それぞれの思惑
古代朝鮮が3つの国に分かれていたころ。
高句麗、百済、新羅はそれぞれの思惑を隠しながら、隙あらば国に攻め入るような状態であった。
百済は新羅との戦いに負けて、国王であった聖王は屈辱的な死を迎えていた。
現在は聖王の息子・威徳王の御代。
新羅を念頭に軍事に力を入れていたが、威徳王には懸念があった。
それは、異母弟の扶余季のことだった。
「この子は鳳凰の気運がある」
佳熙がまだ3歳の頃に占い師から言われた言葉を父の積徳は覚えていた。
厳しい冬を越えて綻ぶ梅のようになりなさい
そうすれば栄華が手に入る
お前は百済の国主母となるのだよ
まじないのように積徳は佳熙に何度も何度もそれを言って聞かせた。
彼は佳熙を百済の王后にしようと家庭教師を雇い入れて学問をさせた。そればかりではなく、優雅な身のこなしや好まれる化粧など王后として必要な全てを学ばせた。
積徳が佳熙にここまでするには訳があった。
威徳王の王子、璋に彼女を嫁がせようとしていたからだ。璋王子は生母が卑しい身分と噂されていた。その噂を証明するかのように彼に強力な後ろ盾がない。
積徳は後ろ盾のない璋王子に娘の佳熙を嫁がせて、ゆくゆくは彼を国王に即位させて、自分は「国舅」として政治を動かすことを考えていた。首尾よく彼が国王になれても後ろ楯ないため、大姓八族や貴族の勢力にすがるしかないだろうと積徳は踏んでいた。その中でも大姓八族の勢力は必須になる。積徳は大姓八族の一つ、沙宅氏の人間だった。沙宅氏は開国の王に従った貴族の一人であり、支配階級でもあった。
その娘である佳熙は王后、ひいては国主母となるには十分な身分を持っていた。佳熙自身もそれを疑っていなかった。
「お嬢様、梅が咲きましたよ」
容ばあやが声を弾ませて問いかけてきた。
佳熙は鏡台に向かい、紅をさしていた。反応のない彼女を見て容ばあやは黙ってしまった。
すると今度は佳熙が話しかけてきた。
「髪を梳くのを手伝って。今日は王宮に招かれているの」
「承知しました」
容ばあやは背後に回り込み、佳熙の黒々とした艶のある髪を櫛で梳いた。髪からは香油がかすかに漂う。
「ねぇ、太子の座を璋王子の従兄弟の宣公子が狙っているときいているけど」
「まあ、単なる噂ですよ」
「噂?みんな噂しているわ」
「そんなことお忘れになってください」
髪を梳く容ばあやの力がいささか強くなっていた。
「忘れた頃に貴族たちがまた噂するもの」
佳熙は紅をさし終えると丁寧に指を手巾で拭いた。鏡に映る佳熙の表情はどこか冷たく、そして挑発的であった。
「ばあや、いい色の紅だわ。それより、この眉の形はどう?三日月眉というのよ」
「お綺麗ですよ。お嬢様は元々、器量よしですもの。似合わないものはございません」
容ばあやはまた声を弾ませた。佳熙は鏡を見つめたまま不意に思案にふけってしまった。
婚約を進めている璋王子のことだ。璋王子には政敵が多数がいた。威徳王の弟、扶余季、通称「王弟殿下」とその息子である宣公子が虎視眈々と国王の座と太子の座を狙っていたのだ。だが、威徳王には4人の王子がいて、長男の阿佐王子が太子となっている。
しかし、阿佐太子は倭国に行ったっきりで消息が分かっていなかった。威徳王は彼の帰りを待ち続けるあまり自分な亡くなっても居場所があるようにと「太子」という座を彼のために残している。
威徳王がそこまでするには理由があった。阿佐太子の生母は十分な身分があり、人望もあり、明るい未来があった。性格も温和であり、人の悲しみに寄り添える人物でもあった。それ故に国王にふさわしいと威徳王は感じていた。
それとは対照的に璋王子に威徳王はそれを感じていなかった。卑しい身分の生母から産まれたこと、それが足枷となって人望が得られないこと、そして新羅の公主と情を交わしていたことがあったからだ。
新羅の公主とは真平王の娘である善花公主である。
新羅といえば百済にとっては敵国である。その敵国の公主を愛せるほど璋王子は懐が深い。しかし、百済の貴族達はそうではない。
佳熙もその1人だった。百済の貴族たちは璋を嫌っている。いつか善花公主に唆されて彼が売国奴になるのではないかと噂をしているほどだった。佳熙はその噂を鵜呑みには出来なかった。璋王子は婚約をすすめている相手だったからだ。
「もし、王弟殿下が国王になったら?それに宣公子も太子になったら?」
佳熙の言葉で容ばあやは髪を梳く手を止めた。彼女の表情が険しくなる。しかし、佳熙は気にせず続けた。
「阿佐太子の帰りが見込めないなら、国王陛下の王子たちが太子になるけれど……有力な候補は年齢からすれば延妃の産んだ照王子、次は召妃は漢王子だわ。でも、召妃は阿佐太子を産んでいるから国王陛下は重視するはず。璋王子は敵国と内通すると思われているわ……そんなこと考えてはいけないけど」
「お嬢様、政治は男がするものです。さ、身支度を……」
容ばあやが佳熙の髪に梅の簪を挿しているところに、群青色の着物を着た叔母の花瑩が現れた。
「ばあやは下がっていて」
色白の顔に柔和な笑みを浮かべながら、花瑩は容ばあやにそう言うと彼女は部屋から出て行った。そして花瑩は佳熙の肩に手をのせて耳元で囁いた。
「天女みたいだわ」
佳熙は花瑩の言葉にしっくりこなかったのか、首を傾げて小さく言い返した。
「叔母様は天女をご覧になったことが?」
「あら、そんなこと言って。見た人間がいるから天女が存在するのよ。それより……」
花瑩は声を潜めた。
「解氏から道允様がお見えになっているの。お兄様の書斎に来ているわ」
佳熙は思わず振り向き、花瑩の顔を見つめた。花瑩の美しい顔からは笑みが消えている。
解道允は王弟殿下、扶余季に近しい人物である。しかも、大姓八族の一つ「解氏」の有力者でもあった。解道允は抜け目ない男であり、野心燻る王弟と宣公子に目をつけて権力を握ろうと考えていたのだ。
それでなくても、解道允は扶余季の生母から多額の資金援助を受けていた。理由は簡単だ。扶余季を王位に就けるためである。だが、解道允はそれだけで動くような男ではない。解道允が王室の財産を掌握しているとも噂が流れており、その噂は威徳王の耳にも入っているとも言われている。
一方の扶余季は恐ろしい程に自身に劣等感を抱いていた。母は違えど、兄は国王であり、自分は一介の庶子の王子でしかいない。生母の身分が高くても正夫人ではなかったから、嫡子の兄とは生まれた時から差があったのだ。
歴代の国王でも兄弟が即位していることもあった。扶余季は兄よりも甥よりも自分の能力は高いと思い込んでいた。そうでもしないと劣等感に押し潰されそうだったからだ。だから、兄の王子たちより次期国王に相応しいと考えるようになっていった。
これだけ身分や資格があるのに国王になれないことが彼の自尊心を傷つけ、劣等感を植え付けた。身分という見えない「何か」にいつも優劣をつけられているような気もしていたのだ。
佳熙は解道允が父である積徳を訪ねてきた理由を考えた。真っ先に浮かんだのは王弟殿下、扶余季が即位するための協力であった。
確かに沙宅氏は大姓八族の中では名門であり、大佐平という高位に就いている。その沙宅氏に協力を求めるのは妥当だ。
だが、佳熙は思った。
王弟殿下が国王になる大義はあるのか……?
阿佐太子の行方が分からなくても威徳王には王子がいる。なのに王弟である扶余季を国王に就けるのは解道允が百済を扶余季を利用して百済を動かすのではないかとも佳熙は考えた。考え込む佳熙に花瑩が囁くように声をかける。
「佳熙、あなたもお兄様と同じ考えを持っているはずだわ」
「同じ考え?」
花瑩はゆっくり頷いた。
「王弟殿下を国王にする大義がない、そう考えていたのでしょ?私も同感だわ」
「叔母様もそう思っていたのですか?」
「そうよ。それに国氏からも話しがきているそうよ。ご嫡男の炫様は阿佐太子の陪童だったでしょ?ほら、柱遠様は陛下とは幼なじみと聞くわ」
国氏の当主である柱遠は大姓八族の一つ「国氏」の人間だ。彼は威徳王の幼なじみであり、側近であり、阿佐太子の傅官でもあった。そして陪童として息子の炫を阿佐太子に仕えさせていたのだ。柱遠はそれだけ威徳王から信頼があつい男だった。そればかりか忠誠心もあり、佳熙の父である積徳も懇意にしていた。
「炫様はなんと?」
「阿佐太子に何かあったら必ず王子から太子を選ぶようにと国王陛下への口添えを頼まれたみたいだわ」
佳熙は父親がどのような答えを出すのか興味があった。容ばあやは政治の話を嫌う。「女人」だからと口を酸っぱくして話を遮るのである。
叔母の花瑩のように佳熙は政治を語れる人物が欲しかった。自分を「女人」と片付けるのではなく、「沙宅佳熙」として認めてくれる存在が欲しかった。
婚約の話をすすめている璋王子はそれをしてくれるのだろうか。敵国の公主にうつつを抜かす璋王子に佳熙は一末の不安を覚えていた。
公子→春秋戦国時代(羋月のころ)なら王の息子の敬称ですが、ここでは王子以外の男子を公子と呼びます。
公主→皇帝、国王の娘の敬称。公主以外の女子は公女としたいです。新羅なら娘主があったのですが(^_^;)。
国主母→日本書紀に出てくる言葉で「太后」のような意味合い?と解釈しています。ただ、側室の息子が王になっても太后の号が使われるかわかりません。正直、よくわかっていません。
試行錯誤ですすめていきます。