『彼の日常・非日常【①】』
庭で朝食を探す小鳥の囀りで彼は目を覚ました。
頭が重い。今少し寝ていたい欲求に身を委ねようか悩むが、そうもいかないと油断すれば開かなくなりそうな瞼を無理矢理に上げる。
畳の部屋。和室の中央に敷いた布団から身体を起こし、腰を左右に捻る。ゴキゴキッ、と凝り固まった身体を伸ばす。
「ふあ……ふ……っ」
欠伸をひとつして、昨夜の内に枕元へ用意しておいた服に袖を通す。
――春木黒人。黒髪黒目の典型的な黄色人種である。特にカッコいいと騒がれることもなければ、ダッサーイと変に蔑まれることもない少年。
よく言えば平均的。悪く言えば誰の印象にも残りにくい一六歳。県立霞ヶ丘高校の二年生である。
今日は金曜日。平日最後の学校があるのだが、彼の格好は私服。そのまま登校すれば、もれなく生徒指導室でお局様の独身女教諭の長い長いお説教がプレゼントされるだろう。
そんなのは黒人も御免である。ただ、今からの日課には、この格好が好都合というだけの話。
黒人はジャージにTシャツ姿で自分の部屋を出ると、その足で洗面所に向かう。
ぶっちゃけてしまえば、この家はかなり広い。だからといって裕福な生活かと聞かれれば、むしろ質素な生活だと即答する。
維持費のせいで貧乏かもしれない。
しかも、この軽く一〇部屋以上は空き部屋のある家屋には、黒人と義母の二人しか住んでいない。
それもあり、結構寂しかったりする。
洗面所で顔を洗い、居間の前を通る。すると居間に隣接するキッチンから、朝餉の用意をする義母の音をわずかに外す鼻歌が聴こえてくる。
「おはよう、義母さん」
「おはよう、黒人。咲ちゃんと舞ちゃんの家に行くんでしょ?」
暖簾に仕切られたキッチンから顔だけを出して義母が声をかけてくる。笑顔。黒人は、どんな時も笑顔以外に義母の表情を見たことがない。
――春木冴子。最近、白髪が気になり始めたお年頃の未亡人。緩やかなウェーブのかかった茶色の髪は、肩上で切り揃えられている。
旦那である『春木栄一』が亡くなった時は、さすがに笑顔ではなかったが、それでも毅然と足を運んでくれた知り合いに挨拶をして回っていた。
きっと見えない所で泣いていたんだろうな、と黒人も何となく気付いている。だから彼も笑顔を返す。
「うん」
「じゃあ早く行ってきなさい」
「わかってる。じゃあ行ってくるね」
居間を自分の部屋とは逆方向へ通り過ぎて玄関へ。引き戸をスライドさせると、まだ春先で肌寒い朝の空気に身体が自然と震える。
玄関を閉めて庭を小走りに横断し始めてすぐ、その足を止めた。
日本の古く大きな武家屋敷に多く見られる門構え。そこに男が、呼び鈴を押すでもなく立っていたのだ。
押そうとしたタイミングで黒人が外に出て来たとも考えられるが、そんなタイプではないことを彼は知っている。
止めていた歩みを再開させ、その男に近付きながら声をかける。
「ああ、神父さん」
「ふむ、久しぶりだね」
義父の葬儀の際にお世話になったことがある。遺体のない、空の棺を送り出す為だけの儀式。
魔術の痕跡が残っていた場合、身体は魔術境界に引き取られ埋葬されることがある。
義父、春木栄一の場合が、まさにそれだった。家族への説明は『旅先で乗船した船が沈没し、遺体は行方不明』だった。
が、黒人はそれが嘘だとしっている。春木栄一自身から「今回は山登りでもしてきます」と聞いていたから。
だから調べた。
隠蔽するにも人の口に戸は建てられないように、どこかに必ず金額次第で情報を流す者は存在する。
そこから得た情報では、魔術境界が『とあるモノ』を入手する為に春木栄一の遺体を処分した、と。
だから――。
「今日はどうしたんですか?」
「ふむ、キミのお母様にお話があってね」
この作り物めいた笑顔も含めて、黒人は神父を好ましく思えなかった。冴子に会わせるのも嫌なくらいに。
しかし、この時間帯に、ここまで足を運んだということは今を追い返しても再び訪ねてくる可能性が高い。
でなければ電話一本で済むのだから。
「…………中にいますよ」
今、俺は神父のように上手く笑顔を作れているだろうか? と考えつつ、黒人は玄関を指差す。
「ふむ、そうか。ありがとう」
神父と擦れ違った瞬間。
「もう少し自然に見えるよう口角を上げて笑顔を作るといい」
バレていたらしい。そうと分かれば黒人としても感情を取り繕う必要はない。
「あんたも、もう少し雰囲気を柔らかくした方がいいんじゃないッスか? 俺に見抜かれる程度じゃ、どこにも通用しないと思うよ、その笑顔もどき」
それだけを言い返して黒人は神父と入れ替わるように門から路上へ足を踏み出す。
その後ろ姿を器用に振り返りもせず見ていた神父、月宮礼司は声も小さく笑う。
「お前の後釜はアレだな。思った以上に矮小じゃないか。だが面白い。これは楽しめそうだよ、春木栄一」
くくくっ、と聞き手を陰鬱に誘うような暗い笑い声を漏らしながら、月宮礼司は玄関前の呼び鈴を鳴らす。
その頃には、もう月宮礼司の顔には先程までと同様の笑顔の仮面が貼り付けられていた。




