『彼の日常・非日常【⑤】』
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お昼休みも午後の授業も、黒人的につつがなく終え、伊藤先生が教室の入口から顔だけを覗かせて「解散!」という声で帰りのホームルームが『いつも通りに』終わる。
この閉め方のせいで、伊藤先生が重要な連絡事項を伝え忘れたことなど、この進級から二週間で両手の指を超えている。
特に連絡事項の多い学年始だからこその快挙なのだが。
とにかく、いつもと同じ一日が終わり、いつものように机の中に教科書を放置して、いつものように弁当箱だけの鞄を手に立ち上がる。
「黒人」
と、教室を出ようとした時に声をかけられて振り返る。そこにいたのは小さな女の子。
いつもと同じではないイベントが発生した。
黒人は物珍しそうな目を舞へ向ける。
登校は一緒にするが、下校は別々。その理由は黒人にアルバイトがあったり、葛城姉妹が夕食の買い物があったりと様々な建前。
咲と同じように舞も『自分たちと黒人が同じ』と周囲に認識されないようにしている、というのが彼女の本音である。
だからか、いつしか一緒に下校することがなくなっていた。途中で偶然あって道なりに帰るくらいだ。
「どうかしたか? 夕食なら俺はクリームぜんざいがいい。あの和なのか洋なのか意味のわからなさが後味を……」
「一緒に帰りましょう」
オールスルーだった。
いや、そんな思考は黒人の脳のコンマ以下も使用されていない。
あの舞が帰りを誘っているのだ。
だからだろう。そんなことを言われると何かの病気を、まっさきに疑ってしまう。
舞の額に手を当てる。平熱より少しばかり熱が高く感じる。
「何してんのよ、あんた……」
前髪で目元を隠して拳をぷるぷると震わせている。それでも殴りかかってこないだけ成長しているのかもしれないと、黒人は感涙を滴らせる。
その感涙は帰宅後に流すことにして、今は舞との話に集中する。
「いや、お前がいきなり変なこと言うからだろ? それに今日はバイトがある」
「休みなさい」
「おおっと、まさかの展開ですよ、これは。つか、自己中もそこまでいくと清々しくさえあるな」
先程まで射出される時を今か今かと待っていた拳が、とうとう火を噴いた。
「かぺっ!?」
「誰が自己中なのよ! これはあん――~~だああああっ、んもうっ! いいから黙ってついて来なさいっ!!」
快活に揺れる二房の黒髪が扉の向こう側へと消える。その後を引き摺られながらついて行く黒人の姿に、クラスメイトから黙祷が捧げられた。
廊下に出てすぐ、黒人は引っ張っていた舞の手を振り解いて立ち上がる。これ以上引き摺られ続ければ、必ず近い将来は育毛剤が手放せない生活になっていただろう。
いや、もう遅いかもしれないと黒人は密かに頭皮マッサージしながら、すぐ前を歩く舞の背中を追う。
夕焼けのオレンジ色に染め上げられた廊下は、すでに帰り支度を終えた生徒たちで賑わっていた。
廊下の端に集まって何かを楽しげに話している生徒たちや、これから部活動に励む生徒たちが部活棟に向かって歩いている。
こうして歩いていると、いかに舞に友人がいないかを思い知らされる。
もちろん、それは舞自身が望んでいることだ。考えなしに輪に加われば変に気を遣われて気まずい空気になるから。
友達となって尚、溝は埋まることがない。むしろ、自分と相手の境遇の違いが露呈し、どんどん深まるばかり。
だから、これは舞なりの自己防衛。
初めから傷つくとわかっているのなら、深く付き合わなければいい。話しかけられた時だけ、当たり障りなく接していればいい。
それはとても寂しくて、自分の心に本人も気付けないほど小さな傷を刻むナイフだとしても、それでも一気に心を切り裂かれるよりはマシだと。
「なあ」
「何よ」
重い空気の中、勇気を振り絞った黒人の声に、熱を感じない冷めた舞の声が返ってくる。
だが、それでもめげない。
「どうしたんだ? たしかに、いつも舞は傍若無じ……あ、いや、その、アレだけどよ? 今日のお前はおかしいぞ。何かあったのか?」
「………………何もないわよ」
舞も、できるなら理由の全てをぶちまけたい。自分が『境界の狗(魔術師)』であることも、これから起こるかもしれない災厄も、その全てを。
黒人は舞と咲のことを理解している。魔術師であったと知られても、それで付き合い方を変えたりなどとはしないと断言できる。
だがそれは、まだ完全に魔術師サイドに足を踏み入れていない黒人に、他人の血でレールを敷く魔術師の人生を歩けと強要するのと同じ。
それに自分の身に危険が迫っている可能性を知れば、逆に葛城姉妹を巻き込まない為に己が身を犠牲にする。
彼女が魔術師だと知っていようがいまいが関係ない。そういう人間だと理解しているから、わかる。
だからこそ舞は、そんなバカで愛おしい黒人が――たった一人の友人に、そんな自殺のような真似をさせたくなかった。
その感情のすべてをねじ伏せて、舞は振り返りながら、精一杯の平静を装い言う。
「本当に何でもないのよ。ただ最近はいろいろと物騒じゃない? だから私と咲のボディガードに使ってやるのよ」
「ああ、たしかに最近は物騒になったよな。幼女誘か――はがおっ!!」
「誰が幼女よ、この変態」
身体の小さな小さな舞の拳は、当たってはいけない場所にクリーンヒット。黒人は内股で全身を痙攣させながらも、なんとか立っていたが、その抵抗も虚しく崩れ落ちた。
その間にも舞は、ひとり先へと進んでゆく。助ける気は皆無らしい。
顔色の悪い黒人が、やっとの思いで階段を下りた先の廊下に、咲と合流した舞がいた。
「あ、先輩。お昼はありがとうございました」
そんなこと気にするな、と頭に手を置いて言ってやりたい黒人であったが、
「…………ぉぅ」
声を出すのもツラいほどの激痛に苦しんでいた。
黒人は思う。「もし未使用品のままで不能になってたらブチのめ……いやいや返り討ちフラグだって、それ」と。
結局は泣き寝入りかと重く長いため息を零していると、そんな黒人の顔を咲は心配そうに下から覗き込んでくる。
「どうかしたんですか……?」
打ち明けるのに、そう時間は必要なかった。というか即答だった。
「お前の姉ちゃんの凶暴性が牙を剥いたんだ……」
「お姉ちゃんが、ですか……?」
うん、と首肯した顔でチラリと舞を盗み見る。欠伸をして退屈そうに振り返る所であった。
「私は知らないわよ? 勝手に転んでぶつけたんじゃない? ほら、廊下には固定されてない消火器もあるしさ、誰かがイタズラのつもりで転がしてあったとか」
平然と嘘を並べる舞。その面の皮の厚さに黒人は驚きを隠せない。脳内保存した映像を第三者に見せられるのなら咲に見せたいものだ、と考えて、すぐに諦める。
金的に一撃もらって悶絶する姿。それはあまり後輩というポジションにいる、しかも異性に見せたくない姿だったから。
今も舞に詰め寄り真実を問いただそうとしている咲の肩に手を置き、キラキラと青春の爽やかな汗には程遠い脂汗を輝かせて止める。
「もう大丈夫だ。それより早く帰ろうぜ。あ、帰りに買い物とかあるか?」
――あれー? でも問いただしてたってことは、もしかして咲、気付いてるの? あっれー?
などと黒人が表情いっぱいにオドオドしていると、あまり聞かれたくない話なのかな? と察した咲は、そんな彼が提供してきた話題に乗ることにする。
う~ん、と声に出して冷蔵庫の中身を思い出す。
「昨日の帰りに買い物は済ませてありますから大丈夫です」
「そういうこと。だから早く帰るわよ」
「あ、待ってよ、お姉ちゃん!」
葛城姉妹の背中を追い、黒人も学校を後にするのだった。




