3.運命の相手??
森の奥へ続く荒れた小道を抜けると、半ば崩れかけた一軒家が現れた。
壁は崩れ、屋根は苔に覆われ、煙突からは煙ひとつ上がらない。
ケンジは冷や汗を拭いながら門前に立ち、
(……こんな廃墟に本当に画家が住んでるのか? いや、ここ、人死んでてもおかしくないだろ……)
と心の中で毒づいた。
――そして、殺されかけてから三十分。
命からがらの交渉を終えたケンジの腕には、うず高く無造作に重ねられた小さなキャンバスの束が抱えられていた。
小さいくせにずしりと重く、そのたびに埃が舞い上がる。
灰色の塵が彼の濃緑の書記官制服に降りかかり、ケンジはひぃぃぃーっと声にならない悲鳴をあげた。
(うわああああ! チリがっ! チリがついたぁぁ!! 今すぐ風呂入りてぇぇ!!)
だが、画家はそんな様子を一切気にせず、青い瞳をきらきらさせて言った。
「肖像画って言ってもいろんな描き方があらな。このあたりのを持ち帰って、どんなイメージにするか検討してくれ!」
ケンジは引きつった顔で束を抱え直し、内心で泣きながら絵をめくった。
(す……すごい絵ばかりだけど……俺、普段絵なんて見ないから全っ然わからん!!)
すると画家が、嬉々として一枚を指さした。
「見ろ! あれが今依頼されてる貴族の娘の見合い画だ!」
半信半疑で覗き込むケンジ。
そこには、金髪の美しい十代の姫が描かれていた。
油絵なのに、白い肌は血が流れているように温かみを帯び、背中に流れる金の波打つ髪は光を宿して揺れていた。
まるで少女自身が息づき、今にも声を発しそうなほどの迫真。
ケンジは思わず息を呑んだ。
(……すごい。これは……本物だ)
芸術など縁のない人生を送ってきた男でも、この一枚が紛れもない傑作だと分かった。
殺されかけた三十分後だというのに、彼は心の底から感心してしまったのである。
ふと視線を落としたケンジの目に、床へ無造作に散らばったスケッチの束が映った。
その一枚を拾い上げた瞬間――頬が熱を帯びる。
(……っ!! なんか、やばいもん見た!!)
描かれていたのは男の絵。
どれも同じ人物らしく、褐色の瞳は濃い色で塗られ、半裸の姿でこちらを見据えている。
紅潮した頬。熱に浮かされたような眼差し。
画家に好意を注ぎ込むような視線が、紙越しに突き刺さってきた。
さらに別の紙には、男女の閨を思わせる構図。
角度を変え、体の線を丁寧に描き分ける筆致はあまりに巧みで、まるで目の前に裸の男が立っている錯覚すら覚える。
38歳。恋愛経験もそれなりに積んだはずのケンジだったが、これは刺激が強すぎた。
思わず顔をそむけた瞬間――画家が気づいた。
「ああ、これ。資料だ、資料」
にっこり笑いながら言い放つ。
ケンジは慌てて咳払いをしてごまかした。
「す……すごいですね。こんなのも、サラッと描けるんですか……」
画家は悪びれるどころか、得意げに青い瞳を細めた。
「いい男だったぞ! ちょっと性癖が特殊だったけど!!」
堂々たる調子。
ケンジの背筋に冷たい汗が伝った。
(……こいつ……団長…イーゴリと…同じ匂いがする……!!)
恐怖と動揺で青ざめるケンジの耳に、さらに追い打ちがかかる。
「ここに勝手に住み着いてな。働かないくせに、あっちの方は上手い!」
――なんの遠慮もない暴露。
ケンジは絶叫した。
「聞いてないですっっ!!! ヒモ!? え、何の自慢なんですかぁぁぁーーー!!」
気づけば涙目で怒鳴り散らし、画家はけらけらと豪快に笑っていた。
画家はふとケンジをまじまじと見つめた。
青い瞳がきらきらと輝き、思わず息を呑むほど顔を近づけてくる。
「……東洋人は初めて見た! 綺麗な黒髪と瞳だ!」
吐息がかかる距離。
ケンジは椅子ごとひっくり返りそうになりながら、心臓を跳ね上がらせた。
(ち、近いっ!! ていうか、この美人、自覚ないのか!?)
不意に胸の奥がドキリと熱を帯びる。
だが、次に放たれた言葉は――。
「下の毛も黒いのか?」
ケンジは絶叫した。
「脱がさないでください!!! 帰ります!!!!」
慌てふためき立ち上がるケンジを、画家はけらけらと笑いながら見送った。
こうして38歳独身参謀の「地獄の初対面」は幕を閉じたのであった。
※
イーゴリの執務室。
昼の光が差し込む中、ケンジはため息をつきながら報告を終えた。
「――というわけで、あの画家。
家がゴミ屋敷で汚くて、怒りっぽくて殺されかけましたし、ほこりが入ってそうな紅茶をもらいました。
あと性格が破綻していてすぐに切れて殺そうとしてくるので、会話がかなり難しいです。
……ただ、絵画の腕は確かでした。
山のように絵がうず高く積み上げられていて。
整理整頓は下手なようで、めまいがしましたね。
……で、金髪の美人でした。残念です」
机に両肘をつき、ケンジは心底疲れた顔で吐き出した。
まるで長年の宿敵を語るかのような熱量に、イーゴリは目を細めて聞き入っていた。
やがて、にやりと口角を吊り上げる。
「お前に似合いそうだな」
「バカにしてますか!?なんでっ、あんなやばい女っ!!!」
机を叩いて絶叫するケンジ。だがイーゴリは、からかうような金色の瞳でじっと彼を見ていた。
ケンジがこれほど細かく女の話をするのは珍しい。
しかも「残念です」と言いながら、美人であることを強調していた。
(……始まってんな)
野生の勘が告げていた。
――これは、ケンジにとってただのトラブルではない。
厄介で、やかましくて、命がけで関わるような……そんな女こそ、あいつの伴侶になる。
イーゴリは確信し、豪快に笑った。
「いいじゃねぇか!殺されかけるくらいで丁度いい!」
「あ、仕事たまってるんで失礼します。いっぺん死ねクズ」
最後に暴言を吐くとイーゴリが怒って追いかけてきたが、無視して廊下を全速力で逃げた。
舐めてもらっては困る。
こちらは20年近くイーゴリという猛獣を取り扱ってきたのだ。
ーーーやばい女と察知し、絶対に恋などには発展しない!!
ケンジは吠えて、今日の仕事へ向かった。
(仕事に生きる!)
いつからか、独身としての美学はそこになっていた。
※
画家と出会い数日が経ち、恐ろしい経験も少し忘れて来た頃であった。
第二騎士団の書記官専門の執務室。
昼下がり、慌ただしく報告書を束ねていたケンジのもとへ、若い書記官が小走りでやって来た。
ケンジは視力が落ちてきたせいで最近かけ始めたメガネを直し、声をかけてきた部下に視線を移した。
「なんだ?」
「ケンジ様。本日、イーゴリ様にお会いしたいと……その……ソーニャ・ルビナという方が訪ねてこられました。いかがいたしましょうか?」
「……は?」
ケンジは目を瞬かせ、ペンを止めた。
(誰だそれ。知らん……ぞ?)
「アポなし……?非常識な…」
眉間を揉み、ため息をついた瞬間――
「ケンジじゃないか!」
快活な声が響き、執務室の扉が勢いよく開いた。
現れたのは、金の髪を後ろでざっくりまとめ、飾り気のないシャツとズボンに身を包んだ女。
凛とした美貌は一目で人目を引いたが――なぜか顔に白い仮面をつけている。
「……おいっ!?」
ケンジが、顔を引きつらせ苛立ちで吠えた。
「ここでも仮面かーーー!?どうなってんだ!?お前の常識!?」
「いや、ちょっと前まで塗料をかき混ぜてたんだよ。危険だったからな!」
仮面の奥から豪快に笑う彼女。
まるでそれが当然だと言わんばかりの態度に、執務室の書記官たちがざわざわと囁き合う。
ケンジはこめかみに青筋を浮かべ、天を仰いだ。
(……この人、マジで来やがった……!なんでアポも取らずにっ!しかも仮面つけて……!職場だぞここはぁぁぁーー!!)
首根っこを掴んで、このまま外へ放り投げてやろうか。
ケンジは完全に画家のソーニャを危険人物と認識し、普段の敬語口調など忘れ「うがーーー!」と威嚇した。
本能で関わりを拒否している。
「メガネだ!」
突然指をさされ、笑顔のソーニャがケンジの顔をつかみ近くまで寄ってきた。
必要以上の近さと、悔しいくらいの綺麗な顔が目の前に迫り、青ざめて悲鳴が上がった。
先ほどから、本能で逃げろと警告音が頭の中で鳴り響いていて止まらない。
「や…やめろおおおおおおーーーっ!!!」
「メガネ姿も色気があっていいじゃないか!!ますます描きたくなった!どんな時に付けるんだ!?このフレームを黒にした意味は!?」
「意味なんかない…ないっです!!何をしに来たんですかっ!?あなたは!?」
なんとかベースを乱されまいと敬語に戻すが、普段のケンジとは様子の違うことに周りはざわめいている。
ソーニャの手から逃げ出すと、ケンジはメガネを畳んで素早く胸ポケットにしまい込んだ。
(欲しいと言うなら犬のおもちゃのように投げてくれてやるが、とりあえず興味のあるものを視界からなくさなくては…!!)
冷静になろうとするが、あまりに非常識で頭痛と苛立ちと息がうまく吸えない。
「嫌だなぁ。言っただろ?団長の絵を描きに話に来たんだ。どこにいるんだ?」
「ご近所にサラッとくる感覚でここに来ないでください!!天下の第二騎士団ですよっここは!」
宮廷画家の肩書を見下されたと判断し、ソーリャも負けじと叫んだ。
「知らん!!偉らそうにするなっ雑用係だろーーー!!」
「国家公務員っっ国立大学出のスーパーエリート集団舐めんなっっ」
ここに来て自尊心が爆発した。
ケンジ38歳。
画家のソーニャと結婚するまで、あと11カ月半……。