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小説

あなたの全部を貰いたいのです

作者: ちりあくた
掲載日:2026/02/15

 僕はあなたのことをよく知りません。「よく」がどの程度の解像度を指すのか、まずは定義の話からしましょうか? ええ、分かっています、それじゃああまりにまどろっこしい。しかしあなたには、ある一つの疑問が残るはずです。


 なぜ僕があなたを誘拐し、ここに監禁しているのか。


 その理由はいくつかありますが、もっとも表層的で、もっとも説明のつく理由は「依頼を受けたこと」にあります。僕の普段の生業は、恥ずかしながらそういう類いのものです。名刺もなければ納税の義務も果たさない。特に今回の仕事には、やけに横幅の長い数字が報酬として提示されていたのです。


 よく知らないとは申し上げましたが、依頼をこなす以上、ターゲットの最低限の情報は耳に入れていました。あなたは国内有数のシェアを誇る半導体メーカー、その経営者の娘。それも、戸籍の隅にも載らない「隠し子」でした。この情報は二重の意味を含んでいます。一つは言わずもがな、彼の娘が人質として物理的に有効であること。もう一つは、彼に「隠し子がいる」というスキャンダルそのものが、担保として有効であることです。そちらの方が本命でしょうかね。


 つまりあなたは二重に値札をつけられている。一つは血縁という物理的な鎖。もう一つは、秘密という見えない鎖。どちらも切れ味がよく、扱いを誤れば持ち主の手をも傷つけてしまいます。


 しかしながら、僕が地下室であなたと向かい合った理由は、金額の桁数だけでは説明がつかないのです。依頼書に添えられていたのは、あなたの履歴書めいた紙切れと、いくつかの写真でした。カフェテラスで友人を待っているもの、大学の講義室で伏し目がちにノートを取っているもの。雨上がりの街角で、水たまりを避けるために軽快に跳ねていたもの。どれもよく撮れている。けれど、どれもあなたではない気がした。


 僕は、あなたのことをよく知らない。


「よく」という言葉をあえて使いましょう。名前、生年月日、血液型、大学での専攻、好きな食べ物。そんなものは、金さえ払えばいくらでも手に入る、デジタルな記号の羅列です。しかしあなたが、ふと夜にどんな匂いを思い出し、理由もなく涙をこらえるのか。雨の日に、窓を叩く音のどこに怯えるのか。あるいは「父親」という言葉を耳にしたとき、胸のどのあたりが軋み、どんな風に呼吸が浅くなるのか。そういうことは、どんなに高解像度の写真にも、調査報告書にも書かれていなかった。


 だから僕は、あなたをここに連れてきたんです。


 誘拐という形式をとったのは職業上の都合です。あなたにとっては災難だったでしょう。けれど僕にとっては、あなたの全部を貰うための、最も確実な方法でした。


 監禁して一日目。あなたは一言も発しませんでした。僕が運んできた食事――近所のコンビニで買った、味の薄いサンドイッチとミネラルウォーターには一切手を触れず、ただ壁の隅で膝を抱えていました。


 僕は部屋の隅に置いた椅子に座り、ただあなたを眺めていました。怯えさせないよう、けれど逃げ出さないよう、適切な距離を保って。


 あなたの瞳は僕を映していませんでした。そこにあるのは深い拒絶ではなく、もっと根源的な諦念のように見えました。自分の身に何が起きても、それは自分のせいではないし、自分にはどうすることもできない。そんな、長く透明な檻の中に閉じ込められてきた人間特有の視線です。


 二日目の夜。あなたは初めて水を口にしました。一口、喉を鳴らして飲み込んだあと、あなたは僕を見て、小さく震える声で言いました。


「……殺すなら、早くして」


 その声は、悲鳴ではなく願望のように聞こえました。僕は答えず、新しいペットボトルのキャップを開けて、あなたの枕元に置きました。


 そして三日目の夜。換気扇の回る単調な音だけが響く部屋で、あなたはようやく、僕の存在を影以外として認識したようでした。


「……あなたは……何を欲しがってるの」


 あなたがようやく口を開いたのは、日付が変わる少し前でした。窓のない部屋で、時間の感覚を奪われたあなたは、言葉の選び方まで慎重になっていた。隠し子という立場ゆえ、常に周囲の顔色を窺い、正解だけを探して生きてきたのでしょう。賢い人ですね。そしてあまりに窮屈な生き方だ。


「あなたの全部です」


 僕は淡々と答えました。

 怯えさせないように。あるいは、怯えを正確に測るために。


「身体ではありませんよ。そんな安いものではない。あなたがこれまで積み重ねてきた、怒りや諦めや、どうにもならなかった午後の記憶。そういうものを、僕は欲しい」


 あなたはしばらく黙り込んでいました。壁に背を預け、膝を抱え、目を伏せる。その仕草の中に、幼い子供のような無防備さと、老成した疲労が同居している。かわいそうだと思う前に、僕は自分の目が、あなたの呼吸の揺れに惹きつけられていることに気づきました。


「どうしてそんなものを」


 その問いは至極もっともでした。


「僕は、空っぽだからです」


 思ったよりも簡単に、言葉は出てきました。空っぽであることは、ずっと昔から自覚していました。依頼を受け、標的を調べ、淡々と遂行する。そこに僕自身はほとんど存在しない。報酬は増えていくが、内側は削れていくばかりです。そもそも内側なんてあるのでしょうか? 最近は私自身が「悪」という概念になったような気もしてきました。


「あなたの父親は、あなたを存在しないものとして扱ってきた。戸籍の外に置き、会食の席には呼ばず、誕生日を祝うこともなかった」


 僕は資料で知った事実を並べます。言葉を刃にして、あなたの防壁を削るように。


「でもあなたは、それでも彼を完全には憎みきれない。そうでしょう?」


 あなたの肩がわずかに震えました。図星、というやつです。


「その中途半端な感情こそが、僕の欲しいものです。割り切れない怒り、捨てきれない期待。そういう矛盾を僕は持っていない。だから、あなたから貰いたいのです」


「……なんで」


「僕は孤児として殺し屋の男に拾われ、飼われていました。そうして十二歳の春、彼自身にかかった懸賞金を目当てに、僕は彼を背後から殺したのです。引き金を引いた後には、不思議なほど何の感情も残りませんでした。悲しみも、高揚も、ましてや後悔も。ただ目の前の肉塊が、以前よりも少し重くなった。それだけだった」


 部屋に沈黙が落ちました。重たいが、嫌いではない沈黙です。


「……でも、そんなの、渡せるわけないでしょう」


 あなたは言いました。声は震えていましたが、芯は折れていない。


「それは、私のだもん」


 その瞬間、僕は初めて、あなたを「よく」見た気がしました。写真の中の被写体でもなく、値札のついた資料でもなく、ただそこに在る一人の人間として。


「……そうですね」


 僕は笑ってしまいました。滑稽だったのです。全部を貰う、などと豪語しておきながら、相手の所有権という最低条件にすら気づいていなかった自分が。あなたの感情を単なる「パーツ」か何かのように勘違いしていたのです。


「あなたの全部は、あなたのものだ」


 当たり前のことが、妙に新鮮でした。


 ふと、定期連絡用の端末が点滅して着信を知らせています。依頼主からでしょう。気づけば、進捗を報告し、身代金の要求、あるいは「処分」の指示を仰ぐ時間でした。明日の夜までに、あなたの父親へ、あなたが確保されていることを示す何らかの証拠――おそらくは切断された指や、音声データ――を送る手筈になっている。


 けれど僕は、通信端末を机の上に伏せました。


「一緒に逃げますか」


 唐突に言うと、あなたは目を見開きました。それが今日見た中で一番人間らしい顔でした。


「……え?」


「あなたを解放する代わりに、一つだけお願いがあります」


 僕はできるだけ丁寧に言葉を選びます。


「あなたの物語を聞かせてください。ここを出てからもたまにでいい。あなたが何を見て、何に腹を立て、何に救われたのか。それを僕に教えてほしい」


「……なんのために」


「先程も言ったでしょう。あなたの全部を貰いたいのです」


「えっと、その…………好き、なんですか。私のこと」


 僕は一瞬、吹き出しそうになりました。あまりに俗っぽい単語が飛び出したものですから。


 しかし、目の前のあなたの瞳が、怒りでも悲しみでもなく、ただ問いかけるように揺れている。その揺れに当てられて、僕の胸の奥が、熱い鉄を流し込まれたように痺れました。


「……ええ、そうかもしれません」


 僕の声は、どこか遠くに響くように震えていました。「好き」という感情は確かにある。しかし、それは従来の意味での恋愛感情ではなく、もっと複雑で、もどかしく、独り占めしたいという欲求に近いものです。あなたの声、表情、沈黙。その全てが、知らず知らずのうちに、僕の空っぽの内側に入り込んでいるのを感じていました。


 あなたは微かに眉をひそめ、でも口元はわずかに緩んでいました。恐怖や怒りに支配されず、自分の感情を確かめるように、静かに僕を見ている。


「好き……かもしれませんね」


 言い切れない、完全には掌握できないその感情を、僕はあえて口にしました。声に出すことで、初めて自分でもその存在を認めたのです。


 あなたはしばらく僕を見つめ、それから小さく息を吐きました。


「ずいぶん、回りくどくて……変な人」


「職業病です」


 皮肉が交わせる程度には、空気は和らいでいました。僕はあなたの手首のロープを解きました。擦れた肌が赤くなっているのを見て、胸がちくりと痛みました。


「廊下の先には非常口があります。監視カメラの死角はすでに把握済みです。仕事柄、逃走経路の確保だけは抜かりがないので、安心してください」


「あなたはどうなるの?」


「僕は失敗した犯人になります」


「……殺されるかもしれないんでしょ?」


「そのときは、そのときです」


 本心でした。空っぽのまま生き延びるより、何かを選んで終わる方が、少しはマシに思えました。最近はすっかり擦り切れていたものですから、使い終わりの古びたギターで、激しいメタルを奏でてやろうと思ったのです。


 あなたは立ち上がり、ふらつきながらも自分の足で歩き出しました。ドアの前で立ち止まり、振り返る。


「そういえば、名前はなんていうの」


 僕は苦笑しました。


「ありません」


 正確にはいくつかありますが、本当のものはもう思い出せない。

 あなたは少し首を傾けて考えてから、いたずらっぽく、けれど優しく言いました。


「じゃあ、『空っぽさん』とでも呼びましょうか」


「ひどいあだ名だ」


「ないよりはずっといいでしょ?」


 あなたは僕の手を迷いなく取りました。冷え切った僕の手とは対照的な、生きている人間の熱が、皮膚を通じて内側へ流れ込んできます。


「……行きましょう、空っぽさん」


 部屋に残されたのは、役目を終えて床に転がるロープと、破壊された端末だけです。僕らは地下室の重い鉄扉を開け、湿った夜の中へと踏み出しました。背後で扉が閉まる音。それが、僕が始まるための産声のように響きました。


 僕は端末を手に取って電源を切りました。依頼は未遂、報酬は無し。もしかすると、いえ、おおよそ追手が来るでしょう。


 まあ……大した問題ではありません。

 僕は初めて、何も奪わずに誰かと向き合ったのですから。


 あなたの全部を貰うことはできませんでした。

 けれど空っぽの容器に、一つだけ音が落ちた。


 それが始まりであると信じることにします。

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