新羅の奴婢
梅を眺める佳熙の様子を物陰から見ている男がいた。
佳熙はそれに気づいていなかった。彼女は白くて長い指を梅の花に伸ばしていた。梅の花に指が届きそうで届かない。そのもどかしさから彼女は指を引っ込めた。
そしてため息をひとつした。
「階伯!」
執事の声で佳熙は自分を眺めている男に気づいた。階伯と呼ばれた音は穀物庫の方に走っていった。執事は佳熙に向かって頭を下げた。
「お嬢様、すみません。あいつ、いや階伯が仕事の合間にどこかへ行ってしまうので見張っていたんです」
「階伯……!あの男が!階伯は屋敷でどんな仕事をしているの?」
「力仕事に雑用ですよ。腕っ節と頭は良さそうなんですけど、如何せん……」
執事は当たりを見回してから声を潜める。
「新羅の奴婢だったようで」
「え?!」
「お嬢様、お静かに……ご安心ください。確かな人から頼まれましてね。旦那様もこの話は知っています」
佳熙は自分の空想で作り上げた「階伯」が現実と乖離していることに肩を落とした。
しかし、それが彼女の好奇心に火をつけてしまった。異国の言葉も文化も違う「新羅」とはどんな場所なのだろうか。きっと、この話をしたら花瑩は自分を烈火のごとく責めたてるに違いない。
花瑩の気持ちも分かるが、佳熙は自分の気持ちを抑えるのが難しいと感じていた。
「執事、階伯に会わせてちょうだい」
「何故です?階伯は卑しい身分ですよ。それにお嬢様だけでお会いさせることはできかねます」
「そこを何とかできない?」
執事は深いため息をついた。奴婢であり、新羅からやってきた階伯を佳熙に会わせることは積徳や花瑩は許さないだろう。そればかりか、花瑩が階伯が新羅からの奴婢と知ったら彼を虐げて道端に捨てるかもしれない。
「佳熙!」
佳熙と執事が声のする方を向くと木氏出身で幼なじみの伯謙が息を切らしながら立っていた。彼の背後には観念したかのような顔をした階伯が立っている。観念した顔をしていても彼は精悍な顔立ちは隠せなかった。
「伯謙様、何か階伯が不快に思われることでも?」
執事の顔色が一気に悪くなる。佳熙は執事のその様子をみていかに階伯の扱いに苦慮しているのが分かった。
執事は階伯を守る立場ではあるが、階伯本人はそれを良しとしていないのだろう。
「怪しいと思って走っていったのを追いかけただけさ。沙宅氏の奴婢だったとは……」
伯謙の額には薄らと汗が滲んでいる。佳熙は持っていた手巾で伯謙の汗を拭おうと手を伸ばすと、伯謙は一歩後ろに下がった。
「どうしたの?」
「佳熙、お前は璋王子との婚約の話があるだろう?いくら幼なじみでも弁えないと」
伯謙の言葉に何度も頷きながら、佳熙は手巾をしまった。そして温かな眼差しを伯謙に向けた。
「執事、伯謙を客間に案内して」
「いや」
伯謙は佳熙と執事を制した。
「執事が下がっていろ。俺は階伯と話がしたい。なぜ走っていたのかを問いただしたいんだ大丈夫だ。俺は武官だ……何かあれば……それに佳熙がいれば助けを呼べるだろ?」
「わ、分かりました……」
執事がとぼとぼとその場を後にした途端、階伯が伯謙に星のように輝く瞳を向けていた。
表情はこの上なく明るく、声も弾んでい。
「お前、武官だったのか!」
階伯はそう言うと伯謙の左腕を掴んだ。伯謙は階伯の先程までの態度の落差に驚いた。
「な、なんだ!」
「若旦那、俺に武芸を教えてくれ、いや教えてください」
「武官とはいっても……」
しぶる伯謙に譲らない階伯の様子を見て佳熙は劇を見ているような気分になった。そして武官になった階伯を見たいとも思った。佳熙は伯謙に静かに言った。
「教えてあげたら?新羅との戦争で兵士は不足しているんじゃないの?」
「それはそうだが……」
「階伯、あなただって奴婢で一生を過ごしたくないでしょ?」
佳熙の問いかけに階伯は何度も伯謙に頭を下げた。それには伯謙も根負けしてしまった。伯謙は階伯を自分に委ねるように積徳に願いでると佳熙の前で口に出して言った。
「良かったわね、階伯」
「お嬢様のお陰です。何とお礼をしたらよいのか……」
「そうね、立派な将軍になってくれたら満足よ」
「将軍……」
佳熙の言葉で階伯は自分がとんでもない幸運を掴んだと感じていた。一介の奴婢が将軍になれる好機を得たのである。これには階伯も身震いがした。
「階伯、積徳様の元に行くぞ」
「若旦那、分かりました」
2人は積徳のいる書斎に向かおうと歩き始めた。そこで佳熙が書斎に国炫がいることを思い出した。
「待って!」
「どうした?」
訝しげに伯謙が振り向いた。
「国炫様がいらしてるの」
伯謙は首を傾げた。そして思い出したかのように呟いた。
「国炫殿はうちにも来ていたな……その前に必ず解道允様がやって来るんだ」
すると階伯が小さな声で2人に言った。
「そういえば裏門に解道允様の側近がいましたよ」
佳熙と伯謙は顔を見合せた。解道允は国炫を見張っていたのである。しかし、佳熙は解道允が何を考えているのか分からずにいた。
「佳熙、階伯、この話は国炫殿にするべきだ」
「若旦那、国炫様が警戒し始めたら解道允が怪しみませんか?」
「とりあえず、この話はお父様にしましょう。まずは階伯を伯謙に譲る話をして。出来るなら国炫様とお父様の話に聞き耳をたてて」
「分かった」
伯謙は短く返事をすると階伯を連れて体を翻して書斎に足を進めた。1人になった佳熙は自分の知っているあらゆる事を引っ張りして解道允の意図を考えた。
解氏と国氏が不仲だとは聞いたことがなかった。だが、王弟殿下が勢力を持ち始めたころから、解氏は大姓八族の輪を乱すようになっていった。
大姓八族。この百済を作った偉大な八族は協力をしながら国を支えていた。しかし、その力は時に国王を上回ることがあった。東城王に仕えた苩加がいい例である。彼は東城王を殺したのである。
佳熙は解道允が第二の苩加にならないかと不安を抱いた。しかし、大義名分のない王弟殿下をなぜ国王にしたいのか、佳熙にはいまいち理解出来なかった。
王弟殿下の妻が解氏の出身であるから、王后を輩出した名家としての地位を得たいのだろうか。専横の謗りを受ける可能性のある地位をなぜ、解道允は求めるのだろうか。
佳熙は目をつぶった。
そして自分を落ち着かせようと、心を静寂に委ねた。ゆっくりと息を吸って、吐いてを繰り返すと佳熙は目を開いた。少しだけ頭の中が冷静になれたような気がした。
「大丈夫。私の考え過ぎよ」
その呟きは風の音にかき消されてしまった。しばらくして若い侍女が外套を持ってきた。
「捜しましたよ」
「伯謙様と話していたの」
「さようでしたか」
若い侍女は佳熙に外套を着せるために背後に回り込んだ。
「お嬢様、照王子の婚約者が誰だか、ご存知ですか?」
「興味無いわ」
「まあ、あの刕氏の東珠様ですよ」
「東珠……確か宮中に禮童として仕えていた?」
「そうです!そうです!」
侍女は明るい声で何度も繰り返した。この若い侍女は話好きなのか、言葉が次から次へと口をついて出てきた。
正直、佳熙は彼女の言葉はたいして気にもと止めなかった。佳熙と同年代の娘が縁組をしたり結婚するのは当たり前であったし、それが宿命でもあった。
「それで東珠が何かしたの?それとも照王子が?」
「それがですね……」
若い侍女は佳熙の耳元で囁いた。
「解道允様の庶女で出仕している恩彬に手をつけて懐妊させたそうですよ…」
「ど、どういうこと?」
その話は佳熙にとっては寝耳に水だった。解道允が何か仕向けたのではないかと嫌でも考えてしまう。
恩彬は解道允の娘だが、正妻の娘ではなく小妾の娘だった。小妾とは妾でも身分が低い者のことである。小妾の娘である恩彬に価値が見いだせなかった彼は彼女を宮中に出仕させていたのだ。
しかし、その結果がこれである。道允にとっては棚からぼたもちであっただであろう。
「それで東珠はどうなるの?」
「東珠様は第2夫人に……」
「まさかね」
佳熙は目眩を感じた。天というもが、仏というものが、存在するならば東珠の苦しみを救い、側室という屈辱を消すことができるのだろうか。
「部屋に戻るわ」
若い侍女に支えられながら佳熙は部屋に戻って行った。
個人的に東珠「ドンヂュ」という名前が好きです。
「オクニョ」に出てきた閔東珠から登場人物に付けました。
ただ、主人公には「東珠」は使いたくなくて付けませんでした。主人公には二文字で覚えやすい名前をつけようと考えていたからです。
結構、登場人物の名前をつける時は他のドラマを参照にしたり、ネットで調べたり、っとします。
それで主人公の佳熙は実は「王の顔」、「王の女」、「西宮(宮廷女官キム尚宮)」の主人公(介屎)のである別名「カヒ」から取りました。「王の顔」は初めから「カヒ」でしたね。
さて、佳熙は金尚宮みたくなるのか!
それとも悪辣な女は別にいるのか!
楽しみにしていてください。