「聖女様を毒殺しようとした」と婚約破棄されましたが、その症状、毒ではありません
最初に響いたのは、陶器の割れる音だった。
王宮の夜会。その一角で、聖女コレットの手から茶器が滑り落ち、床へ叩きつけられる。
「う……っ」
コレットが喉元を押さえた。呼吸が急激に乱れ、細い肩が大きく上下する。やがて手足まで小刻みに痙攣し始め、その場へ崩れ落ちた。
「コレット!」
すぐさま駆け寄ったのは、王子のローランドだった。
突如として響いた鬼気迫る大声に、夜会を彩っていた宮廷楽団の演奏が止まり、それまで歓談していた貴族たちも「何事か」と一斉に振り返る。
そして、侯爵令嬢のクラウディアもまた、その一人だった。
(これは……)
視線の先では、すっかり生気の抜けた顔色で横たわるコレットを、ローランドが壊れ物でも扱うように抱き起こしている。
「ローランド……さま……」
「どうした! 何があったんだコレット! しっかりしろ!」
「う、うぅ……わ、私は……」
苦しむコレットの唇は、今や不気味なほど紫色に変わっていた。呼吸は浅く、指先まで震えている。その普段の可憐な容姿とは似ても似つかぬ凄惨な姿に、周囲から悲鳴が上がった。
「医師を呼べ!」
「聖女様が……!」
騒然とする中、コレットは震える指を伸ばした。
「クラウディア様から……いただいた、お茶を……飲んだら……急に……」
その指先が向けられた瞬間、人々の視線まで一斉にクラウディアへ集まった。
「クラウディア」
ローランドが低い声で名を呼ぶ。
「これは、どういうことだ? この紅茶をコレットへ渡したのは君だな」
そこにいた何人もの貴族が、その場面を見ていた。否定のしようはない。
クラウディアがまだ何も答えないうちに、ローランドは床へ転がった茶器を睨みつけた。
「やはり、そういうことだったのか。以前からコレットを目の敵にしているとは聞いていた。聖女として皆から慕われる彼女が、それほど気に入らなかったのか?」
その言葉を合図にしたように、周囲のざわめきが膨らんでいく。
「まさか、嫉妬で……」
「でも、たしかにカップを渡したのはクラウディア様だったわ」
「聖女様のお顔を見て。あれは普通ではないぞ」
ちょうどそのとき、コレットが苦しそうに咳き込んだ。それだけで囁きは確信に近づき、クラウディアを見る目にも露骨な疑いが混じり始める。
ローランドはそんな周囲を見渡してから、クラウディアを正面から見据えた。
「聖女を毒殺しようとするような女を、将来の妃に迎えることなどできない。クラウディア、君との婚約はここで破棄する」
広間が大きくどよめいた。
突然の婚約破棄。けれど、それ以上に聖女毒殺未遂という言葉の重さが勝っている。
クラウディアが口を開くより早く、ローランドは近くの衛兵へ命じた。
「この件は王家に対する重大な犯罪として扱う。茶器を押収しろ。それから侯爵邸も調べろ。毒がまだ残っている可能性がある」
「はっ!」
衛兵たちが動き出す。
コレットは駆けつけた医師の手当てを受けながら、なお苦しげに横たわっていた。クラウディアはその場を離れず、弁解を重ねることもない。倒れた聖女、断罪する王子、それを受け入れていく周囲――自分を取り巻く状況だけが、本人を置き去りにするように固まっていった。
それからしばらくして、侯爵邸へ向かっていた衛兵が戻ってきた。
「ローランド殿下。クラウディア様のお部屋から、こちらが発見されました」
差し出された布を開くと、中から現れたのは数本の薬草だった。
「宮廷医師にも確認を取りました。毒性のある植物とのことです」
それまで残っていたわずかな戸惑いまで消え、広間のざわめきがはっきりとした非難へ変わる。
ローランドは薬草を一瞥すると、すぐにクラウディアへ視線を戻した。
「これでもまだ言い逃れをするつもりか? コレットへの嫉妬から毒を盛り、その残りを自室へ隠していた。これで話はすべてつながったな」
クラウディアが紅茶を渡した。
コレットはその直後に倒れた。
そしてクラウディアの自室から、毒草まで見つかった。
誰かが小さく息を呑む。もう疑惑ではない。少なくとも、その場にいる者たちの多くには、すでにそう思われていた。
「衛兵。クラウディアを拘束しろ」
「承知しました」
二人の衛兵が近づいてくる。
証言もある。症状もある。物証まで出た。聖女への嫉妬という動機さえ提示された。
もはや何を言っても無駄で、あとは罪人として連れていかれるだけ。
誰もが、そう思ったのだろう。
衛兵の一人がクラウディアの腕へ手を伸ばした、そのときだった。
「ちょっとお待ちを」
それは決して、大きな声ではなかった。
けれど、今まさに決着したはずの場へ落とされたその一言に、衛兵の手が止まる。広間を満たしていたざわめきも、吸い込まれるように静まっていった。
クラウディアは衛兵の手を軽く制し、運ばれてきた毒草へ目を落とす。
「それが、私の部屋から見つかったものですね?」
「そうだ。今さら何を――」
「でしたら、まず一点。確認させてください」
クラウディアは毒草を手に取ると、葉と茎を確かめた。それから視線だけを動かし、医師に囲まれているコレットを見る。
「やはり、おかしいですね。この毒草を飲んだ人間が、コレット様のような症状を示すことはありません」
ローランドの眉間に皺が寄った。
「この毒草は、摂取してすぐに痙攣を起こすものではありません。症状が現れるまでにはもう少し時間がかかりますし、最初に出る身体反応も違う。コレット様は、お茶を飲んだ直後に倒れたのでしょう?」
「あ、ああ。だからこそ君が――」
「その時点で合いません。発症までの時間も、現在出ている症状の組み合わせも違います。少なくとも、私の部屋から見つかったこの毒草をお茶へ入れた結果、コレット様がこうなったという説明は成立しません」
「成立しないだと……? いや待て! それ以前に、さっきから聞いていれば症状だの身体反応だの……なぜ君の口からそんな情報がすらすらと出てくるんだ!」
当然の疑問だった。
侯爵令嬢が、毒草の作用についてこれほど詳しく語るなど、ローランドにとっては想定の外だったのだろう。
しかし。
(なぜ……か。そんなもの、当然でしょう)
当の本人にとっては、それは不思議でもなんでもなかった。
というのもここだけの話、クラウディアには前世の記憶がある。
かつて彼女が生きていた世界で、その職業は医師だった。中でも携わっていたのは法医学。目の前に残された身体の変化から死因を探り、薬物や毒物が関わっていないかを調べるのも仕事の一つだった。
もっとも、前世の知識がそのまま今世で通用するわけではない。見たことのない植物もあれば、同じような効能を持ちながら性質の異なる薬草もある。だからこそクラウディアは、この世界で暮らすようになってからも、自分の知識と照らし合わせるように薬や毒について調べ続けていた。
王子の婚約者として求められる教養とは、まるで関係のない分野である。ただ、生前から仕事熱心だった彼女にとっては、それがライフワークのようなものだった。
とはいえ、そんな事情をこの世界でわざわざ誰かへ話す理由もなく――。
「いえ……仕事柄、少々薬と毒には詳しいものでして」
「仕事柄……?」
ローランドは「なんのことだ?」とでも言いたげに怪訝な顔をしたが、クラウディアは説明を続ける気はなかった。
「そんなことより、今はこの状況についてです。私が指摘したい問題点は、まだあります」
そのままコレットへ歩み寄る。
コレットの肩がわずかに強張った。
「口を開けていただけますか、コレット様」
「どうして私が……」
「強い毒物によって血流や呼吸に異常が起きているなら、紫色になるのは唇だけではありません。口の中や爪先にも変化が出るはずです。確認すれば済むことでしょう」
毒を盛られた被害者である以上、それを拒む理由もない。
周囲の視線を受け、コレットは渋々口を開いた。クラウディアは口内を確かめ、続いて爪先へ目を向ける。
「やはり、どちらにも変色はありませんね」
近くの給仕へ水と布を求め、届いた濡れ布を医師へ手渡す。
「今度は、コレット様の唇を拭いてください」
「なっ……」
医師が戸惑いながらも布を当てる。
一度、二度と拭ううち、白かった布へ紫色が移り、反対にコレットの唇からは不自然な色が薄れていった。
それを見て、広間の空気が目に見えて変わる。
「……色が、落ちた?」
「どういうことだ……」
「身体の内側から起きた変色ではありません。外から色をつけただけです」
「ち、違います! これは――」
「呼吸の乱れも震えも、この毒草による中毒の経過とは一致していません。別の薬草などで身体に軽い変化を起こし、そこへ演技を加えたのでしょう」
コレットの顔から、今度こそ本当に血の気が引いた。
先ほどまで彼女を案じていた人々の目が、じわじわと疑念へ変わっていく。
クラウディアはそこまで確認すると、静かに結論を告げた。
「つまり、コレット様はこの毒草を飲んでいません。そうである以上、私がこの毒草をお茶へ入れて殺そうとしたという事件そのものが、最初から成立していないのです」
「ま、待て!」
今度はローランドが割って入った。
「ならば、君の部屋から毒草が出てきたことはどう説明する! それまで偶然だと言うつもりか!」
「いいえ。むしろ、そちらのほうが分かりやすいです」
クラウディアは手の中の毒草へ視線を戻した。
「葉はまだ張りを残していますし、茎の切り口にも瑞々しさがある。これは長く部屋へ置かれていたものではありません。ごく最近採取され、持ち込まれたものです」
「そんなもの、君が今日、自分で置いたのかもしれないだろう!」
「でしたら、誰が今日この毒草を私の部屋へ持ち込めたのか確認しましょう。侯爵家では防犯のため、正門から入った外部の来訪者について、氏名と所属、入退館時刻をすべて記録しています」
クラウディアは侯爵家の従者へ記録を取り寄せるよう命じた。
やがて運ばれてきた記録簿を開き、事件当日の頁を追っていく。並んだ名前と時刻を一つずつ確認していた指が、ある行で止まった。
「ありました。ローランド様付きの侍女が、今日、私の屋敷を訪れています」
ローランドの表情がわずかに固まる。
「……それがどうした」
「私は、その訪問を聞いていません」
さらに時刻を確かめ、クラウディアは小さく目を細めた。
「しかも、ずいぶん都合のいい時間です。このとき私は、すでに屋敷を出ていますから」
「何を……」
「今日、あなたがわざわざ迎えに来てくださったでしょう?」
そこで初めて、夜会より前の出来事が語られた。
その日、ローランドは自ら侯爵邸までクラウディアを迎えに来た。夜会にはまだ少し早いから、王宮まで歩いていかないかと誘われ、クラウディアは彼とともに屋敷を出た。それから一度も帰宅していない。
そして記録上、ローランド付きの侍女が侯爵邸へ入ったのは、その直後だった。
クラウディアは記録簿から顔を上げ、ローランドを見る。
「なるほど。たしかに、おかしいとは思っていました。すっかり心の離れていたあなたが、今日に限ってわざわざ私を迎えに来るんですもの」
「ち、違う! 私はただ、婚約者として――」
「私を屋敷から連れ出した直後に、あなた付きの侍女が私の屋敷へ入り、その日のうちに私の自室から採取されたばかりの毒草が見つかった。これらは偶然ですか?」
ローランドの口が止まった。
クラウディアは答えを待たずに続ける。
「本人に聞けば済むことでしょう。その侍女は今夜も王宮に?」
侍女は、ほどなくして呼び出された。
何も知らされず現れた彼女は、広間の中央にクラウディアとローランドが立ち、自分へ大勢の視線が集まっているのを見るなり足を止めた。
「今日、私の屋敷へ来ましたね。何のためですか?」
「……それは……」
侍女の視線がローランドへ向かう。
すると彼は、返事を待つより先に声を荒らげた。
「私は何も知らない! この女が勝手に侯爵邸へ行っただけだ。何をしたのか知らないが、勝手なことをしたのなら自分で責任を取れ!」
「ローランド様……?」
侍女が目を見開く。
クラウディアはその表情を見てから、静かに告げた。
「では、話は簡単ですね。私の部屋へ毒草を仕込み、聖女殺害未遂の罪を着せようとしたのは、あなた一人の犯行だったとして扱うことになります」
「ち、違います」
「ローランド様は何もご存じないそうです」
「違います……! 私一人で考えたことではありません!」
「黙れ!」
ローランドの怒声が飛ぶ。
けれど、その一言がかえって侍女の逃げ道を塞いだ。
自分だけに罪を負わせようとしている。
そう悟った侍女は、青ざめた顔のまま首を振った。
「……ローランド様から、ご指示されました」
広間が静まり返る。
「何を言っている!」
「クラウディア様が屋敷を出たら、そのあとで部屋へ入って、この毒草を置くようにと……そう命じられました! 私は言われたとおりにしただけです!」
「貴様!」
「だって……全部、私のせいにするなんて……!」
もう止められなかった。
ローランドがクラウディアを屋敷から連れ出し、その直後に自分付きの侍女を侯爵邸へ送り込んだ。侍女は命令どおりクラウディアの自室へ毒草を置き、その夜、コレットが倒れたあとでそれが「証拠」として発見された。
先ほどまでクラウディアへ向けられていた疑いが、完全に向きを変えていた。
ローランドの顔から余裕は消え、コレットも青ざめたまま俯いている。
だが、まだ一つだけ残っている。
――そもそも、なぜ二人はここまでしてクラウディアを陥れようとしたのか。
クラウディアは二人を見比べた。
「おおかた、二人して私を殺人犯……この場合は殺人未遂ですけど。そう貶めることで、大手を振って私との婚約を解消し、晴れて二人で新たな門出を迎えようとでも思っていたのでしょうが」
二人は否定しなかった。
否定できなかった、と言ったほうが正しい。
クラウディアとローランドの関係は、ずっと以前から冷え切っていた。
クラウディアは感情に流されることが少なく、王子の婚約者として求められる役割もそつなくこなした。必要な知識を身につけ、問題があれば冷静に指摘し、間違っていることを間違っていると言う。
一方のローランドは、良くも悪くも情熱で動く人間だった。勢いで判断し、後から問題に気づくこともある。クラウディアに責める意図がなくとも、そうした判断を正されるたび、彼の中には少しずつ負い目が積もっていった。
やがてローランドは、クラウディアの隣にいることそのものを窮屈に感じるようになった。
そんなころに現れたのが、コレットだった。
感情を素直に表し、ローランドの言葉を肯定し、彼の情熱にも同じ熱量で応える。ローランドが彼女へ惹かれるまでに、それほど時間はかからなかった。
二人はやがて恋仲になった。
クラウディアも、ローランドの心が自分から離れたことには気づいていた。だからこそ今日になって突然迎えに来たことを、不自然に感じていたのだ。
とはいえ、王子と侯爵令嬢の婚約は、当人の心が離れたというだけで都合よく解消できるものではない。まして他の女性と関係を持った末に婚約を捨てれば、非難されるのはローランドの側だ。
ならば、クラウディアを婚約者でいられない人間にしてしまえばいい。
聖女を殺そうとした犯罪者なら、婚約を破棄しても誰もローランドを責めない。コレットは被害者として同情され、二人は堂々と新たな関係を始められる。
だからコレットは毒を盛られた被害者を演じ、ローランドはクラウディアを屋敷から連れ出し、その隙に毒草を仕込ませた。
夜会の場で罪を確定させ、婚約破棄まで一気に済ませる。
すべて、そのためだった。
もっとも。
その筋書きは、もう完全に崩れている。
「コレット様は、私の部屋から見つかった毒草を飲んでいません。そもそも、あなたが見せていた症状そのものが偽装でした。そして、その毒草は今日になって私の自室へ持ち込まれたもの。持ち込んだ侍女は、ローランド様から命じられたと今この場で認めています」
クラウディアの声は、最初から最後まで変わらない。
「その時間に私が屋敷へ戻らないよう、ローランド様はわざわざご自分で私を迎えに来た。そしてお二人には、私を犯罪者として婚約から排除する理由まであった」
そこで言葉を切る。
もう、付け加えるべきことは何もなかった。
先ほどまでクラウディアを断罪するために並べられていた証拠は、一つ残らず向きを変え、今やローランドとコレットを指している。
二人とも口を開かない。
開いたところで、何を言えばいいのか分からないのだろう。
クラウディアは責め立てなかった。勝ち誇って笑いもしない。
ただ、すべてを言い終えた者として、静かに二人を見た。
「私からは以上です。なにかご質問は?」
ローランドも、コレットも。
何も答えなかった。
――その後、コレットは聖女資格を剥奪され、ローランドも王位継承権を失った。
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