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『彼の日常・非日常【⑦】』

 

 ◆ ◆ ◆



 一軒家だけが建ち並ぶ通りを、黒人と咲は走っていた。



 立ち止まらない。振り返らない。



 それは葛城舞に対する信頼であり、不安を心の奥深くへ封じる為でもある。



「せ、先輩! そっちよりもこっちから行く方が近いです!!」



 少し後ろを走っていた咲は、黒人が通り過ぎてしまった脇道で立ち止まっていた。



 彼女も、いや、彼女の方が心配も不安も大きいはずなのに、黒人よりも冷静であった。



 すぐに引き返し、黒人は先に脇道に入っていった咲の背中を追う。すぐに追いつき併走すると、



「お姉ちゃん……大丈夫ですよね」



 不安に押し潰されそうな、今にも泣き出しそうな声で咲は問う。いや、質問したのではない。自分に言い聞かせるような言葉だった。



「ああ、大丈夫だ。あいつのことだ。飯の時間になればひょっこり無傷で顔を出すさ」



「そうですよね……。私たちは、お姉ちゃんの好きなものを作って待ってましょうね」



「ああ」



 それからは無駄なお喋りもなく、ふたりは走り続ける。



 普段から身体を動かしている黒人には、まだ余裕がある。だが、あまり運動を得意としない咲は、もう限界が近かい。



 いざとなれば背負って走ることも視野にいれ、さらに五分ほど走り続けると、どうやら咲の限界に達するよりも前に『安全圏』に到達できそうだった。



「咲! もう少し頑張れ! もう商店街に出る! そうすれば助けを呼べるぞ!!」



「は、はい!!」



 最後の気力でも根性でも何でもいいので絞り出し、ふたりは同時に商店街へと飛び出し、そして同時に絶句した。



 午後四時半過ぎ。茜色に染まった春木家や葛城家を含む近所の台所事情を預かる商店街。



 新都市まで足を伸ばせばデパートや大型スーパーといったものも存在する。しかし遠い。



 だから市街地に住んでいる主婦の買い物は、ほとんどの場合が商店街で行われている。



 そして午後四時半過ぎともなれば晩ご飯の食材を買いにくる主婦たちで賑わい、ある所では食材争奪戦が勃発していてもいい時間帯。



 しかし今日の商店街は無人だった。



「……あり得ねえだろ。何で開店してんのに店のオヤジがいないんだ?」



 そこで思い出されるのは舞が足止めしている男の言葉。



『人払い』



 それの意味する所が、この摩訶不思議な現象なのだろう。



「まだ……ここは安全圏じゃないのか?」



 黒人は、その場に座り込みたくなる衝動を必死に堪え、夕焼けに染まった空を見上げて深呼吸。



 とそこに、



「よく気付けたわね。エラいエラい」



 パチパチ、とおざなりな拍手の音と共に夕陽を背負った女が歩み寄ってきた。



 栗色の巻き髪を盛りに盛った、真っ赤なマルチドレス姿の女。ゴテゴテとデコレーションされた長い爪。それを支える細い指には細長いタバコが煙りを燻らせている。



 この商店街という空間には不釣り合いな女だった。



「あんたさ、くる場所間違えてるんじゃないッスか?」



「ふふっ、私もそう思うわ。でもね坊や。お姉さんは大人だからお仕事しないといけないの。文句は、あまり言っちゃダメなのよ」



「お仕事、ね……」



 嫌な予感しかしない女の言葉に顔を歪めて、黒人は自分の背中に咲を隠して強く女を睨んでいると、



 流行りの歌が流れて、女は足を止めた。



「あ、ちょっと待ってね」



 小さなハンドバックの中から、これまた派手にデコレーションされた携帯電話が取り出される。元が何色だったのかすらわからないほどだった。



 それを女は耳に当てる。



「もしもし、ケンちゃん? ゴメ~ン、今さあ、面倒な仕事押し付けられちゃって~。うん、そうそう。次はいっぱいサービスするからさ~」



 二人は完全に失念していたが、今の世の中には携帯電話という非常に便利なアイテムがあるのだ。



「咲、警察に電話しよう」



 言われて咲も思い出したのか、制服のポケットから慌てて携帯電話を取り出し、耳に当てる。



 ゴテゴテにデコレーションされた携帯電話を見た後だからだろうか。ストラップの一つもついていない咲の携帯電話の素朴さに、思わず涙が溢れそうになる。



「先輩……」



「ん? どうかしたのか?」



 何て説明しましょう? 的な言葉が返ってくると予想していた黒人。



「繋がりません……」



「………………はい?」



 予想外の返答に、そんなバカな……、と黒人も自分の携帯電話を取り出して一一〇番してみる。



 無音。



「あははっ、無理無理無駄よ。ここは『人払い』されてるの。当然、中から外に連絡させない為に可能性は全て潰しておくに決まってるでしょ?」



「あんたは電話してたじゃねえか」



「私のは特別仕様だもの」



「特別……はっ! デコか! だからそんなゴテゴテしてんだな!!」



 見破ったぜーーッ!! と言わんばかりに女の携帯電話を指差す黒人。



「いいえ、これは私の趣味」



「…………えー」



 まるで女の趣味を小バカにするような黒人の声に、女のこめかみに青筋が一つ浮かぶ。



 その無理に作った笑顔には見覚えがあった。



「なあ、咲。舞が怒った時の表情に似てると思わないか?」



「似てますね……。本気で怒った時のお姉ちゃんに」



 二人で嫌な想像を振り払うように乾いた笑い声を上げていると、そこにバチンという音が響いた。



 女の、何も持っていない手からバチバチと青い火花が散っていた。



「――閃きなさい!!」



 言葉と同時。



 音はなく、いきなり青紫の光が黒人と咲の間を縫うように突き抜けた。まるで雷のように、一瞬遅れて耳を穿つような轟音が衝撃波となって二人を襲う。



 耳元で巻き起こった、鼓膜をも破りかねない衝撃波に、黒人と咲のバランス感覚が僅かに崩れる。



 そして、ハッ! として黒人は背後を見る。



 雷が着弾したアスファルトは吹き飛び、何とか形を残している地面も焦げて黒煙をくゆらせている。



「お前……こんな場所で何使ってんだよ!!」



「何って、魔術でしょ? 問題ないじゃない。私は魔術師、君も魔術師。そっちの子は知らないけど、まあ一緒に殺してあげるから」



 ってか女はあいつが殺すはずだったわよね? なんで私が相手しないといけないのかしら? これだから男、特に使えない男はニキビと同じくらい嫌いなのよ。



 ぶつぶつぶつぶつ、とほとんど唇を動かさずに呟き、そして八つ当たり気味に、



「全部あんたが悪いのよ! 一人で帰ってきなさいよ! そんなに若い女がいいのかーーッ!!」



 過去のトラウマでも思い出したのか、完全に私怨の入り混じった、というか私怨以外の何ものでもないことを叫びながら、女は突き出した右手人差し指をバチバチいわせる。



「――閃きなさい!!」



 槍の如く、一直線に雷が襲いかかってきた。



 女の指先から放たれた雷は、秒速一五メートルのスピードで突き進んでくる。そして、黒人から女までの距離は約三〇メートル。



 二秒たらずで落ちる雷を躱す、などという神業は持ち合わせていない。光速まではいかずとも、それは普通の人間が反応できる速度を上回る。



 少なくとも今の黒人には、咄嗟に顔面を庇うように両手を差し出すので精一杯。



 その両手に電撃が直撃する直前、襟首を乱暴に掴まれて後ろへ引っ張られた。



「きゃーーっ!!」



 そんな男が出しても気色の悪いだけの悲鳴を上げて、黒人は鼻先すれすれを通過してゆく雷撃を見送る。



「あんなの受け止めたら、それだけで黒こげになっちゃいますよ、先輩」



「え、あ、そ……は、はい」



 何か色々と言いたいことはあるのだが、そのどれもが言葉にならなかった。いや、少し違う。笑顔の咲を見て、言葉にすることを躊躇ったのだ。



「あら、避けられちゃったの?」



 言葉こそ気楽なものだが、女の顔には怒りの色が見え隠れしている。



 今の一撃。女にとって一撃必殺の魔術だったのだ。常人では見えはしても身体が反応できないギリギリの速度で放ち、数億ボルトにも達する電撃が人肉を溶かす。



「この魔術を一回使って殺せなかった男はいないことが密かな自慢だったのに」



 余裕綽々で愚痴る女だが、黒人は平静の表情を貫くこともできず、ビキビキに顔を引き攣らせていた。



 今回は咲が引っ張ってくれたお陰で焦げ肉にならずに済んだが、次も避けられるとは限らない。それどころか、次こそ人肉ウェルダンが完成する可能性の方が高いのだから。



 バチン、という火花の散る音で現実に引き戻された目の前で、女が指先を黒人に向けて微笑んでいた。



「今度は逃がさないわよ、坊や」



 内心で心臓をバクバクいわせながら、今にも笑い出しそうになる膝で、それでも黒人は咲の前に立つ。



 咲を失うのは自分の命を失うことより嫌だから。



 舞との約束を破るのは自分の命を失うことより嫌だから。



 それだけではない。誰も、もう二度と目の前で親しい人に死なれたくないという一心で、黒人は女の前に立つ。



 そして女の紅い唇が、あの一言を紡ぐ。



「――閃きなさい!!」



 

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