第九話「鴉天狗の娘と浅葱の誓い」
第八話「紅の残響」の直後。
浅葱は、封印された天狗・ハクロの娘“鴉羽”と出会います。
だが、再び姿を現した夕狩先輩は“怒りの化身”となり、弟子である浅葱に刃を向ける――。
愛と憎しみ、そして師弟の断絶。
本話では「繋がりの終わり」と「新しい誓いの始まり」が描かれます。
一 風哭く夜に
紅い森が、再びざわめいていた。
封舞から数日。沈黙の森の結界はまだ消えておらず、
その奥には、浅葱ただ一人が残されていた。
かつて先輩・夕狩と共に立った舞台――
そこに、もう彼の姿はない。
紅の残響は風に散り、羽根のような光が木々の枝に残るだけ。
浅葱は扇を閉じ、ひとり膝をついた。
「先輩……俺は、あなたの道を継ぐつもりでした。
でも……本当に、それでよかったのか……」
答えはない。
ただ、風が吹いた。
その風の中に、かすかに“囀り”が混じる。
――「……アサギ……?」
声がした。
それは、確かに“あの声”ではなかった。
もっと柔らかく、悲しみに濡れた、女の声だった。
浅葱が顔を上げると、そこに一人の少女が立っていた。
黒羽に包まれ、瞳は金色。
その顔立ちは、どこか――夕狩に似ていた。
「あなたは……誰だ?」
「私は、ハクロの娘。名を**鴉羽**と申します」
少女は静かに頭を下げた。
その仕草は、まるで人間の娘のように穏やかで礼儀正しい。
「父は、あなたたちに封じられました。……けれど、私は恨んでいません。
むしろ、あなたに会いに来たのです。父の残した“約定”を果たすために」
「約定?」
「はい。父と、あなたの先輩・夕狩との間に交わされた“灰の契約”。
――『次代が生まれたなら、互いの血を交わし、争いを終わらせる』というものです」
浅葱の目が見開かれた。
あの戦いには、そんな誓いがあったのか。
先輩がそれを黙っていた理由が、いま少しずつ見えてくる。
「じゃあ、あなたは……俺に何を望む?」
「あなたの“光”を、分けてほしいのです。
天狗に取り残された我らの民に、人の“舞”の光を……」
彼女の言葉は、祈りにも似ていた。
浅葱は静かに扇を取り出し、風にかざす。
その扇に宿るのは、夕狩が残した紅の紋。
彼はゆっくりと頷いた。
「……わかった。俺はあなたの願いを叶える。
それが、先輩との誓いでもあるなら」
だが――その瞬間、空が裂けた。
⸻
二 紅蓮の怒り
風が吹き荒れる。
月を覆う黒雲の中から、ひとすじの紅光が落ちた。
それは――夕狩の姿だった。
しかし、かつての優しさは微塵もない。
紅い衣が裂け、黒羽が混じっている。
彼の顔には、怒りと苦痛が刻まれていた。
「浅葱……なぜだ……なぜ“鴉の娘”と契る?」
「せ、先輩……! あなた、生きて――」
「俺はもう“人”じゃない。封舞の代償で、天狗の血に呑まれた。
お前がその娘と交われば……この森の均衡が崩れる!」
怒号が轟き、木々が揺れた。
夕狩の背から紅黒の羽根が広がり、鴉の如き影が森を覆う。
「浅葱、君は俺の弟子で、俺の光だった。
なのに……どうして、よりにもよって“鴉天狗の血”を継ぐ娘と!」
「違います! 彼女は争いを終わらせるために来たんです!
あなたとハクロの約定を――!」
「そんな誓いは、もう意味をなさない!」
夕狩の声が、痛烈に響く。
その瞳に宿るのは、哀しみと怒りと……嫉妬。
「君はいつだって俺を追っていた。
けれど今、俺のいないところで“別の者”と誓うのか」
浅葱の胸に痛みが走った。
それは言葉よりも鋭く、心臓を抉る刃だった。
「……俺は、あなたを尊敬していました。愛していました。
でも――それでも、前に進まなきゃいけないんです。
あなたが教えてくれた“舞”は、守るためのものだから!」
「ならば、俺の怒りを止めてみろ!」
夕狩が扇を構えた。
紅の羽風が巻き起こり、森を薙ぎ払う。
浅葱もまた、扇を掲げる。
「先輩……俺たちは、もう同じ道を歩けないのか」
「……そうだ。ここで終わらせよう。
紅と灰、二つの光は並び立たぬ」
⸻
三 断絶の舞
夜空の下、二つの影が舞う。
扇が交わるたび、火花が散る。
それは戦いであり、同時に“舞”でもあった。
浅葱の舞は澄んだ水のように静かで、
夕狩の舞は燃える焔のように激しい。
「“残響の段”――!」
夕狩が紅い扇を開く。
その瞬間、浅葱が低く足を運び、扇を重ねて受け止める。
二人の間に生まれた風が、森を裂くほどの衝撃を放った。
鴉羽は叫んだ。「やめてください! 二人とも、そんな戦いは望んでない!」
だが、二人の耳には届かない。
これは、師と弟子の最後の“稽古”でもあった。
そして――浅葱の扇が、紅を裂いた。
「……先輩、ごめんなさい」
夕狩の身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
その目に宿るのは、怒りではなく、静かな微笑み。
「君は、俺を超えたな。……それでいい」
「先輩……!」
「鴉羽を守れ。俺の怒りを、君が鎮めてくれ。
それが――最後の、“誓い”だ」
紅い羽が風に舞い、消えた。
その夜、沈黙の森の紅光は完全に消え、ただ灰の香だけが残った。
⸻
四 灰の誓い
朝。
鴉羽は浅葱の手に、自らの羽根を差し出した。
「これが、“灰の契約”の証。
父とあなたの先輩、そしてあなたの三人で結ばれた運命。
私は、それを受け継ぎます」
浅葱は羽根を受け取り、静かに頷く。
その瞳には、涙と決意が混じっていた。
「先輩……あなたの怒りも悲しみも、全部俺が抱えていきます。
でも、もう二度と同じ過ちを繰り返しません。
――俺は、鴉天狗の娘と共に進む」
鴉羽の瞳が、わずかに輝いた。
それは、紅ではなく、朝の金色だった。
そして二人は並んで森を出た。
その背後で、風が囁く。
――「浅葱、君が選んだ道を、信じよう」
それは、紅の残響の最後の言葉だった。
浅葱にとって、夕狩先輩は永遠の存在でした。
その“怒り”は愛ゆえのもの。
浅葱が新たに鴉羽と誓いを結ぶことは、
「過去を断ち、未来を創る」という彼自身の成長の証でもあります。
次回、第十話「暁の翼 ― 光と影の果てに ―」
鴉羽と浅葱が向かう先で待つのは、天狗族最後の試練。
紅と灰を超え、彼らは“新しい空”へ――。




