5.相談所の面談
燃えていた。
夜の闇を裂くように、画布の束が次々と炎に呑まれていく。
積み上げられたキャンバスは崩れ落ち、赤と黒の火の粉を散らしては、空気を焦がす音を立てた。
女は、その前に立ち尽くしていた。
燃え盛るのは――かつて彼女の誇りであり、名声をもたらした英雄の肖像画。
掲げられた剣、突き進む兵士、勝利の女神に祝福される若者たち。
そのどれもが彼女の筆によって描かれ、人々を熱狂へと駆り立てた。
「……こんなもののために……!」
かすれた声は、震えていた。
怒りか、憎しみか、自分への呪詛か。
彼女の指は無意識に震え、爪が掌に食い込む。
――最初は信じていた。
国のため、人々のために。
「君の絵は素晴らしい!」「この絵は国を勝利へと導く旗柱となる!」
称賛の声は甘美だった。
兵士たちは彼女の絵を前にして拳を突き上げ、戦場へと駆け出していった。
その熱狂の中に、最愛の人もいた。
褐色の瞳を輝かせ、彼女の描いた理想の英雄と重なるように笑って。
だが――帰っては来なかった。
泥と血に沈み、名もなく戦場に散った。
そのとき女は悟った。
己が描いたのは勇気などではない。
人を駆り立てるための虚像。
多くの命を飲み込んだ、残酷な幻影。
胸の奥に、空洞のような絶望が広がる。
涙はもう出ない。
ただ喉の奥から獣のような叫びがこみ上げ、燃えさかる絵へと叩きつけられた。
「おおおおおおっ……!!!」
画布は裂かれ、油絵具は爆ぜ、煙と灰とが夜空へ舞う。
その光景はまるで、己の罪を天へ曝しているかのようだった。
だが――彼女は筆を折らなかった。
折ってしまえば、自分は本当に死ぬ。
ならば描くのだ。
過去を否定し、過去を焼き尽くし――それでも筆で生きる。
女は背を向けた。
燃えるアトリエを後にし、二度と振り返らなかった。
そして国を出た。
罪と絶望と共に。
※
ソーニャと出会ってから約3ヶ月後。
王都の一等地にオフィスを構える結婚相談所の小部屋にて、ケンジは定期的な仲人との面談を行なっていた。
休日の殆どはお見合いに時間を費やし、もはやほぼ仕事のようなルーティンである。
机の上には、これまでケンジが会った女性たちのプロフィールが山のように積み上げられていた。
その数――およ100。
「……はぁ」
ケンジは書類の山を睨みつけ、深々とため息をついた。
目の下には薄い隈。背筋は伸びているのに、顔はどこか疲れ切っている。
仲人はそんな彼を気遣うように微笑んだ。
100人とお見合いをしたが、これまで本格的に交際へと進みたいと思えるような女性はおらず、ケンジの婚活は早くも暗礁に乗り上げていた。
いや、迷走…か?
「ケンジ様、ちょっと条件を仕切り直しましょう。これ以上はお体にも悪いですよ」
「……そうですね」
ケンジは小さく頷き、眉間を揉んだ。
そして、頭の片隅に浮かんだ“誰か”を必死に追い払うように、真面目な声で言い切った。
「とりあえず、三日に一度はお風呂に入って欲しいのと、怒ったらナイフで刺そうとしないで欲しいです」
「…………」
仲人は口を開けたまま固まった。
三拍の沈黙ののち、深いため息とともに声を絞り出す。
「ケンジ様……それは、人として最低限のボーダーです」
ケンジは机に肘をつき、額を押さえた。
(……俺は、何を言ってるんだ)
本来なら「優しい人」「価値観が合う人」――そういう条件を語るべき場なのに。
気がつけば、彼の基準はすっかり狂っていた。
三十八歳、独身。堅物参謀。
今や結婚相談所でさえ、彼の条件は常識から外れ始めていた。
※
仲人は小さく咳払いをし、柔らかく促した。
「では……次は、もっと“普通の”条件を考えてみましょうか」
ケンジはしばし考え込み、言葉を選びながら口を開いた。
「できれば……結婚後も働いて欲しいです。あまりにも俺の年収を頼りにされると……」
仲人が首を傾げる。
「それは……養うのがプレッシャーとなる、ということでしょうか?」
「いえ」
ケンジはすぐに首を振った。
「そういうのは無いです。なんと表現したら良いんでしょうか……」
机に置いた指先を軽く組み、参謀らしい落ち着いた声で続ける。
「相手の方の“軸”というか……俺と結婚しなくても生きていける職や生きがいを持っていて、独立してくれてる方がいいんです。全部寄りかかられると……不健康な関係になる気がします」
その言葉に、仲人は目を丸くしたあと、深く頷いた。
「……なるほど。とても誠実で、的を射たご意見ですね」
ケンジは眉を下げてから笑いした。
「ありがとうございます……でも、なかなかそういう方とは巡り会えなくて」
疲れ切った顔には隈が浮かんでいるのに、語る言葉だけは理路整然としていた。
仲人は少し間を置き、真剣な顔で提案した。
「あとは……最終手段として、一度“年収を偽ってみる”というのはどうでしょうか」
「……え?」
ケンジは目を瞬かせ、思わず声を上げた。
仲人は淡々と続ける。
「平均的な額として載せて、今までの市場とは違う形でお相手を探すんです。
実際にハイクラスの方は、時々そうなさってますよ。本交際に進み、“この人こそ理想の結婚相手だ”と確信した時点で、ようやく本当の額を明かす。名付けて――シンデレラ作戦です!」
「そ、そんなことできるんですか!?」
ケンジは思わず身を乗り出した。
参謀として数多の戦術を組んできた男が、まさか結婚相談所で“作戦”という言葉を耳にするとは思わなかった。
仲人はにっこりと笑った。
「はい。決して不正ではありませんし、むしろ本質を見極めるための工夫です」
ケンジは顎に手を当て、真剣に考え込む。
(……作戦名はともかく……なんだか希望が湧いてきた……!)
「ただ……」
仲人は急に声のトーンを落とした。
「決して誤解しては頂きたくないのですが……」
丁寧な前置きのあと、彼女は静かに言葉を継いだ。
「ケンジ様を、東洋人――つまり異邦人として、結婚の理想相手から外す方が、今後さらに顕著になる可能性があります。
年収の高さゆえ、皆様そこにはこだわらないというスタンスを取られていましたが……。
“この国の方ではない”“国際結婚で苦労したくない”と考える方が、少なくないのです」
※
相談所を後にしたケンジは、人でごった返す王都の大通りを歩いていた。
休日の歩行者天国、カフェのテラス席はどこも満席。
華やかな笑い声が響き、漂う甘い菓子の匂いに、独り身の胸はいや増すばかり。
先ほどの仲人の声が頭の中で何度も繰り返される。
(……異邦人か。今さら、そんなこと……)
仲人の言葉が頭をよぎる。
恵まれた職場にいる間は意識しなかった。
だが、ここに来て突きつけられた「外側」の現実。
冷たい石のように胸の底へ沈んでいく。
イーゴリは昔から一度も、そのような言葉を吐いたことがない。
ただ仕事で評価し、ただ実力で応える。
その繰り返しで築かれた十八年。
差別も軽視も、影すらなかった。
だからこそ、ケンジも全力で恩に報い、参謀としての才覚を振るってこられたのだ。
猛獣のような団長の隣に立ち続けられたのも、その信頼関係があったから。
――なのに。
今になって、こんな場所で。
結婚相談所という穏やかな場で。
初めて突きつけられた現実。
(……俺は、異邦人なのか)
雑踏の中で立ち止まったケンジは、人々の笑い声にかき消されるように、ひとり小さく息を吐いた。
その時だった。
通りの先。カフェのテラス。
鮮やかな金髪が風に舞い、目を引いた。
向かい合って座るのは、さわやかなブラネットの髪の若い男。
彫刻のような顔立ち、整った物腰。
街ゆく人も思わず振り返る、美男美女の組み合わせだった。
(……ソーニャ?)