キー!キーキッキ!
炎と血の匂いが混ざって鼻を突く。ここは六魔王の一人、イーデルの居城。
勇者レインが繰り出した剣がイーデルの胸を貫いた瞬間、世界は一瞬だけ静寂に包まれた。
イーデルの断末魔の叫び。しかしイーデルの持つ大鎌はレインの胸を貫いていた。
「ここで……終わりか……」
レインは仰向けになると、かすれた声でそう呟いた。朦朧とする意識の中、駆け寄ってくる仲間たちの悲鳴にも似た叫び声が聞こえる。赤髪の魔導士カティア、無口な戦士バロン、祈りを絶やさぬ癒し手ルミナ。
ああ、仲間に恵まれて幸せな冒険だった。ただ一つ悔やまれるのは魔王を倒し、みんなとの約束を果たせなかったことだ。だが、六魔王最強と謳われたイーデルを倒したのだ。きっと他の勇者やみんなが力を合わせて魔王を倒してくれるはずだ。
キー!キーキッキ!
ん?何だ……この声は?
ああ、そうだ、この間森で拾った猿の鳴き声だ。あいつ、城の前で別れたつもりだったが着いてきていたのか。猿が魔族と人間の戦いに巻き込まれることはない。森へ還るんだ……。
胸に安堵と痛みを同時に感じながら、アレインの視界は闇に包まれた——。
……
——チチッ……キー……キー……。
鳥の声。木々が風に揺れる音。どこか懐かしい、自然のざわめき。ゆっくりと目を開けると、そこは深い森の中だった。木漏れ日が差し込む枝の間から、無数の緑が揺れて俺の顔を照らす。
「……ここは……天国?」
起き上がって声を出そうとしたが、口から出たのは「キィー」という甲高い鳴き声だった。
とてつもない違和感。
立ち上がろうとして、腕をついた。だがその腕は、見慣れた俺の腕ではなかった。短くて毛むくじゃら。指も太く、手のひらは黒ずんでいる。顔を触ると感じたことがない感覚を覚えた。
「まさか……」と思い、すぐそばの湖に顔を映した。
そこにいたのは、自分ではない。毛むくじゃらの猿だ。俺はいま、猿になっているのだ。
おいおい、なんてことだ。信じられない。
驚いて軽く跳ねたつもりが、体を動かそうとすれば、木々の間を軽やかに跳ねる。二本足ではなく、四足でもない、腕と足を同時に使って移動する奇妙な感覚。しかしそれは、妙にしっくりと馴染んでいた。
(死んだはずなのに……生きてる……? いや、生き返った? それとも……生まれ変わった……?)
叫びたくても、とにかく言葉が使えないのだ。ずっとキーキーと甲高い声しか出ない。
理由もわからず森を駆けた。足裏と掌に草木の感触が伝わる。
この感触、これは夢じゃない!現実だ!
頭上で何かが動く。木の上で別の猿たちが、自分を見て警戒している。明確な言葉として聞き取れないが、よそ者は出ていけと警告しているのがわかる。
俺はひたすら走った。何時間くらい経っただろうか。気がつくと森を抜けて小高い丘に出た。見下ろすと遠くに街が見える。あれは俺の生まれ故郷ルネシアだ!
俺はすぐに崖を下った。人間なら躊躇してしまうほどの高さだが、不思議なことに恐怖心はない。階段を下りるように岩や木の枝を飛び移りながら難なく降っていけた。
崖を降りると街に通じる街道に出た。相変わらず寂れた道だ。子供の頃、街からこの道を辿って町外れの師匠の家に行き、剣術や魔法を叩き込まれたものだ。旅に出てから師匠と一度も会っていないがこんな姿を見たら何と言うだろうか。
そんなことを考えているうちにルネシアの入口に着いた。5年ぶりに帰還した故郷はあの頃と何も変わっていないように見える。
市場を抜けた先に俺が育った教会がある。孤児だった俺を拾って、勇者の素質を見出してくれた大切な場所だ。市場を駆け抜けて行こうと思ったが、こんな姿で闊歩すると驚かれるだろうから、壁の上を走っていこう。
街を囲むように建てられた大人の背丈の三倍ほどある木の壁。子供の頃はこの壁の向こうに行けるなんて夢の夢だと思っていたけど、猿になって上から眺めてみると壁も街もちっぽけなもんだ。
教会に着いた。薄汚れていた白壁が綺麗になり、入口のドアも塗り直されている。ずっと割れたままだったステンドグラスの丸窓も修理されていようだ。
教会のドアが開いていたので隙間から忍び込んだ。目に飛び込んできたのは、見覚えのある人物の石像。その石像は祭壇の前で仰向けで横たわっている。
それは、自分——勇者レインの姿。よく見ると、それは自分が命を落とした瞬間の生き写しのような石像で、側には花束が供えられている。右手に剣を持ち、左手は鎌が貫通した胸を抑えて仰向けになっている死ぬ間際の姿だった。
(……俺、死んだんだ……本当に……)
石像に手を伸ばすと、魔力の残滓がわずかに感じられた。これはきっと、ルミナが最後に放った石化の魔法だ。命が途絶える瞬間の俺を、こうして永遠に閉じ込めたのだ。きっといつか復活できることを願って。
しかし、もう少しまともなタイミングで石化してほしかったな。せっかくのイケメンも台無しだ。ポーズももっとかっこよく出来たのに。だが、としていると、背後から足音が聞こえた。
「……え? ......さ、猿……!?」
振り返ると、そこにはルミナがいた。彼女は大きな目をさらに見開き、口元に手を当てて後ずさった。
「まさか……?」
(おれだ!レインだ!)
そうルミナに声をかけようとしたが、俺の口から出るのはキーキーという甲高い鳴き声だけだ。そりゃそうだ、だって猿だからな。
なんとか自分がレインであることを伝えようと歩み寄ろうとした。その瞬間、ルミナの怯える悲鳴が教会に響いた。するとルミナの悲鳴に反応して、街の人々がぞろぞろと集まってきた。
「あの猿、ルミナ様を襲おうとしてるぞ!」
「まさかモンスターか?追い払え!」
罵声とともに、小石が飛んできた。俺はとっさに避けた。が、追い打ちをかけるように矢継ぎ早に石が飛んでくる。
「みんなやめてあげて!」
ルミナが俺をかばうようにして、俺の前に飛び出してきた。俺に投げた石が一つルミナの腕に当たって彼女は顔をしかめた。礫の雨が止むのを見計らって、俺は教会を飛び出した。
ここは俺が命を懸けて守った故郷のはずだ。だが今、俺は“得体の知れない猿”として嫌悪されている。やり場のない怒りとこみ上げる寂しさを抱えながら、俺は街を背にして走り出した。
「ちょっと待って!」
背後からルミナの声が聞こえた気がした。だが振り返る余裕も理由もない。もうこの故郷に帰って来ることはできないのだから。
俺は街のそばにある小さな森に逃げ込んだ。ここは以前鉄鉱石の坑道があり、この街も鉄の街として栄えた時期があったが、今は廃坑となり誰も近づかない場所だ。
草葉の陰に身を潜める。さすがにここまで追ってくる者はいなそうだ。が、すぐに足音が一つ、こちらに近づいてくるのが聞こえる。この足取りからすると若い女性か。草むらから顔を出して確認すると、それはルミナだった。彼女は必死の形相で森の中を探している。
その時、茂みの奥から唸り声が響いた。ゴブリンだ!三体のゴブリンたちが姿を現し、ルミナを取り囲むようににじり寄ってくる。昔からこの辺りにははぐれゴブリンが居たが、廃坑をねぐらにして繁殖したのかもしれない。
「……っ、来ないで!」
ルミナは杖を構えているが、ダメだ。数が多すぎる。魔法詠唱の隙すら与えない速度で、ゴブリンたちはさらに距離を詰めて飛びかかろうとしていた。
ルミナがどうして追いかけてきたのかはわからない。だがゴブリンの汚い手で凌辱されるなどあってなるものか。怒りと決意が全身に満ちる。レインが傍らに落ちていた棍棒を手に取ると、咆哮とともに地を蹴った。
目にも止まらぬ速さでゴブリンの一体に飛びかかり、後頭部を棍棒で一撃。
次の瞬間、振り向きざまにもう一体の顎を打ち砕き、回転して木の枝を蹴って跳躍。三体目の背後を取って首元を叩き伏せた。
魔法は使えないし、勇者の剣も持っていない。だが、人間だったときよりもずっと素早く、力強く戦えているのはわかる。何しろ瞬発力が人間のときとは桁違いだ。鎧は着ていないがゴブリンの攻撃が当たる気がしない。まるで鈍い亀の動きに見えるからだ。
わずか十数秒で、ゴブリンたちは呻き声を残して倒れ伏していた。ルミナが驚愕の表情で立ち尽くしている。俺になにか言いたそうだ。おそらく今の身のこなしを見てレインだとわかってくれたのだ!
キッキ!キーキッキー!(そうだ俺だよ!レインだ!)
ルミナは信じられないといった表情で俺に近づいてくる。
「やっぱり……」
ルミナは何かを確信したのか、天を仰ぐと神に祈るように手を組んだ。
「間違いないわ。そのネックレス……レインがあの猿にかけてあげた物ね……」
そう、俺の首には、白銀の魔除けのネックレスがかかっていた。それを見て、彼女は確信したのだ。俺が旅の途中で助けたあの猿だと。