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『裏切りの魔術師【⑧】』

 

 ◆ ◆ ◆



 午後一二時一五分。



 春木黒人は布団の中で寝息を立てていた。その隣では金髪の少女が、こくりこくり、と頷くように頭を上下に動かしている。



 その時、一際大きくジャンヌの頭が下に傾く。それはそれは上体が黒人の布団の上に倒れ込むほど。



「――わふっ!?」



 驚きの声は布団に顔を埋めたまま発せられ、そのままジャンヌは目をぱちくりと開閉を繰り返す。



 そして顔の横に違和感。



 頬に何か固いものが当たり顔を上げる。



 手でもあるのか? と思ったが、どうやら違うらしいな、と黒人のリアクションから判断する。



 黒人は子供のように身体を『く』の字に曲げて悶絶していた。



「大丈夫か、マスター」



「大丈夫……くない……」



 何とか絞り出したかのような声に、よほどの衝撃を与えてしまったらしいと判断したジャンヌは、その布団を一気に引っ剥がす。



 きゃーーっ!! と女の子のような悲鳴を上げる黒人。その両手は股間を押さえていた。隠せていなかったが。



「な、なかなか立派だな」



「恥ずかしいなら言うな! 頬を赤らめてまで言うな! それに、これは男なら抗えない生理現象なんだ!!」



 黒人は引き剥がされた布団をかき集めるようにして下半身を包み、恨みがましい目でジャンヌを見る。



「い、いや、悪かった。だから、そんな情欲にまみれた目を向けないでくれ……」



「向けてねえよ!!」



 ううぅぅ……、と唸りながら「今何時だ?」と、できるだけ平静を装った声でジャンヌに訊ねる。



「今は昼時だな」



 窓から外を眺めて答える。太陽の位置で現在時刻が分かるらしい。が、そんなスキルに感心している余裕は黒人にはない。



「昼? そんなに寝てたのか、俺!?」



 顔色が悪くなる。



 それは母のこと。冴子にジャンヌのことを上手く説明して、これから一緒に生活することを伝えなければならない使命があったからである。



 しかし寝過ごした。



 大きく寝過ごした。



「なあ、ジャンヌ……。義母さんには会ったか?」



「うん? 冴子か? 昔と変わらない、優しい人だったよ、彼女は」



 思い切り泣いてしまったことを思い出して、ジャンヌは朱くなった頬を隠すように俯く。



 人間のように瞼を泣き腫らす、ということのないアガシオンで本当によかった、と心から感謝した瞬間だった。



 そんなジャンヌと違い、太陽の日射しを受けて明るい部屋で体育座りして、黒人は前後に揺れていた。



「ん? どうしたんだ? 何だかマスターの上だけ太陽の恵みが希薄じゃないか?」



「いや、気にしないでくれ。俺だけ意気込んでたのが恥ずかしかっただけだから……。うん、そうだよな。義父さんの妻なのにジャンヌのこと知っていて不思議じゃない……のか?」



 そこまで考えて、あれ? と疑問が浮上する。



 じゃあ魔術のことも? という疑問だが、考えれば考えただけ鬱になりそうだったから、そこで思考を停止させる。



「何だかよく分からないが、咲から伝言がある。昼食は冴子を起こさない為に葛城の家で食べよう、とのことだ」



「あ、そうか。義母さん、今週は夕方からの仕事だもんな。それまではゆっくりしてもらいたいし」



 よっ!! というかけ声と共に、黒人は両手を使わずに飛び起きる。寝過ぎたせいだろうか、変に身体が固まっている。



 首を左右に強く傾げると、気持ちのいい音で首骨が鳴る。その調子で全身の凝りを簡単に解してから、箪笥を漁る。



 適当に私服を引っ張り出し、寝間着にしていたスウェットに手をかけた所で、まだジャンヌが部屋にいたことを思い出す。



「あの、今から着替えるんですけれども……」



「ああ、私のことは気にせず続けてくれ」



「いや、ごめん。気になる。めっちゃ気になるから出てけ」



 その言葉を聞いたジャンヌの表情がムッとなる。



「私はマスターを守る為にここにいるんだっ!!」



「なら俺のプライバシーも守れや!!」



 そこから始まった言い合いの末、部屋の外で待つという決着を勝ち取った黒人は安堵する。



 かなり文句たらたらではあったが。



 一人になった部屋でため息を吐き、スウェットから着替えながら、ふと気付く。



(あれー? そういえばジャンヌの部屋って用意したっけか? つか、いつから俺の部屋にいたんだ? あっれー?)



 考えれば考えるほど答えは一つに絞り込まれてゆく。だが、それは黒人にとって否定したい答え。



 色々と黒人もお年頃である。あっはーんな夢やうっふーんな夢も視てしまうのである。その時の寝言が円周率なはずがない。



「部屋を用意しよう……。今すぐに! 俺の寝言が聞かれないほど遠くに! いや待てよ……むしろ俺が地下に部屋を移動した方が安全か?」



 ぶつぶつぶつぶつぶつぶつ、と。今後の生(性)活の為にも、着替えながら早急に対策を練る。



 が、プライベートな空間を守るにはジャンヌの協力が必要不可欠で。それに気付いたのは、着替えが終わり、襖を開けた時、部屋に鍵がないことに気付いたのと同時であった。







 それから昼食の為に葛城家へ向かおうと家を出る。朝食を抜いたせいか、すでにお腹がぐーぐーと文句を垂れ流している。



「そういえば舞と咲に自己紹介は済ませたのか?」



「朝食の時に。まあ私から自己紹介したのではなく、冴子が私の名を呼んだから知られた、が正しいがな」



「あー、なるほどね。まあ、どんな形でも自己紹介できてよかったな。これから毎日、顔を合わせることになるんだしよ」



 その言葉の暖かさに黒人は気付かないだろう。



 これから毎日顔を合わせる、ということは、ジャンヌが独りで食事をすることはないということ。



 過去、黒人にまだ存在を知られてはならない頃、独り地下室で食事していた頃のように。



(お前の息子は優しいな)



 命を懸けるに値するマスターに仕えられるということは、アガシオンにとって大きな喜びといえる。



 そうでないマスターのアガシオンにされても、契約から解放される為にマスターの死を願いながら、それでもマスターを守るという矛盾的行動で魂を摩耗させられる。



 それに耐えられず、自分を見失いマスターを殺してしまったアガシオンは、穢れを宿した魂として空白の世界に更迭される。



 好き合う相手も、嫌い合う相手も、殺し合う相手も、誰もいない、景色すらない無の世界。



 その地獄を何千年と魂が消滅するまで放浪させられる。



 そこに堕ちると理解しているアガシオンだが、それでも実際にマスターを殺したアガシオンも少なくない。



 それを思えば、春木栄一と春木黒人というマスターと巡り会えたのは、ジャンヌ・ダルクの幸運であった。



「――ふにゃっ!?」



 そんなことを考えながら歩いていたせいで、ジャンヌは唐突に立ち止まった黒人の背中に衝突してしまう。



 その際に出た猫のような声。それは早々に自分の記憶から抹消する。



 もし黒人の記憶にも刻まれているようなら力づくで抹消しよう、とさり気なく腰に提げた剣の柄を握りながら、



「どうかしたのか?」



 表面上は普通に声をかける。でも内心は手をすり合わせで聞かれていないことを祈祷しているのだが。



「うーん、何で服を抱きしめた咲が家の前に立ってんのかなー、ってな」



 うん? とジャンヌは黒人の背中越しに背伸びをして葛城家の門前を見る。確かに胸元に服を抱きしめた咲がいた。



 胸にはジャンヌの生きていた時代によく見かけた、ドピンク色のカントリードレスが抱えられている。



「……あの服を着る、のか?」



 中世時代を生きたジャンヌ・ダルクですら、うわぁ……、と思ってしまう服だった。ジャンヌの場合はドレスに縁がなかったからそう思うだけなのかもしれないが。



「いや、たぶん舞を着せ替え人形にして恍惚を味わおうとしたけど、それを事前に察知した舞に逃げられた、とかじゃないか?」



「ずいぶんと細かく説明できるんだな。マスターは最近流行っているらしい『すとーかー』とやらなのか?」



 ぴくっ、と黒人のこめかみに青筋が浮かんだのを、ジャンヌは目ざとく見つける。



 すぐに謝罪の言葉を述べようとした矢先に、すたすたと咲に向かって歩き出した黒人。



「よお、咲。おはよう。ジャンヌが『そーいう服』にすっげー興味あるから着てみたいんだってよ。後で付き合ってやってくれないか?」



 言ってなあああいっ!! という心の叫びを口にする前に、ジャンヌの腕がホールドされる。それはもうガッチリと。



 見えなかった。人間だった頃とは比べるべくもない優れた身体能力をもつ彼女が、咲を見失い、それどころか一瞬にして捕獲された。



 それに恐怖を強く感じる。



「ジャンヌさんは外人さんですから絶対に似合いますよ! それに純白のウェディングドレス風からロリータまで色々と可愛い服を取り揃えてますから、私に任せてくださいっ!!」



 任せたくありません!! と涙ながらに遠慮しようとした瞬間、黒人は笑みを浮かべてジャンヌに『命令』した。



「ジャンヌ、逃げるなよ?」



 それは強い意思の元に発せられた主人の言葉。そのような言葉にはアガシオンへの絶対命令権が付随される。



 つまり、その言葉には絶対服従という意味である。だから、



「了解した、マスター……」



 そう答えるのは必然だった。



 この時、ジャンヌは恨んだ。アガシオンとなった自分をでもなければ、こんな命令をした黒人をでもない。



 逃げた(らしい)舞を。



 そうして何から着せようか想像を膨らませている咲に引き摺られるジャンヌを見て機嫌を直した黒人も、葛城家へ入る。



 ふと、どこからか視線を感じたような気がして立ち止まり、周囲を軽く見回す。



 周囲に隠れられるような場所はない。まっすぐ続く家の前の道は障害物はなく、隣家と密接していて人が通れるほどの隙間もない。



「…………気のせいか」



 どこか納得いかない表情で、黒人は改めて葛城家へ入った。



 

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