており、
ジュニアコンクールの登竜門と呼ばれている。
「・・・でも、私より二年生の先輩の方がいいのでは?」
「それがね、来年のコンクールはウィーンで開催されるのだけど、出場条件が17歳未満なのよ・・・」
先生が残念そうにため息をついた。
このコンクールは、開催国や年によって、参加基準が変わったりする。
17歳未満なら・・・二年生は出れないのか。
―――とんでもないことになってきた。
国際コンクール・・・か。
海外のコンクールは初めてだな。
小さい頃、おばあちゃんの出ていたコンクールの映像を見てから、
いつかはあそこに立ちたいと思っていた。
それが、今、ようやく立てるチャンスが私に回ってきたのだ。
チャイコフスキー国際コンクールに私が出るとおばあちゃんが聞いたら、きっと、喜んでくれるかな・・・・。
おばあちゃんは、私に世界で活躍することの楽しさ難しさをよく話してくれた。
「・・いい演奏ができた時、満員のお客さんがスタンディングオペレーションで
「ブラボー!」と言ってくれると、嬉しいものなのよ。」
おばあちゃんは、私の進路について、何も希望を言っていなかったけど、
きっと、私を世界の舞台に立たせたいと思っていたはずだ。
だから、いつも、おばあちゃんは、私につきっきりでヴァイオリンを教えてくれた。
おばあちゃんの指導は厳しいけど、その裏には、
私を良い演奏家として育てたいという思いをいつも感じていた。
自分の夢のためにも、おばあちゃんのためにも、世界の舞台に立ちたい。
世界の舞台に立って、いい結果を残して、おばあちゃんを喜ばせたい。
「あ、あの、私、やってみます。」
今の私が通用するかどうか分からないけれど。
美和君と一緒にやっている時に出るあの音が出せれば・・・きっと、戦えるはずだ。
「本当?それじゃあ、開催要項を渡しておくわね。」
先生は嬉しそうにチャイコフスキー国際コンクールのパンフレットを私に渡した。
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その日から、私はとても忙しくなった。
文化祭のソロ曲の練習、飛鳥と森君との大公の練習、
夜明け一番星の練習に、全国コンクール練習。そして、世界の舞台に立つために技術を磨く練習。
なんとか三月までに、あの音が出せるようになりたくて、ひたすらヴァイオリンと向き合った。
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―――文化祭も残り10日。
その日の放課後、文化祭のために学校の音楽室を借りてバンドの練習をすることになっていた。
俺は、すっかり祭りの空気になった廊下を早足で歩く。
ずいぶんと学校内は祭りの装いになっており、人々は浮足立っていた。
俺は、そんないつも違う雰囲気の校舎内を素早く歩き、音楽室のドアを開ける。
・・・・誰もいねえ。
そこには、まだ誰も来てなかった。
あいつら文化祭の準備で遅れているのか?
全く時間厳守だって言っただろうに、とぶつぶつ言いながら俺は、
適当な席に腰掛けようとしたその時。
足に何か柔らかいものが当たった。
何だ、と思って下を見ると、音海が床で倒れている。
一瞬、血の気が引いた。
慌てて音海の脈を図ると、脈はちゃんとある。
・・・少し体温が高いような・・・。
今度は額を触ると、かなり熱かった。
・・・・こいつ、熱あるのかよ。
「・・・・めんどくせーな。」
俺は、ぶつぶつ文句を言いながら、
ギターケースと自分の鞄を近くの机に起き、音海を抱き上げて保健室に運んだ。
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「・・・ただの風邪ね。大丈夫よ。起きたら解熱剤を飲ませて帰って寝ればよくなるわ。」
保健医はそう言って、薬棚を漁りながら行った。
・・・なんだ脅かしやがって。
流石の俺でも知り合いがたおれていたらびっくりするもんなんだな・・・。
俺は、保険医の診断を聞いてほっと一息ついた。
「あら、解熱剤が切れているわね。やだ、わたしったら。美和君、解熱剤買ってくるから、後よろしくね。」
保健医は、そう言って、さっさと出て行ってしまった。
・・・マジかよ。
この先生、ホント、ドジだよな。
よくサボりに保健室利用しているけど、
具合悪かったり、怪我したりしている生徒の手当てとかポカやらかしてんもんな。
俺としては、さっさと授業行けとか言わないし、病人がいなければベット使っていいっていう
話の分かる先生だからいて欲しいけど、本業頑張らないとクビになりそうで怖い。
「う・・・・ん」
先生が出ていくとの同時に、ちょうど、音海の目が覚める。
・・・なんとタイミングの悪い。
ちょっと早ければ保健医がいたというのに。
「あれ?美和君?・・・ここは?」
音海が上半身を起こしながらそう言った。
「保健室。風邪で倒れていたんだぞ、お前。」
「・・・ええっ!?じゃあ、美和君が運んでくれたの?」
「・・・・お前、意外と重いんだな。」
正直な感想を言うと、音海はしょんぼりと肩を落とす。
ああ、音海も一応体重気にしていたのか。
確かに重かったけど、別に太っているという意味で言ったわけじゃないんだけどな。
・・・・むしろ。
「あのさ、あんた自己管理くらいちゃんとしなよ。あんな所で倒れていたらびっくりするでしょ。」
「・・・う、ご、ごめんなさい・・・。」
音海が小さくなりながら答える。
そんな音海を見ていたら、イライラしてきた。
―――ったく、謝るくらいなら最初からちゃんとしろっての。
見つけたのが俺だから良かったけど、変な男だったら襲われているぞ。
・・・いや、こいつ、いつもぼおっといているし、そういうの分かってなさそうだな。
よし・・・ちょっとイタズラでもしてからかってやろうか。
ちょっとは痛い目見た方が学習するだろ。
「それに・・・。あんた自分の性別くらい考えろよ。あんな所で倒れて襲われたらどうすんの?むしろ・・・」
俺は、音海の耳に近づいて囁いてやった。
「襲って欲しかったの?」
音海は目を見開き、赤面したまま固まっている。
その目は熱のせいか潤んでいて・・・まあ、なんて言うか・・・ここでそういう顔されても困るんだけど。
・・・・はあ。なんでちょっとからかっただけなのにマジになるのかな。
こいつに抵抗するという選択肢はないのだろうか。
―――あんな肉付きのいいエロい身体しておいて、その上、そういう男を誘うような顔をして。
・・・こいつ、まさか狙ってやっているんじゃないだろうな?
あんまり音海の顔を直視していると、何かがはち切れそうになるので、
俺は、音海の額にデコピンをしてやった。
「痛っ。」
音海は痛そうに額を抑えた。
「・・・あのさ、マジになんないでくれる?冗談だって。」
音海は、目を丸くして「そっか、冗談か・・・」と呟き、
「・・・・ねえ、美和君。私って、女の子かな?」
と、聞いてきた。
「は?むしろ女じゃなかったら何なの。」
いきなり何を聞いてくるんだろう、こいつは。
熱で頭おかしくなったんじゃないだろうか。
音海は、俺の言葉を聞いて「そっか・・・」と、泣きそうな顔でうなづいていた。
―――その顔は、嬉しくて感動しているような顔で。
・・・でも、俺に恋をしているとか、そういう感じではない。もっと別の・・・何かに感動しているように見える。
・・・・何なんだ?
―――そう、俺は、この時彼女のこの質問と、表情の意味を知らなかった。
後に、この時の彼女の真意を知ることとなるとは、予想だにしていなかったんだ。
「じゃ、俺、練習戻るから。家の人に連絡してちゃんと治せよ。」
俺は、そう言って、そそくさと席を立とうとする。
「あ、ま、待って。」
音海が俺の服の裾を掴む。
「何?」
音海の顔を見ると、音海は、うつむいていた。
うつむいているので、彼女の表情は分からない。
「い、家には・・・・連絡しないで。」
彼女は、ほとんど聞き取れないような小さな声でそう言った。
俺の服の裾を掴んでいる手が震えている。
「何で?」
「・・・・・」
理由を問いただしても、音海は黙ってうつむいたままだ。
・・・ワケありってことか。
面倒くせーな。何で俺、倒れているこいつを放っておけなかったんだろ。
こんなことになるなら放置すれば良かったかな。
・・・いや、それは、流石に人としてまずいか・・・?
でも、俺、既に人間失格みたいなもんだしなぁ・・・。
ホント、何で俺、こいつを保健室に運んだんだろう。
「美和君、帰ったわよ・・・あら、音海さん目が覚めたの?」
そうこうしているうちに保険医が帰って来てしまった。
「解熱剤を買って来たからね。ほら、これを飲めば少しは楽になると思うわ。」
保険医はビニール袋から風邪薬をとりだして、音海に渡した。
「あ、ありがとうございます・・・」
「それから、冷えピタ。これで後は、ゆっくり寝ていれば良くなるわよ。
家の人に連絡して迎えに来てもらいましょう。」
「あ、あの・・・家に連絡しないで下さい・・・。父も母も忙しいので・・・」
音海は、うつむきながらそう言った。
「そうは言ってもねぇ・・・。一応、連絡するのが決まり事なのよ。
音海さんが寮で暮らしているのは知っているけど・・・
家も近い事だし、寮よりは実家の方がゆっくり出来るんじゃない?」
「・・・・先生、お願いします。今回だけは・・・見逃して下さい。私、一人で帰れますから・・・」
音海は、泣きそうな顔で保険医を見る。
・・・そんなに実家に帰るのが嫌なのか。
あの綺麗で物が少なかった家には何があるんだろう・・・。
ここまで音海が嫌がるのを見ていると、少し興味がわいてきたな。
・・・まあ、めんどくさい事になりそうだから、聞かないし、関わらないけど。
「一人でって・・・寮まで歩いて15分はかかるわよ?」
「大丈夫です。薬飲めばなんとかなります。だからお願いです。家だけは・・・・」
音海は、懇願するような目で保険医を見つめる。
保険医は根負けしたかのようにため息をついた。
「・・・しょうがないわね。電話が通じなかったことにしておくわね。
その代わり、寮母さんには連絡しておくからね。」
「・・・ありがとうございます!」
「それから、病人を一人で帰らせられないわ。また倒れたらどうするの。美和君、彼女を送ってあげて。」
「・・・・え、何でそこで俺の名前が出るの。先生が送ってやればいいじゃん。」
・・・せっかく解放されると思ったのに・・・何でこいつは俺に面倒を押し付けるんだ?
さっさと練習戻りたいんだけど。
「この時期は文化祭の準備でけが人が多くて・・・あまり席を外せないのよ。」
「さっき席外したじゃん。やだよ。何で俺が送らなきゃいけないの。」
「・・・ふーん、そんなこと言っていいんだー。
今まで仮病でサボったり早退していたりしましたって他の先生に言いふらしちゃおうかなー。」
・・・・くそ、こいつ。性格わりーな。人のこと言えないけど。
「はいはい。やればいいんでしょ、やれば。」
俺は、投げやりに返事をしてやった。
別に仮病を使っていることがばれてもいいんだけど、
これで断ったら本当に病気とか怪我じゃなければ保健室来るなって言われそうだからな。
今後快適に保健室を使うためにも、ここはうなづいておいた方がいいだろう。仕方ない。
このクソ保険医め。覚えてやがれ。
これで貸し一つ、だからな。
「おい、音海、さっさと行くぞ。」
俺は、仕方なく、音海を連れて保健室を出た。
END