第七話「灰の契約 ― 月下に立つ二人 ―」
鴉天狗の修行、それは人の限界を超えるための通過儀礼。
この章では、アサギが“灰の契約”を通して己の弱さと向き合い、
「守る」という言葉の真意を見つける物語が描かれます。
師である黒羽との邂逅は、ただの修行ではなく――魂の洗礼。
――鴉天狗の修行
夜は凍てつくように静かだった。
風が吹けば葉が鳴る。だが、それは囁きのようで、どこか神聖な祈りに似ていた。
山奥――“沈黙の森”のさらに奥、白い霧に覆われた聖域。
古の伝承では、ここに千羽の鴉が夜ごと舞い、月を護るといわれている。
人の足で踏み入ることは許されぬ場所。
だが今宵、ひとりの少年がその結界を越えた。
アサギ。
風の契約者として選ばれし“未熟な人間”。
彼の肩に、まだ風は宿っていなかった。
むしろ、風に試されていた。
「――来たか」
霧を裂くような声が響く。
岩の上に立っていたのは、黒羽の長衣をまとった影。
漆黒の翼を持つ異形の男。
彼の名は黒羽。鴉天狗の長であり、森を統べる古き者。
「お前が“人”か。……ずいぶんと脆そうだ。」
黒羽の赤い瞳が、冷たく光った。
アサギは唇を噛みしめ、息を吸う。
「はい。けれど、僕は逃げません。」
「ほう……逃げぬ、と?」
黒羽はわずかに笑い、翼を広げた。
夜空に散る羽音が、まるで鐘の音のように響く。
それは儀式の始まりを告げる合図。
「ならば、問う。
――お前にとって、“力”とは何だ?」
アサギは息を呑んだ。
言葉を探す間もなく、黒羽が飛ぶ。
その速さは風そのもの。
黒い影が一瞬で彼の目前に迫り、翼が刃のように振るわれた。
「ぐっ――!」
受け止める暇もなく、アサギの木刀が砕けた。
次の瞬間、彼の身体が吹き飛び、岩肌を転げ落ちる。
背中が焼けるように痛む。
それでも、彼は立ち上がった。
「なぜ立つ?」
黒羽の声が重く響く。
「なぜ、弱き者が抗う?」
アサギは血を吐きながら答えた。
「僕は……守りたい人がいるからです。」
「守る? お前のような小僧が?」
「――先輩を。」
その言葉に、黒羽の動きが一瞬止まった。
アサギはその隙を逃さず、両腕を広げて叫ぶ。
「僕は、あの人をもう一度救いたい!
あの夜、何もできなかった自分を……許せないんです!」
叫びは風を震わせ、森の霧を払いのけた。
黒羽の瞳が細まる。
「……良い。“灰”の意味を知る資格は、あるやもしれぬ。」
黒羽が手を掲げた。
その瞬間、夜空が裂け、千の鴉が降り注いだ。
鴉たちは一斉に鳴き声を上げ、炎のような羽光を放つ。
森が赤黒く染まり、地面が震える。
「これが“灰の契約”――死と再生の儀だ。」
アサギの周囲の地が燃え上がる。
熱が皮膚を裂き、呼吸を奪う。
それでも、彼は逃げなかった。
燃え盛る炎の中で、心の底にある声が聞こえた。
――アサギ。お前は誰だ?
――何を捨て、何を選ぶ?
炎の中、彼は幻を見る。
過去の自分。
臆病で、何も守れず、ただ背中を見送るだけだった少年。
「僕は……」
拳を握る。
「もう、逃げない。」
その瞬間、炎が渦を巻き、風が吹き荒れた。
灰が舞い上がり、光の粒となってアサギの身体を包み込む。
風が形を成し、彼の背に蒼の羽を生やした。
黒羽が見上げる。
その瞳に、一瞬だけ驚きが走った。
「……人の身で、“風の羽”を……!」
アサギの声が静かに響く。
「師よ。僕は、人であり、風でもある。
灰の中で見つけたんです――“生きたい理由”を。」
黒羽はゆっくりと翼を閉じた。
「……よかろう。契約は成った。
アサギ、これよりお前は“風の継ぎ子”だ。」
燃えた森は静まり、夜が戻る。
鴉たちは空へ舞い上がり、月を取り囲むように円を描いた。
その中で、アサギは月光に照らされ、膝をついた。
疲れ切った身体の中で、確かに風が生きていた。
――先輩。
あの人の声が、遠い記憶の中で響く。
『怖がりな君の風は、きっと誰かを救う日が来る。』
アサギは目を閉じ、微笑んだ。
「……はい、先輩。僕は、あなたの願いを継ぎます。」
風が彼の髪を撫で、森の奥へと流れていった。
月が静かに輝く中、
アサギは新たな一歩を踏み出す。
“灰”を越え、“風”となる者として――
アサギが灰の中で覚醒し、「風の継ぎ子」となりました。
しかし、これは旅の始まりにすぎません。
次回、第八話「紅の残響 ― 先輩、再び ―」では、
アサギが再び“先輩”と対峙します。
それは師弟の絆か、あるいは運命の決裂か――。
風は灰を払い、灰は新たな命を生む。
物語は、月下から黎明へと進んでいきます。




