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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと隣国の姫に愛されていたから ――クラリス視点

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/12

本編『悪役令嬢になったのは、ずっと隣国の姫に愛されていたから』の別視点短編です。

クラリス側から、あの夜とその後を書いています。

本編先読了をおすすめします。

 クラリスは、あの夜の空気をよく覚えている。


 王城の大広間は、やけに明るかった。燭台の火は惜しげもなく焚かれ、磨き抜かれた床へ光を散らし、音楽は途切れず流れていた。笑い声も、つい先ほどまではあったのだろう。けれど、あの瞬間だけは、広間全体が妙に白々しく見えた。


 明るすぎる場所ほど、人は見たいものだけを見る。


 だからこそ、その夜の王太子は、自分が正しい側へ立っていると思えたのだろうと、クラリスは後になってからも何度か考えた。


 視線の中心に立っていたのは、エルミナ・ヴァレンシュタインだった。


 深い藍色のドレスは一分の隙もなく整い、胸元から肩、首筋、指先に至るまで、形が崩れていない。髪は乱れず、表情は硬すぎず、柔らかすぎず、感情に流されているようには見えない。ただそこに立つだけで、ああ、この人は王太子妃教育を終えた女なのだと誰にでもわかる姿だった。


 断罪される側に立たされているのに、そこにいる誰よりも“王家にふさわしい形”をしていた。


 そのことが、たぶん一番いけなかった。


 人は、自分より完成されたものを切る時、必ず醜くなる。


 王太子ルシアン・アルフェイドは、まさにその顔をしていた。


 正面に立つ彼の腕には、聖女ミレイユ・ソルベールが縋りついていた。震える指。少しだけ潤んだ目。守ってもらうことに慣れ始めた女の、あまりにもわかりやすい寄りかかり方だった。


 悪女と断じるほどのものではないのだろうと、クラリスは思っていた。むしろ本人にそこまでの自覚はないのかもしれない。ただ、自分がどういう顔をした時、男が気持ちよく守ってくれるのかを、もう身体が覚えてしまっている。その程度の軽さだった。


 だが、その軽さは、王太子の隣には向かない。


 エルミナは逆だった。


 守ってほしい顔をしていない。泣きつくための柔らかさではなく、立つために整えられた身体をしている。胸元に無理がなく、腰は締まり、裾の落ち方ひとつにまで育ちのよさが出る。見せつけているわけでも、媚びているわけでもないのに、女としての完成度だけが静かに伝わってしまう。


 ルシアンは、そういうものを重いと思ったのだろう。


 そして重いものから先に逃げた。


 クラリスには、その時点でほとんどわかっていた。


 ああ、終わるのだ、と。


 エルミナはクラリスの友人だった。


 毎日のように一緒にいる仲ではない。甘い話を交わし、秘密を打ち明け合うような関係でもない。ただ、同じものを重いと思い、同じものを軽蔑し、同じところで言葉を切る女だった。


 学園でも、王城でも、エルミナは少しだけ浮いていた。正しいからだ。正しさは、たいてい歓迎されない。特にそれが、楽な方へ流れたい人間へ向けられた時はなおさらだ。


 クラリスは昔から、そういう女を嫌いではなかった。愛想のよさや可愛げより、順と重さを先に見る女のほうが信用できた。


 だからエルミナが王太子の婚約者になった時、一度だけ思ったことがある。


 これで王家もまだ持つかもしれない、と。


 甘かった。


 持つのは王家ではなく、エルミナのほうだった。


 ルシアンが読み上げる罪状は、最初から薄っぺらかった。不敬。聖女への圧迫。隣国第一王女との不適切な親密。そして、内通の疑い。


 広間がざわつく。


 けれど、そのざわめきには、本当の驚きはなかった。誰もが待っていた筋書きが、予定通り読み上げられただけの音だった。


 エルミナは、そのすべてを受けてなお崩れなかった。


 泣きもしない。怒鳴りもしない。許しを乞いもしない。


 ただ、真っ直ぐに顔を上げて言った。


「……何を申し上げても、今の殿下には届きませんでしょう」


 静かな声だった。


 静かだからこそ、刺さる。


 その一言でルシアンの顔がわずかに歪んだのを、クラリスは見逃さなかった。


 ああ、この男は、最後まで自分が切っている相手の重さを理解しないまま終わるのだ。


 その確信だけが、胸の底へ冷たく沈んだ。


 夜会が終わったあと、セドリックは珍しく口数が少なかった。


 兄のやり方を好いていないことは、クラリスも知っている。だが、あの場で割って入れる立場ではないこともまた、二人とも理解していた。王がいて、王妃がいて、王太子が高揚し、聖女が縋り、貴族たちが風向きを測っている。そこで正しい言葉を差し込めるほど、王家は健全ではなかった。


 長い廊下を並んで歩きながら、クラリスは先に口を開いた。


「駄目になりましたね」


 セドリックが少しだけ眉を寄せる。


「……ずいぶんはっきり言う」


「事実です」


 彼は反論しなかった。


 兄弟だからこそ、まだ何か言い訳したい気持ちはあったのかもしれない。若いから。追い詰められていたから。聖女のことも絡んでいたから。


 だが、クラリスはそういう“事情”で評価を曇らせる気はなかった。


 軽いものへ流れた。


 それだけだ。


 未来の王である男が、重い進言を鬱陶しいと切り、守ってやりたくなる側へ逃げた。それ以上でもそれ以下でもない。


「兄上は、エルミナ嬢が嫌いだったわけじゃない」


 セドリックがぽつりとこぼす。


「でしょうね」


 クラリスは即答した。


「嫌いなら、ここまで引っ張りません。嫌いではなかった。ただ、重かったのでしょう」


 セドリックは黙る。


 クラリスは続けた。


「好き嫌いの話ではございません。王太子に必要だったものを、兄君は最後まで必要だと思えなかった。それだけです」


 自分でも冷たい言い方だと思った。


 けれど、ここで曖昧にしても意味がない。セドリックは兄を憎んでいない。だからこそ、誰かが情ではなく切らなければならない時が来る。その時に備えるなら、いまから甘くしてどうするのだ、とクラリスは思っていた。


 それからしばらくして、王都に静かな噂が流れ始めた。


 エルミナはまだ王都に留め置かれている。正式な処分は出ない。離宮に近い一角へ移され、外へも出されず、手紙も制限されている。侍女が減った。差し入れが止まった。庭へ出る許可もなくなった。


 噂というものは、たいてい薄まって届く。だが、薄まってなお嫌な手触りだけが残る時がある。


 今回はそれだった。


 クラリスは一度だけ、自分付きの侍女へ淡々と尋ねた。


「食事は」


「最低限は出ているようでございます」


「最低限」


「はい」


「そう」


 それだけで終えた。


 それ以上聞いたところで、何かが軽くなるわけではない。むしろ細部を知れば、余計に腹が立つだけだとわかっていた。


 セドリックはその夜、机の前でずいぶん長く黙っていた。まだ何もできない。けれど、何も起きていないわけでもない。その宙づりの時間が、彼には堪えたのだろう。


 クラリスは彼の横顔を見た。


 兄と違い、セドリックは重いものを嫌わない。好きで抱きに行くほど酔狂でもないが、必要なら引き受ける。そこが兄との違いだった。だからこそ、まだ弟でいられるうちは幸せなのに、と一瞬だけ思う。


 王家が軽さへ流れれば、次は必ずこの男のところへ重さが来る。


 それを止める方法は、もうたぶんない。


 冬が深くなる頃、王都の空気は明らかに変わった。


 先に動いたのはヴァレンシュタイン公爵家だった。表向きは静かだが、要所の兵が動き始めたという話が流れる。王都へ入る物資と出る便の速度が微妙に変わり、誰も“戦だ”とは言わないまま、面倒なことが起きているとだけ全員が理解していた。


 クラリスはその話を聞いた時、少しも驚かなかった。


 当然だ。


 娘をああいう形で扱われて、あの家が黙っているはずがない。


 むしろ遅いくらいだとすら思った。文を整え、兵を整え、逃げ道を先に塞ぎ、怒りを形にする家だ。感情のまま突っ込むような下品さはない。だからこそ怖い。


 さらに数日後、別の噂が乗った。


 隣国第一王女が動いている。


 その報せにだけは、クラリスもほんの少しだけ目を細めた。


 あの姫君か、と胸の内でだけ呟く。


 エルミナはたしかに、折に触れてその名を口にしていた。頻繁ではない。けれど、完全に心を閉ざした相手の話し方ではなかった。季節の贈り物がどうとか、文の返しが妙に律儀だとか、たまに笑いながら言っていたのを思い出す。


 なるほど、とその時やっと繋がった。


 王家が軽く扱った女を、向こうは軽く扱っていなかったのだ。


 それだけのことなのに、王都の側だけが決定的に遅れていた。


 そして、すべてが動いた夜のあと。


 謁見の間に通されたエルミナの姿を見た時、クラリスは初めて本気で腹が立った。


 少し痩せていた。頬はわずかに削げている。首筋も細くなっている。なのに、姿勢だけは崩れていない。礼を失わず、誰にも縋らず、ひどく儚く、それでいて凛としていた。


 それが余計に、王家のしたことの醜さを際立たせていた。


 しかも残酷なことに、やつれてなお、エルミナは美しかった。細くなったぶん、もともとの整い方がかえって目立つ。本人はそんなことを少しも誇ろうとしていないのに、そこにいるだけで“削っていい女ではなかった”と一目でわかってしまう。


 クラリスはその時、自分の指先が冷たくなるのを感じていた。


 怒りは熱くなるものだと思われがちだ。けれど本当に腹が立った時、人はむしろ冷える。黙って、静かに、どうにもならない種類の怒りだけが残る。


 セドリックもそれを見た。


 彼は兄のような顔はしなかった。ただ、ほんの一瞬、顎に力が入った。あれだけで十分だった。


 この件は、もう終わらない。


 そのあとエルミナは隣国へ渡り、ヴァレンシュタイン公爵家は王家への忠誠を解いた。王都が失ったのはただの婚約者ではない。国境と税と兵と、そして見えないところで王家の恥を整えていた手だった。


 そこから先、王都は露骨に悪くなった。


 表向きの数字ではなく、空気が。


 軽いものばかりが近くに残った場所は、必ずこうなる。誰もはっきりとは言わない。だが、場にいる全員が何を失ったかだけは知っている。知っていて、それを認めたくないから、余計に空気が悪くなる。


 ルシアンは、相変わらず軽かった。


 その軽さが決定的になったのは、複数の女に情報を漏らし、便宜を図った件が表へ出た時だ。


 クラリスはその報告書を一枚ずつ読んだ。


 女官、若い令嬢、商人に縁のある娘、貴族家へ出入りする相談役めいた女。どれも少し困ったような顔をし、殿下にしか頼れませんと声を細くし、袖を引き、時には涙を見せる。


 それだけで、あの男は気分よく順を漏らした。正式決定前の話を喋り、まだ動かしてはならない便宜を図り、小さな歪みをいくつも積み上げた。


 派手な売国ではない。


 だからこそ最悪だった。


 本人に裏切った自覚が薄いまま、王太子として一番してはいけない軽さだけを何度も積み重ねていたからだ。


 セドリックは長く黙っていた。兄を切りたいわけではない。だが、もう切らなければ国が持たない。


 病床の王の前へ行くと決めた時、彼は疲れた顔をしていた。クラリスは慰めなかった。そんなもので軽くなる段階ではないことを知っていたからだ。


 ただ一言だけ言った。


「兄君を嫌って直訴するのではございません」


 セドリックが顔を上げる。


「兄君に、もう国を預けられないと認めに行くのです」


 彼はしばらく黙ってから、深く息を吐いた。


「嫌な役だな」


「ええ」


「君はいつも容赦がない」


「必要だからです」


 セドリックは小さく笑った。苦い、どうしようもない笑いだった。


「そういうところ、助かるよ」


 病床の王の前で、クラリスははっきりと言った。


 これは放蕩ではございません。適性の欠如です。


 短い言葉だった。だが、あれ以上は要らなかった。優しさでは国は回らない。慰めでは王家は保てない。重いものを嫌って切り、軽いものへ流れ続けた結果が今なのだと、そこまで言えば十分だった。


 その横で王妃エレノアはなおもルシアンを庇った。優しい子なのです、少し疲れていただけなのです、と言いながら、あろうことか成長した息子の頭を胸元へ抱き込むように包んだ。


 その光景を見た瞬間、クラリスは一切の情を失った。


 終わりだ。


 兄が駄目なのではない。王家が駄目なのだ。


 王太子はもう子どもではない。国が傾き、家門が離れ、父王が病床に伏すここまで来てなお、なお抱かれて終わる男を、次の王として立てられるはずがない。


 オズワルドはそこでようやく決めた。遅かったが、決めないよりはましだった。ルシアンを王太子から外し、自分も退く、と。


 それを聞いた時、クラリスは安堵しなかった。


 ただ、当然の遅さで来た当然の裁定だと思っただけだ。


 その時、横からリディア王女が刺した。


 あの方を切った時点で、もう立て直せなかったって。


 あれは、誰も言わずに済ませたかったことを、一番雑に、一番正確に突いた言葉だった。部屋の全員が黙ったのは、その通りだったからだ。


 後日、セドリックと二人きりになった時、彼は珍しく長く息を吐いた。


「終わったな」


 何が、と問うまでもない声だった。


 クラリスは窓の外を見た。冬の終わりの光は薄い。


「いいえ」


 静かに答える。


「終わったのではなく、終わったことがようやく表へ出ただけです」


 セドリックは苦く笑う。


「厳しいな」


「甘く申し上げたところで、減るものはございません」


 彼はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。


「エルミナ嬢は、向こうでうまくやれると思うか」


 その問いに、クラリスはほんの少しだけ目を細めた。


 思う、ではない。もう、向こうのほうが正しく重さを扱っている。


「やれるでしょうね」


「そうか」


「少なくとも、軽くは扱われません」


 それを聞いて、セドリックはようやく小さく頷いた。


 クラリスはその横顔を見た。


 兄を失った男の顔ではない。王家の後始末を引き受ける側へ回った男の顔だった。


 重いものは、たぶんこれからも来る。


 王家はすぐには立ち直らない。失った家門も、失った信用も、失った女も戻らない。戻らないまま、現実だけは先へ進む。その現実の前へ立つのが、これからはこの男の役目になる。


 だからクラリスは、最後に一つだけ言った。


「お覚悟なさいませ」


 セドリックが苦笑する。


「婚約者に言われたくないな」


「だから申し上げるのです」


 彼女はまっすぐ答える。


「隣に立つ以上、軽いことは申しません」


 セドリックはそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。


「……助かるよ」


 王家は、エルミナを失った。


 隣国は、エルミナを迎えた。


 その差を、王都はこれから長く支払っていくのだろう。


 けれどクラリスは、もうそのことに未練はなかった。


 軽く扱われなかった女は、軽く扱わなかった側のところへ行った。


 ただそれだけだ。


 あまりにも、順当な結末だった。

本編を先に読んでくださった方、ありがとうございました。

今回はクラリス側から、あの夜とその後を見た短編でした。


本編では「切られた側」「迎えられた側」の流れを中心にしていたので、こちらでは逆に、王家がどう壊れていったのか、そしてそれを比較的早い段階で見抜いていた側の温度を書いています。


クラリスは感情が薄いというより、感情を曇らせずに見るタイプのつもりで書いていました。

冷たいのですが、冷たいからこそ見えているものがある女です。

セドリックとの距離感も、甘すぎず、それでいてちゃんと隣に立つ形にしたかったので、そこも出せていたら嬉しいです。


本編とあわせて楽しんでいただけたなら何よりです。

感想や反応、いつもありがとうございます。

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