11話 世界の音
―――どうしてあの時、彼女に声をかけてしまったんだろう。
今でもそのことは、自分の中で大きな謎になっている。
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同級生達は、夏休みがきたとはしゃいでいたが、
俺にとってはこのクソ暑い夏にどうして一ヶ月も休みがあるのか理解できない。
とはいえ、クソ寒い冬に休みが増えるのはもっと嫌なので、
夏休みが長くて良かったのかもしれない・・・と思うが、
毎日のようにクッソ暑いと早く冬が来て欲しいと思う。
こんな暑い中、用事もないのに出かける気なんて更々なかったが、
部屋のエアコンが故障してしまったので、仕方なく外に出ている。
この時期にエアコンが壊れて冷房が効かないことは、冗談抜きで命に関わる問題だ。
一応、壊れたエアコンは修理会社に見てもらったのだが、
部品が足りないだとかで、修理は一週間後になるらしい。
マジ、ふざけんな。そのくらい、どーにかしろよ!
・・・そう文句の一つも言いたかったが、とにかく部屋は蒸し風呂のように暑く、
一刻も早くエアコンのある場所に行きたかった俺は、「分かりました」と素直に頷いて・・・
今に至る、というワケだ。
・・・しっかし、外に出てきたはいいものの、暑い。
今日は、今年一番の暑さになるでしょう、とお天気お姉さんが行っていた通り、
じりじりと太陽が照りつけ、立っているだけでも汗だくになる。
・・・こんなことなら、俺も家族旅行とやらに行くんだったかな。
今、両親と妹は家族旅行でハワイに行っている。
こんな暑いのにさらに暑い所に出かけるなんて、
頭おかしいんじゃないかと思っていたんだが、俺も行けば良かったかな。
・・・少なくとも、あっちは、エアコンのきいた室内で寝れるだろうし。
とはいえ、家族旅行なんて、そんなおままごとみたいなことに付き合うのも嫌だしな。
漫喫にでも行こうかと考えはじめたとき、
「あら、貴方は美和朝音君?」
と、老婆の声が隣から聞こえた。
・・・何で俺の名前を知っているんだ。気持ち悪い。
関わると、ロクなことがないよな。無視無視っと。
俺は、歩くスピードを上げようとする。
だけど、ババアも歩くスピードを上げて、俺に着いて来る。
「ちょっと、待って。私、怪しいものじゃないのよ。音海奏の祖母、富士野真知子です。」
・・・富士野万智子?
富士野万智子って・・・確か、ヴァイオリン奏者の里崎万智子のことだよな。
俺は、一旦足を止めて、老婆を見る。
・・・そこにいたのは、間違いなく、里崎万智子だった。
「初めまして。こんにちは。」
里崎万智子は、上品な笑みで丁寧なお辞儀をする。
―――その辺にいる老婆とは格が違う、と思った。
確かに年を取っているはずなのに、全然老け込んでいない。
皺がある顔も、年相応に老け込んでいるはずなのに、すごく若く見える。
何よりも・・・彼女をまとっているオーラがその辺の老婆とは全然違うのだ。
俺は、基本大人なんて嫌いだし、女という生き物はもっと嫌いだ。
・・・だけど、彼女は・・・他の大人や女とは全然違っていた。
少なくとも、俺の嫌いなタイプではない。
普通のババアならシカトしていたけど、里崎万智子なら、シカトするわけにもいかねーよな。
なんていったって、彼女は世界的に有名な音楽家。
世界の第一線で活躍していた人間なんだ。そんな人と話せるチャンスを逃してたまるかっての。
「貴方とは、一度、ゆっくりとお話をしたいと思っていたの。どうかしら?お茶に付き合ってくださる?」
「・・はい。」
ラッキーだ。里崎万智子と一対一で話せるなんて。
かつて世界で活躍した音楽家なんだぜ。そんな大物と話せるなんて。
こっちが望むところだ。
世界で活躍する秘訣だとかそういうの・・・・彼女から盗めればいいな。
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「ふふっ、貴方が噂の美和君ね、孫から聞いているわぁ。・・・色々と孫がお世話になっているようね。」
里崎万智子はニコニコとお茶を飲みながら言った。
「い、いえ・・・・こちらこそ、お世話になってます。」
別に俺は、そこまで音海と仲良くした覚えはない。仲良くしているのは、千鶴の方だ。
まあ、それを本人に言うのもどうかと思ったので、
俺は、適当に話を合わせてヘコヘコお辞儀をしておいた。
―――我ながら気持ち悪い。サラリーマンみたいじゃん。
「私のことは分かる?一応、昔、ヴァイオリンを弾いていたのだけど・・・」
「知ってます。俺、30年前のコンサートの24のカプリース24番の演奏が好きです。」
一応、一通り世界で活躍している音楽家の演奏は、ジャンル問わず聞くようにしている。
里崎万智子の演奏は、とにかくすげえ、の一言しか出ない。
CDの音なのに、まるでその場にいるかのように圧倒的な演奏に飲み込まれ、鳥肌が止まらなくなる。
「・・・私がちょうど、40の時のコンサートね。
パガニーニの24のカプリース24番・・・難しかったわねぇ。
今でも、たまに弾くのだけど、いつも背筋が伸びる感じがするのよ。」
―――ああ、なんかそれ、分かるな。
パガニーニの24のカプリース24番は、
なんつーか、ヴァイオリンという楽器の頂点に立った時に弾ける曲だ。
ヴァイオリンの曲の中でも屈指の難易度の曲で、
素人の俺にはぶっちゃけどうやって弾いているのか未だに謎だ。
ましてや、演奏会で弾いているヤツなんて人間じゃないと思う。
里崎万智子のカプリースは、俺が今まで聞いたカプリースの中でも頭一つ抜けてうまい。
本当に聞いていてゾクゾクするんだ。
んで、演奏が終わったあと、すっげー!って叫びたくなる。
あんなにすげえ音を出していたら弾いていて気持ちいいんだろうな。
「俺、いつかは世界で通用するような音楽をやるのが目標なんです。
・・・どうしたら、そこに到達できますか?」
「貴方の音楽と私の音楽はジャンルも楽器も違うでしょう。
・・・だから、技術的なことは何も言えないけど、
そうね、「なりたい」って強く思い続けて、努力することが大事よ。
自分で運命を引き寄せるの。」
里崎万智子の言葉には、不思議な説得力があった。
これが真理かどうかは別として、聞いていて思わずうなづいてしまうような・・・
運命を引き寄せる・・・。
俺は、運命だとかそういうのは信じてないけど、何となく、言わんとしていることが分かるような気がする。
「・・・・あの、すみませんが、カプリース演奏してくれませんか?」
ダメもとで俺は、彼女に頼んでみた。
里崎万智子は、演奏活動を引退している。
だけど、どうしても、あのカプリースを一度生で聞いてみたい。
「・・・この間、奏にも言ったんだけど、私はもう、人前で演奏をすることはやめたの。
もう、ヴァイオリンを弾くのは指導する時と、自分が弾きたい時だけ。ステージに上がる事はないわ。」
里崎万智子は、さばさばとした顔ではっきりとそう言った。
・・・そういえば、この間、音海から同じような内容のメールが来ていたな。
それを見た圭がかなり落胆していたのは記憶に新しい。
「・・・どうしても聞きたいのなら、孫に弾いてもらったら?」
「・・・音海に?」
音海カプリース弾けるのか?
カルメンで顔を青くしているようじゃ、カプリースなんて弾けないと思うけど。
「そうね・・・あと2年くらいしたら人前で弾けるようになるんじゃない。」
マジかよ。2年も待たなきゃいけねーのかよ。
だいたい、2年後も音海と仲良くしている未来なんて想像できないぞ。
「きっと、あの子はヴァイオリンを続けていれば、私よりもいい演奏をすると思うわ。」
里崎万智子は、そう言って、目を細めた。
彼女の言い方が、少し引っかかる。
―――ヴァイオリンを続けていれば?
なんか、続けるのか続けないのか分からないような言い方だな。
・・・続けるも何も、あいつはヴァイオリンしかないだろうが。
辞める要素なんてどこにあるんだろう。
普通にしていれば、世界に通用する奏者になると思うのに。
「ねえ、朝音君。どうか、奏と仲良くしてやってね。あの子、中々私に甘えてくれないのよ。
・・・きっと、遠慮しちゃうのよね。そのせいで、いろんな事を溜め込んでしまうから・・・」
里崎万智子は、目を伏せながらそう言った。
「はあ・・・」
そういうことは、千鶴に言って欲しい。
俺、そんな、あいつと仲良くしてないし。
千鶴の方が仲いいし、女同士だし、色々分かるもんがあるんじゃないかと思うけど。
「きっと・・・あの時、奏を助けてくれた貴方なら・・・・奏を救えると思うの。」
・・・は?救う?
何を言っているんだろう。
あいつは、今、充分幸せそうで、別に助けることなんて何もない気がするけれど。
それに、俺はあいつを助けたような覚えはない。
俺があいつに声をかけたのは・・・・・。
「お願い。あの子を助けてあげて。」
里崎万智子は、懇願するような目で俺をみる。
「・・・やめて下さい。俺は、そんな優しい人間じゃ・・・」
「優しいとか、優しくないは関係ないわ。きっと、貴方なら、奏を助けられると思うの。」
「いや。あの・・・だいたい、何から助けるんッスか?あいつ、幸せそうに見えますけど・・・」
「・・・ごめんなさい。それは、言えないわ・・・」
里崎万智子はそう言って、目を伏せた。
―――意味わかんねえ。
何で俺に頼むの。千鶴じゃ駄目なわけ?
だいたい、俺は、あいつのこと何とも思ってないし。
・・・そう、ただ、あいつの出す音がすげえから、あいつがどこまでいけるのか興味があるだけだ。
「・・・ごめんなさいね。変な話をして。」
里崎万智子は、そう言って、笑った。
なんとなく、彼女の笑顔はさみしそうに見えた。
「・・・いえ。」
「そうね・・・貴方には、奏を助けてくれたお礼がまだだったわね。」
いや、だから、その・・・俺は、助けたつもりはないんだけど・・・・
「カプリースが聞きたいって言っていたわね?」
「弾いてくれるんッスか!?」
「・・・さっきも言ったけど、私はもう、演奏活動を引退しているの。
貴方より権力やお金を持っている人の誘いも、全部断っているのよ。
・・・だから、ここだけの秘密にしてね。」
里崎万智子は、小声でそう囁いた。
―――世界で活躍した音が生で聞ける。
やべえ、そう考えただけで震えてきた。
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里崎万智子は、ここじゃあ、演奏出来ないし、ヴァイオリンを持ってないから、と、家まで案内してくれた。
音羽市から電車で30分。ベットタウンで有名な街の一角に小綺麗な一戸建てがあった。
表札は、「音海」と書いてある。
「ここはね、娘の家なの。夏の間だけ私がお邪魔しているのよ。」
・・・・娘?ということは、ここは音海の家なのか。
でも、こんなに近くに家があるなら、あいつ寮に入らなくてもいい気はするけど・・・
まあ、でも、音楽に集中出来る環境のために寮に入れたのかな。よくある話だ。
・・それにしても、静かだ。
なんか、部屋にも生活感がないし・・・。
たぶん、音海の両親が出かけているから、そう感じるのかもしれない。
「おまたせ。さあ、行きましょう。」
里崎万智子は、ヴァイオリンを持ってきて、地下室へと案内された。
ヴァイオリンの調音をし、カプリースを弾き始める。
聞いた瞬間、鳥肌が立った。―――うめえ。
年を取ったからなのか、CDで聞く音よりますます深みが増して、良くなっている。
まるで、それは、魔法のような音だった。
艶やかで、華があって、全てを圧倒するような、
ヴァイオリンという楽器の魅力を最大限に出したような演奏で。
心が震えた。これが、世界の頂点なんだ。
すげえ。すげえよ。世界の音ってのは、こんなにすげえんだ。
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「私が弾いている時、野獣のような目をしていたわね。将来は、世界で活躍したいのよね?」
演奏が終わった後、里崎万智子そう聞かれた。
「・・・はい。」
「・・・簡単ではないわよ。昔と今では音楽事情も違うし・・・
売れる事も難しくなっているから・・・それに、才能があれば売れるということでもないわ。」
そのくらい分かっている。
だけど、俺は、音楽で、世界の頂点に立ってみたい。
どのくらいかかるか分からねえけど、やってやるさ。
「・・・頑張ってね。今度、貴方の音楽も聞かせてね。」
里崎万智子は、そう言って、優しい笑顔を見せた。
その笑顔は、音海に似ているな、と思った。
「文化祭で聞けるかしら?もし良ければ、お邪魔してもいい?」
「はい。」
里崎万智子が来るのか。下手なステージには出来ないな。
―――武者震いが止まらねえ。
もっとすごい曲を書いて、たくさんギターを練習して、最高のステージを魅せよう。
里崎万智子が思わずうなるような、そんなステージを作ってやるんだ。
今は、彼女に勝つなんてそんなことは恐れ多すぎて言えないけれど、でも、負けてらんねえ。
―――いつか、俺も、そこまで登りつめてやる。
END