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『裏切りの魔術師【②】』

 

 ◆ ◆ ◆



 ふわりと香る優しい匂いにジャンヌの瞼がピクリと動く。



 覚醒を始めたジャンヌの耳に何かを炒める音と、まな板を叩く音などが聞こえ、ゆっくり彼女は目を開ける。



 不寝番をしていたはずなのに、また座ったまま眠っていたようだ、と少し自分を情けなく思う。



 視線を下げた先には、無表情で身動き一つしない黒人の寝顔がある。起きる気配はない。時計で時間を確認する。



 午前六時一〇分。まだ朝にしては早い時間である。就寝時間と魔術鍛錬の負担を思えば、まだまだ身体は休息を必要としているのだろうとジャンヌは理解する。



 まだ寝かせておいてやろう、とジャンヌは黒人を起こさないまま部屋を後にする。



 向かった先は居間。その部屋繋がりにあるキッチンに顔を出す。



 白いエプロンをつけた春木冴子が機嫌よく鼻歌を歌いながら、味噌汁の鍋を掻き回していた。



「……味噌スープも久しぶりだな」



 突然の声に驚いて振り返る冴子。



 口を手で隠して目を見開く。その驚愕の表情も、すぐに嬉々としたものに変化し、そして冴子はジャンヌに飛びつく。



「久しぶり! 栄一さんがいなくなった時以来だから二年と三ヶ月ぶりね!!」



「ああ、その、ずっと冴子には謝罪しなければならないと思っていたんだ。春木栄一を守り通せなくて本当にすまなかった……」



 深く、額が膝につくほどジャンヌは深く頭を下げる。



「……ジャンヌちゃんが悪いわけじゃないわ。だから私はあなたを責めない。でも一つだけ教えて」



「…………ああ」



「守り通せなかったって言ったわよね? それは、つまり栄一さんが他の魔術師に殺されたということ?」



 ああやっぱり、とジャンヌは再確認する。



 初めて会った頃から春木冴子は勘の鋭い女性だった。いや、勘ではなく、人の話をしっかり聞き、人の機微にも敏感だったのだ。



 そして、それを瞬時に理解できる回転の速い頭。ぽわん、とした印象とのギャップが魅力的でもある。



「……冴子の言う通りだ。春木栄一は、とある魔術師に殺された」



「そう……やっぱりそうだったのね。ご遺体を帰してもらえなかったから予想はしていたけれど、悲しいわね」



 ジャンヌにとっては痛い沈黙の時間。実際は一〇秒ほどの沈黙だっただろう。しかし、それがジャンヌには数分に感じられた。



 罵倒されるより、殴られるより遥かに痛い沈黙は、冴子の手を叩く音で打ち破られる。



「教えてくれてありがとう。それで今日はどうしたの? っていうより今はどうしてるの?」



「あ、いや、それなんだが……」



 その先を伝えるのを躊躇してしまう。春木栄一を守れもしなかったアガシオンが、今度は黒人のアガシオンになろうというのだから。



 そんな理由もあり、どう言葉を選んでも冴子はいい顔をしないだろうと予想し、「それならせめて」とジャンヌはストレートに伝える決意をする。



「私、は、黒人のアガシオンに、なったんだ。いや、は、初めからそうなるように創られていたからでもあるんだが! あ、でも、これが春木栄一の願いでもあったし、な……」



 どんな罵声でも甘んじて受け止める覚悟はできていた。その権利が冴子にはある。



 だが、



「そうなの? じゃあ、これからはジャンヌちゃんも家族として一緒に暮らせるのね?」



 向けられたのは罵声でも辛辣な言葉でもなく、新しい家族を暖かく迎え入れる笑顔の言葉だった。



「ずっと思ってたのよ。栄一さんと黒人とジャンヌちゃんと私。四人家族で食卓を囲みたいって」



 舞ちゃんと咲ちゃんも一緒よ、と冴子は片目を閉じて言う。



 目に映る彼女の笑顔が濡れ、そして歪む。それが涙のせいだと気付くのに数十秒の時間を必要とし、それを自覚した時には頬を濡らしていた。



「わ、わた、私は……栄一を守れなかったんだぞ? そんな私を冴子は……」



 これは身勝手な贖罪だ。何を言おうとしても言い訳にしか聞こえない言葉ばかり。



 だが冴子は、そんなジャンヌをそっと、優しく包み込むように抱きしめた。泣き止まない子供をあやすように。



「ジャンヌちゃんは精一杯、栄一さんを守ろうとしてくれたんでしょう? そんなこと私はお見通しなんだから。だって、あなたは栄一さんと私の娘なんですもの」



 ジャンヌの頭を撫でながら、



「栄一さんの最期を看取ってくれてありがとう。栄一さんを最期に一人にしないでくれて、ありがとう。辛いことを一人で背負わせて、ごめんね」



 もう、ジャンヌは我慢しなかった。



 瞳が焼きついてしまうのではないかと思うほど、熱く熱く涙が溢れ続ける。今までずっと我慢してきた涙。



 それが一斉に溢れて、嗚咽と共に止め処もなく身体の外へと流れ出していく。



 冴子は、そんなジャンヌの頭を、よしよしと撫で続ける。小さく笑うような声が、耳元で囁かれる。



「泣き虫さんだったのね、ジャンヌちゃんは」



 その言葉に反論するのも忘れてジャンヌはいつまでも、誰に憚ることもなく泣き続けた。



 

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