思ってもみない情報
承は璋王子の発言に眉をひそめた。彼はいかに王室の地位が低く、そして無防備であることに気づいていなかった。いくら第一妃の召妃が世話をしているとはいえ、彼にはすがるものはない。
だから、繋がりのある沙宅氏を蔑ろにしてはならなかったが、それが分かっていなかった。でも、解道允たちにとっては沙宅氏と璋王子の間がこじれるようなけとがあれば、それはそれで好都合である。
「王子様、慎重になってください」
承はわざとらしく言ってみた。
「何故だ?」
「善花公主を想う気持ちは分かりますが……まさか、お会いになっていませんよね?」
璋王子は承をじっと見つめた。明らかに戸惑いが顔に現れている。その瞳には怒りすらも感じられた。その怒りはこれ以上、自分と善花公主との仲を否定することへの怒りだった。だが、承には関係ない。
「下がれ!」
「……はい」
承はそれ以上、何も言わずに寝殿から出て行った。そして人気の少ない場所まで足を運ぶと取次をした内侍から手渡された紙切れを広げた。
善花公主は琳琅閣にいる
「琳琅閣……兄上が通っている妓楼ではないか……」
承は急いで顕に使いを出した。兄の圭が琳琅閣で善花公主を見つけたら、父である解道允は彼を後継と認めざるを得ない。承はそれだけは避けたかった。
大姓八族の解氏の当主は自分が一番、ふさわしい、そう燻ってい感情が今、現れてきた。押し込まれていた感情でもあった。 承は顕からの連絡を待たずに琳琅閣へと向かった。
琳琅閣は百済、または大陸からの客をもてなす高級な妓楼である。そこの行首である雪姫は百済で一番の名妓であった。今は行首として琳琅閣を切り盛りしており、琳琅閣の名妓の座は香妃に譲っている。雪姫が宴に出ることは全くないが、常連である貴族の宴には出ていた。その日の夜は百済中の銀子が琳琅閣に集まると噂されている。
そして雪姫と香妃は璋王子の生母と親しい間柄だった。璋王子の生母は琳琅閣の妓女だった。その縁で璋王子が庶民だった頃、彼女たちは彼に日雇いで仕事を与えたこともあった。雑用から薯堀まで、あらゆることをさせた。そんな彼は新羅から追放された善花公主を住まわせてくれたて頼んでいた。
雪姫は初めこそ嫌がったが、自ら率先して雑用をこなす善花公主を見て、いささか安堵していた。
公主ときいて雪姫が真っ先に思いついたのは威徳王の娘、慶華公主である。彼女は見るものを惹き付ける美貌を持ちながらも尊大でわがままな性格であった。外商に湯水のように銀子や金子を使い、常に鮮やかに着飾っていた。
だから、雪姫には公主というものが皆そうだと思っていた。今では覚え始めた片言の百済語で必死に話す善花公主に好感を抱いていた。
そうとは知らず、放蕩息子の圭は今日も琳琅閣に酒を飲んでいた。彼のお気に入りの妓女たちを侍らせて中庭で投壺をしながら酒を楽しんでいた。
「御曹司様、壺に矢が入りましたよ」
妓女が投げた矢が壺に入ると、承は上機嫌で酒をあおった。そしてもっと酒を持ってくるように命じた。
「御曹司様、飲み過ぎですわ」
そう猫なで声で言ってきた妓女の腰を抱き寄せると承はおぼつかない口調で返事をした。
「大丈夫だ。今夜はお前が私の世話をしろ」
「御曹司様ったら!」
妓女は承に抱きついた。そこに酒を運んできた雑用の娘がやってきた。百済人の美女とはまた違う美しさを持つ娘だった。
承は思わず見入ってしまう。それに気づいた妓女がすかさず言った。
「私よりあの娘が良いのですか?」
「いや、あの娘は妓女か?」
「あの子は行首様の小間使いですわ。忙しい時は雑用をしてるんです。ねぇ、そんなことより遊びましょうよ」
承は妓女を体から離した。妓女は面白くなかったのか、酒を一杯飲んだ。そして手櫛で髪を整えると元いた席に戻って行った。
「厠に行ってくる」
承はそういうと雑用の娘を目で追いながら席を外した。妓女たちは興ざめであった。一気に琳琅閣から笑い声が聞こえなくなった。
承は先回りして厨房の近くである中庭で雑用の娘を待ち伏せした。彼の読みが当たり、彼女は何も知らずに歩いてきた。
「ようやく2人きりだ」
そう声をかけながら承は物陰から顔を出した。雑用の娘は驚いたのか腰を抜かしてしまった。
「お前、名前は?」
「……」
「言えないのか?」
「……」
承は体を屈めて娘の白い頬を指でなぞった。そして帯に手をかけようとした。するとそこに息を切らした香妃がものすごい剣幕で現れた。
「御曹司様、この娘は行首様の小間使いです!妓女ではありませんわ!」
娘は弱々しく体を起こすと香妃の後ろに隠れた。
「琳琅閣で大姓八族の次期当主がどんちゃん騒ぎ……挙げ句の果てには小間使いに手を出そうとするなんて。琳琅閣は格式高い妓楼です。これ以上、騒ぎを起こすなら他の妓楼にしてくださいませ!」
ぴしゃりと承に言い放つと香妃は娘を連れて中庭を後にした。そこに琳琅閣の用心棒らが現れて半ば引きずり出すように彼を表門ではなく裏門から追い出した。これは雪姫なりの配慮だった。
泣きじゃくる娘に香妃は何度も「怖かったわね」っと声をかける。そして自分の部屋で休ませることにた。事情を聞きつけた雪姫が香妃の部屋にやってきた。
「公主様!怖い思いをさせてしまって……」
その娘は善花公主であった。彼女は口のきけない雪姫の小間使いとして琳琅閣では生活をしていた。名前がないのは不便だと雪姫は銀非と仮名をつけていた。妓女たちの前では彼女を仮名で呼んでいたから、香妃以外の妓女たちは彼女が善花公主とは知らなかった。
「だ、大丈夫で、す」
雪姫は善花公主を抱きしめた。怯えている善花公主を見かねて香妃が雪姫に言った。
「このままでは善花公主の身が危険です。明日にでも善花公主を別の場所に移しましょう」
「璋王子に伝えるにも……手段がないわ」
「明日の夜に、璋王子が来た時にでも……」
「それしかないわね」
善花公主の耳で聞き取れた百済語はわずかであったが、雪姫と香妃が自分を守ろうとしているのは雰囲気で伝わっていった。そして彼女たちが姉の徳曼公主、天明公主と重なり、末っ子の自分を常に心配していたことを思い出した。
新羅での思い出を胸にしまい込んだまま追放されたが、彼女は父である真平王を恨んではいなかった。族内婚で姉の徳曼公主は国飯にと継がせようと話が出ていたし、天明公主は金龍春、龍樹と親しい。彼女たちは新羅しか知らない。その点、自分は百済という国にいて最愛の璋王子と過ごせる。それが一夜だけでも胸は高まり、そして愛を確かめようと心から彼を求めた。
「璋王子……」
裏門から追い出された圭は妾の家に転がり込んで横になっていた。妾はことの顛末を聞いて呆れたのか彼を無視して寝室に放置した。
縁側で空を眺めていた妾のもとに承が現れた。珍しい客人に妾は驚きを隠せなかった。
「あら、いかがなさったの?」
「兄上はいるか?」
「おりますわ。琳琅閣でしでかしたようですよ。なんでも雑用の娘に手を出そうとしたらしいです」
「そうでしたか」
さすがの承もそれに呆気にとられた。ここまで彼が愚鈍であるとは思っていなかった。しかも、琳琅閣での騒ぎとなれば話はすぐに伝わる。
「承様、琳琅閣で思い出したのですが……口のきけない小間使いがいるそうですよ。その小間使いは雑用もしているみたい。いせ、通訳の知り合いが琳琅閣へ出向いた時に新羅語が聞こえてきたとか。もしかしたら口のきけない小間使いは新羅人かもしれない、っと」
妾の言葉で圭が襲おうとした雑用とは善花公主だと確信した。間者の言葉通りと承は内心でしたり顔を浮かべた。
雪姫と香妃。こちらもドラマから名前を取りました。
雪姫はトンイから、香妃は千秋太后からです。本当は雪蘭と名付けたかったのですが、真っ先に「スベクヒャン」の主役の名前だと思ってやめました。
いづれ、「スベクヒャン」をベースにした創作もしてみたいものです。