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09.教会法と百合えっち

 中世の教会は百合を良いものとは考えなかった。

 新約聖書のローマ人への手紙1:26,1:27にある『偶像崇拝する人々を主が見放されると、彼らは恥ずべき情欲に身を任せた。女は自然な男女関係を異常なそれに変え、男も女との自然な男女関係を放棄して別のものに情欲を燃やした。男たちは別の男たちと恥ずべき行いをし、その間違いのために当然の報いを受けた』という文句は、コンスタンティウス2世が同性愛を禁止してから度々引用されることになる。

 百合は『自然に反する罪contra naturam』の一つとされ、アベラールやトマス・アクィナスといった名のある人々によって批判された。



 もともと同性愛に対して教会が指示する罰則は、死刑ではなく悔い改めだった。教会のテキストは、基本的には男同士の関係について罰則を提案するが、女同士の関係に言及するものも一部にある。

 極端なものでは8世紀のブザンソンのドナトゥスが女同士で同衾したり、会話したり、プレゼントを贈り合うことさえ禁じるべきだと言った。

 ただ大抵は肉欲的な百合に対する悔い改めである。

 7世紀のタルススのセオドアによる悔恨マニュアルには『女同士で堕落した行為をしたならば、彼女は3年間苦行を行うべし。一人だけで行った場合も同じ期間行うべし』とある。

 また8世紀のベーダは『女性と女性が姦淫した場合は3年間の悔い改め。また修道女が他の修道女と「装置machinam」を使って姦淫した場合は7年』という。

 そして10世紀のヴォルムスのブルヒャルトは『教訓者メディクス』において『自身の望む大きさの男らしい部位を作り、それをベルトで縛って他の女性と姦淫したならば5年間の苦行をすべし』という。

 9世紀のランスのヒンマールが『悪魔のような装置machinas diabolicae』と呼ぶそれが何なのかは明白だし、そういった形状の道具も中世考古学の成果として発見されてはいる。



 肉欲的な百合についての説明は、前述のような装置などで片方が男の役をすることを想定する。それ以外にも13世紀の医者サリチェートのウィリアムは、子宮脱ragadiaか何かを男のものに見立てて女同士で利用するかもしれないと書いた。

 1295年にはボローニャで告発されたグエルチャという女が、未亡人と関係を持ち、二つの絹玉の付いた器具mancipiumを使ったと証言している。

 そのほか1405年、投獄された16歳の女性ロランスからフランス王への嘆願では、両性具有が示唆されるジャンヌとの交際が記録される。

 2年前、彼女は人妻ジャンヌとの交際を求めたという。するとジャンヌはロランスを麦束に寝かせて抱き締め、彼女の上に乗って男が女にするように腰を動かし、果てた後は夕方までキスをし続けた。そして3日後にはロランスの家で、ある日はブドウ畑で、またある日は泉のそばで同じようなことをしたという。


一方で12世紀のエティエンヌ・ド・フジェールによるマニエール書は、その詩の一部分の見解の一つとして所謂貝合わせを示唆しているようだと提案されている。が、とても隠喩的な表現なので何とも言えない。

 またヒルデガルド・フォン・ビンゲンは『男が女の服を着たり、女が男の魅力を利用してはならない』『男の役割を演じて女と関係を持つ女は最も卑しく、それに従う女も同様に最も卑しい』と書いている。このテキストは一般的には同性の関係を批判するものとして扱う。が、どちらかが男の役割をすることを批判してフェム同士になることを推奨したかもしれない。



 同性愛に対する罰則として、悔い改めではなく死刑にすべしという意見もあった。

 前部分で触れたイダとオリーヴでの描写より以前、13世紀後半にオルレアンの教育機関で書かれた法律論文は女同士で関係を持った場合には三度目で火刑にすることを提案している。(※一度目と二度目は性器の切断だが、意味は不明)

 また14世紀の法学者サリチェートのバルトロメオは、男女または女同士での強制的な姦淫があった際の復讐gladio vltoreを提案する。


 しかし14世紀の末に至るまで、男はともかく女同士の行為自体が罪と見做されて火刑にされたという確かな記録は無いようだ。1295年の事件は女への罰金刑と追放で幕を引き、また14世紀の低地諸国で行われた数人の女の火刑はその罪状が明らかではない。



 15世紀に入ると状況が変わり、彼女達が死刑にされたという記録がいくつも登場するようになる。

 それは例えば魔女狩りと同様に教会改革の影響、ペスト以降の労働人口の補填としての女性の社会進出とそれに伴う男性の同性愛との公平化、また法学者たちによって世俗の法律にローマ法が採用されるようになりつつあったことといった理由が推定できる。


 1422年、死刑を確認できる最初のものとして、低地諸国の都市ヘントでジェアン・セレースが女を誘惑するために男装した罪で火刑に処された。また1434年にはマリー・ファン・ファルメルベーケとベル・ワスヴィアスの2人が自然に反する罪で火刑にされた。

 1444年にはドイツのロットヴァイルで隠修女カタリーナ・ギュルデンが女性と関係を持ったことを理由に裁判にかけられた。判決は不明。

 記録上は低地諸国全体で15世紀前半に4人の女が火刑にされたという。ただしその数は男同士に対する処刑者数の1割に満たない。


 1477年、ドイツのシュパイアーにおいて百合に対する死刑が執行される。男装したカテリーナ・ヘッツェルドルファーは溺死刑になり、彼女と2年間関係を持っていた女は逃亡した。また浮気相手である別の女はカテリーナが男性のように振る舞い、最初は1本の指で慣らし、2本、3本、そのうち股に挟んだ木片を使ったと証言した。

 低地諸国では15世紀後半に8人の女が火刑にされる。

 そして16世紀に入ると多くの国で百合に対する火刑が法律で制定され、より積極的に死刑が執行されるようになった。

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