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『彼の日常・非日常【⑥】』

 

 ◆ ◆ ◆



 霞ヶ丘高校の所々塗装が剥がれ落ちて錆びた鉄が顔を出して年期を表す校門を出てすぐ、黒人はバイト先に携帯電話で連絡をいれた。



 今日、働かせてもらうはずだったバイト先の社長から迷惑そうな声でブチブチと小言を言われたが、どちらに非があるのか討論するまでもない。



 黒人は何度も頭を下げながら、考える。



(なんで俺が謝らないとダメなんだ?)



 そんな疑問を残しつつ、そうして今日の予定をクリアにした黒人は葛城姉妹との帰路をのんびりと歩いていた。



「もう少し速く歩けないの?」



 小さな歩幅を一生懸命に大きく開いて早足で進む舞を見ていると、無性に頭を撫でたい衝動にかられる。



 しかし行動したが最期、こめかみに膝を頂戴することが確定してしまうが為に実行はしない。



「何を急いでんだ? う○こか?」



 舞の爪先が鼻面にめりこんだ。



 ピンクのしましまを視界に焼きつけ、ヒステリックな舞の叫び声を子守歌に、黒人の意識は遠退いてゆく。










「……いてえ」



「自業自得よ」



「あはは……」



 こればかりは黒人が悪いと咲も思ったのだろう。特にフォローもなかった。



「で、そんなに急いでる理由はなんだよ? のんびり帰るのも悪くないだろ?」



 改めて黒人は問う。



 ギリッ、と歯を噛む音が聞こえて黒人は大きく震える。それと同時に身構えてしまうのは、付き合いの長さ故の条件反射である。



「もう、お姉ちゃん! 先輩を怖がらせないの!!」



 フォローしているつもりなのだろう。が、咲の一言は「弱い者イジメはダメ!」と言っているようにしか聞こえない。



 軽く心に傷を負った黒人は、視線を前方に向ける。



 その行動は咲からの追撃を避ける為であるのと同時に、前方に人の気配を感じて道を空ける為の行動でもあった。



 普段なら挨拶もしなければ、相手の顔を確認したりもしない。



 だが何となく、この時黒人は相手の顔を意識して確認した。見れば葛城姉妹も立ち止まって前方に目を向けていた。いや、舞だけは睨んでいる。



 知り合いか? と疑問を投げかけるよりも早く、その舞に睨まれている相手が口を開いた。



「よお、お前が春木の後継者でいいんだよな?」



 男の言葉の意味を理解する前に、舞が男と黒人の間に割り込む。 



「さっそくのご登場ってわけ?」



「お、ボンクラばっかかと思ってガッカリしたけど、状況を理解してるヤツもいるじゃねえか。しかも、それが女とはね」



 にたり、と粘着質な笑みを浮かべる男を見て、黒人の背筋に冷たいものが走る。



 それは警鐘。



 『久しく』向けられていなかった純粋な悪意と殺意。人を殺し慣れ、それに快感を覚えた者の目。



 それに黒人が固唾を飲み込んだ時、向けられる殺意を軽く受け流しながら舞が普段と変わらない口調で言う。



「それが分かるなら、あんたも状況判断くらいできるでしょ? 退きなさい。こんな時間に、こんな場所での戦闘行為を魔術境界は許可しないわよ」



 数メートルも離れていない黒人にも聞き取れないような音声。しかし男には聞こえたようだった。



「そりゃパンピーに見られた場合だろ? なら問題ねえよ。ここは『人払い』してるし、それに見られたとしてもソイツは不慮の事故で死ぬだけだ。問題にもならねえよ」



 くひゃひゃひゃっ!! と上体を仰け反らせて笑う男の声に怖気が走る。



 黒人は全身に立った鳥肌を隠すように、学生服の上から腕を撫でる。



 何一つ誇張されていない言葉。有言実行するであろう男から放たれる害意に、胃の中身が喉元までせり上がってくるような感覚に、黒人は再び唾を飲み込む。



 同じような嫌悪感を覚えたのか、舞も身体を震わせながら、しかし現在の状況を常識外の力で確認する。



(周囲に魔力はない。ここに来てるのは、この男だけ!)



 それならば話は早い。



 舞は背中を向けたまま二人に言う。



「あんたらは先に帰ってなさい」



 その言葉に黒人と咲は驚き、そしてすぐに反論を口にする。



「んなことできるわけねえだろっ!!」



「そうだよ! お姉ちゃんも一緒に逃げようよ!!」



 目の前の男が危険だと咲も本能で感じているのだろう。今にも泣き出しそうな声をしている。



 この声で発せられた咲の言葉を舞は無碍にすることができず、いつもなら簡単に従ってしまう。



「ダメよ、ふたりは帰りなさい。ハッキリ言うけど、あんたたちは邪魔なの。遠回りだけど、少し戻って裏道から帰るのよ」 



 それは舞の本気の言葉だと黒人は理解していた。



 彼でも理解できるほどなのだ。妹として一五年間を共に過ごしてきた咲なら、より深く理解しているだろう。



 しかし、だからと「はい、分かりました」と考えを切り替えられるほど黒人は大人ではない。だから、答えは初めから決まっていた。



「イヤだ」



 唖然とした顔で舞が振り返り、その表情は直後に激昂した。



「バカ言ってないで帰りなさい! これは、あんたが思ってるような子供の喧嘩じゃないのよ!!」



 勢いに任せて口走ってしまった言葉。舞は「しまった……」と小さく漏らして黒人から目を逸らす。



「だったらなおのこと逃げるわけにはいかねえだろ」



 やっぱりか、と舞は肩を落とす。



 こういう人間なのだ、春木黒人は。



 別に彼は正義の味方を気取りたいのではない。面倒事を好むわけでもない。喧嘩が好きなわけでもない。



 見ず知らずの他人の為に身体を張るようなお人好しにはなれない。だが、よく見知った誰かの為なら躊躇なく身体を張る。



「私は『咲を担いで逃げろ』って言ってるの。私じゃ………………無理だもん」



 自分のコンプレックス(幼児体型)と正面から向き合った瞬間だった。



「それなら俺が足止めするから……!!」



「あんたの足止めなんか三〇秒も保たないから私が残るって言ってんのよ! 私なら大丈夫。作戦だってあるし、武器もある」



 舞は懐を叩いて見せる。



 そこにあるのはモデルガンだか本物だか有耶無耶の内に終わった拳銃が収まっている。



 それでも舞を置いて逃げることに躊躇を見せる黒人。



「ごちゃごちゃ考えてないで早く行けえええっ!!」



 舞の怒鳴り声でビリビリと空気が震えた。



 それでも黒人は迷う。



 本気で戦えば男を足止めする程度のことは可能だろう。しかし、それには準備が足りない。



 それに舞の言葉からは死なない自信も感じられる。だが、この場を女の子に任せて逃げる選択をすることに抵抗があった。



「……先輩」



 くいっ、と咲が黒人の袖を引っ張る。



 咲の顔は学校で見せる弱気なものではなく、ある種の決意をした目。



 血を分けた実姉を見捨てる決意ではない。自慢の姉を信じる決意を固めた眼差しで黒人を見上げていた。



「行きましょう、先輩。お姉ちゃんなら大丈夫ですから」 



「だけど……」



「お姉ちゃんを信じてあげてください。大丈夫ですよ。ああなったお姉ちゃんは、嘘を吐いたりしませんから」



 にっこりと咲は笑う。



 この異様な空間にあって晴れやかに笑える強い彼女が黒人には眩しく、そしてとても羨ましかった。



 そうして漸く黒人も決意した。



「家で待ってるからな。飯の時間に一分でも遅れやがったらお前の分も食っちまうぞ、咲が」



「た、食べません!!」



「あら、それは大変ね。必ず時間までに帰るわ」



「だ、だから食べないもん!!」



 いつもと変わらない会話。



 三人はひとしきり笑った後、真剣な表情になる。



「じゃあ、また後でな」



「ええ、そっちも一応、気をつけて帰りなさいよ」



 一つ首肯を返して、黒人と咲は同時に反転して駆け出した。



 と、男が懐から拳銃を取り出し、逃げ出した二人の背中に向けて照準を合わせる。



「そう簡単に逃がすかよ!!」



「撃たせないわよ」



 男の銃口は逃げ出した二人の背中に。



 舞の銃口は拳銃を構える男の眉間に。



「ガキが持ち歩くオモチャにしちゃ物騒すぎやしねえか?」



「お生憎様。普通のガキじゃないのよ、私」



 そうして牽制し合っている間に、黒人と咲は曲がりくねった道の先に消える。



 男は拳銃を下ろし、ため息を吐く。



「あー、あっちの女の子にも残ってほしかったんだけどな」



「女の子……? あんた春木の後継者を狙ってるんじゃないの?」



「俺ァ春木の後継者か聞いただけだろ? ヤローなんざ初めから眼中ねえ、よ!!」



 男は腕を回して銃口を舞に向ける。と、同時に発砲。



「ッ!?」



 咄嗟に身体を横にズラして回避する。



「ほう、ずいぶんと反射神経いいじゃねえか!」



 男は拳銃のグリップ底にあるスイッチを押す。



 すると男の拳銃が『射出した凶器』が銃口へと戻ってゆく。



 それは普通の拳銃では有り得ない光景。よくよく見れば、それは拳銃ではない。 



「それ、見たことあるわ。確か拳銃タイプのスタンガンじゃなかったかしら?」



「ご名答」



 銃身に普通の拳銃には必要ないメモリがあり、そこで身体を麻痺させる程度から殺せるまで、自在に電圧を調整できる。



 射出される針はピアノ線とは素材の違うワイヤーで繋がれており、そのワイヤーを巻き戻すことで再び武器として使えるようにするのだ。



 拳銃と形だけは似通っているが、様々な部分で拳銃とは決定的に違い、見分けるのは大して難しくない。



 それに気付けなかったということは、それだけ舞が焦っていたということである。



 それに自分でも気付いているからこそ、気持ちを男に集中させる時間を稼ぐ為に気になっていた質問を向ける。



「素直に教えてくれたついでに答えてくれるかしら? 何で私たちが話してる間に攻撃してこなかったの? チャンスがなかったわけでもないでしょ?」



「ああ? んな殺し方して何がおもしれえんだ?」



 男の言葉に、綺麗に整えられた舞の柳眉が不快気に歪む。



 殺しを楽しんでいるのかもしれない、とは思っていた。だが、実際に「そうだ」と肯定するような言葉を聞くと、やはり不愉快な気持ちにさせられる。



 そして、それをさらに増幅させるような笑みを浮かべ、



「お前だって人をぶっ殺したことあんだろ? 何も感じなかったとは言わせねえ。あんな征服感、他にねえもんな! なあ、そうだろ魔術師ィ!!」



「お前と一緒にするな! 私は自分から望んで人殺しをしたいなんて考えたことはない! 洗っても洗っても落ちない罪の刻印に濡れた両手を、いっそ切り落としてしまいたくなるくらいに!!」



 舞は再び拳銃を構える。



 先程までは、このまま膠着状態に持ち込み、適当に時間を稼いでから逃げようと考えていた。



 だから撃たなかった。



「でも、それは『葛城舞』の話。もう両手を血で穢した『魔術師、葛城舞』なら……お前を殺せる」



 目を瞑り、自分を『人間』葛城舞から『魔術師』葛城舞へとシフトする。



「――Dror・Ikra」



 制服のポケットに忍ばせたエメラルドを手の中に握り込み、その手で拳銃のグリップを握る。



「――Ruwach!!」



 軽いトリガーを引く。 



 ドヒュッ!! という音と共に不可視の弾丸が銃口から放たれる。



 ふわり、と冷たい風が男の頬を舐めた。ぞわり、と悪寒が走る。直感に従い男は無意識に足を半歩下げる。



「――づっ!?」



 頬を伝う生温かい感触に、男は手の甲を頬に押し当てる。



 ぬめっ、としたものが肌に付着した。



 血で赤く濡れた手の甲を見る。



「………………」



 呆然としているのか、男は自分の血がついた手を見て動かない。



 追撃してもいいのかしら? と舞は三度みたび沈黙する男に銃口を構え、トリガーに人差し指をかける。



 が、舞の銃口から再び不可視の弾丸が放たれるよりも早く、男が口を開いた。



「くひゃひゃっ!! いいじゃねえか。いいじゃねえか! 気ィ抜くんじゃねえぞっ!!」



 男の耳障りな声と言葉に、できるなら両手で耳を塞ぎたい衝動にかられ、せめて方耳だけでもと拳銃を握っていない方の手を耳にもっていく。



 と、その僅かな瞬間。目を離したのは本当に僅か二秒ほどである。



「は……?」



 いなくなっていた。いや、正確には死角をついて移動されたのだ。



 言い換えれば、それは僅かに生まれた空白の二秒間に死角を判断し、見逃すことなく行動できるだけの実力者である、という見方もできる。



 焦りが生まれそうになる気持ちを無理矢理に落ち着かせ、見失った男の姿を探す。



 正面の見える範囲にはいない。上に跳んだのかと見上げた瞬間、顎下に冷たい鉄が触れる。



 まさか、と目だけを動かして下に向けると案の定というか、そこには屈んで拳銃タイプのスタンガンを突きつける男の姿があった。



「……ぁあから気ィ抜くなっつったろうが」



 あまりに呆気ない幕切れに、あとはトリガーを引くだけで生かすも殺すも自在の男が、ため息を落とす。



 だが自分の命を握られている舞は、



「その言葉、そのままあんたに返してあげる」



「ああ? こっから挽回できる気でいんのか? 笑えねえ冗談だな」



 まさに絶体絶命のこの状況で、葛城舞は不敵に笑って魅せた。



「私をナメんじゃないわよ、三下ァ!!」



 ――Ruwach!! と。握り込んだままにしていたエメラルドから光が溢れだす。



 そしてアスファルトに向けて放たれる風の塊は、その爆風で舞と男の身体を引き離した。 



 舞が放った烈風はアスファルトを引き剥がし、その破片は平等に舞と男を襲う。



 ふたりの間にある優劣と言えば、ただ覚悟ができていたか、できていなかったかだけ。



「ぐおっ!!」



 細かい破片が男の視界を潰し、拳大の破片が男の全身を叩く。



 そうなれば目や身体を守る為に男は行動してしまい、大きな隙となるのは必然。



 そして覚悟していた舞が素早く体勢を立て直せるのもまた、必然。



「――Esh・Hahelech!!」



 漸く視界を取り戻した男は、充血した目で舞を睨んだ。その彼が見た舞の姿は、先程までと違っていた。



 それは髪の色や服装の変化という違いではない。



 彼女の周囲、背後で円を描くように展開された火の剣を目にし、息を飲んだ。



(その年で二属性の魔術を行使しやがんのか!?)



 通常、魔術は一つの属性を行使できるようになるのに一〇年以上の年月を必要とする。そこから応用できるまでに再び一〇年以上の年月を必要とするのだ。



 さらにそこから独自の魔術を創作しようとすれば、それは一生を費やしても確実とは言い切れない。



 舞の行使している魔術はオリジナル魔術の領域でこそないが、それでも一つの属性を習得し、その応用まで行使している。



 それは魔術師として二〇年以上のキャリアを持つ者と同等か、それ以上の実力者ということ。



 そして男は魔術を学び始めて二〇年ほど経つが、まだ応用を成功させたことは一度もない。



 つまり舞よりも魔術師としては遥か格下ということ。



「なに冷や汗流して笑ってんのよ、この程度の魔術で」



「この程度……だと……?」



 ふう、と鼻から息を抜き、風で乱れた黒髪を手で後ろに払い、



「特別にもう一つ上の魔術も見せてあげましょうか? まあ、あんたの命の保証はできないけどね」



 強気な笑みを浮かべて舞は言った。

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