04.ハデヴィヒとサラ
13世紀初頭のブリュッセルは低地諸国の一つブラバント公国に属している。
ブリュッセルはセンネ川沿いの小さな村と教会を起源として初期中世の頃から緩やかな発展を遂げ、12世紀には著しく人口を増やした。そして13世紀になると公国の首都ルーヴェン、そしてセンネ川下流域のアントワープと並び立つブラバントの中心都市の一つになっていた。
当時の人口は2-3万人ほど。
都市行政は12世紀には機能していて、都市憲章の制定は1229年。行政官たちはブラバント公の庇護下に置かれており、都市の発展は公国の拡大と連動した。
商業はセンネ川の河川交通によって機能していた。主な二次産業は紡績業で、地元産のリネンを加工したりイギリスから輸入した羊毛を加工して海外に輸出していた。織物ギルドも13世紀後半には存在している。染織や縮絨は勿論、製粉、皮革、冶金、鍛冶、建築、靴屋、肉屋などの業種もある。また漁業やブドウ畑などの一次産業もまだ重要な位置にあった。
12世紀の末、北フランスと低地諸国一帯でベギン会が流行する。それはキリスト教の一流派で、当初は貴族の女性のための信仰だった。
ベギン会派は、基本的にはその地域を管轄する司教の傘下に入らず、自治性があり、神に生涯身を捧げることも財産を寄付することもなく、結婚のために脱会することも出来た。細かい教則はベギンの共同体ごとに異なる。共同体は都市内に複数個ある場合もあった。
ブリュッセル最初のベギン会派修道院は13世紀半ばには存在していたようである。この木造の小さな修道院は郊外に建てられ、少数の女性を受け入れていた。
こうした修道院は1230年頃から各地で少しずつ建てられ始めるが、修道院設立ブーム以前のベギン会派の共同体は、同派の女性たちと私的に共同生活をしたり、あるいは孤独な生活をしつつも訪問者を受け入れたり手紙をやり取りすることで結びついていた。
修道院の設立、それ自体は貴族や裕福な商人の寄付によって実現する。つまりベギン会に入った貴族たちの支援があった。
しかし13世紀後半、ブリュッセルのベギン会派は貧しい人々を受け入れるようになり、彼女達に暮らしと労働の場を提供するようになったようだ。彼女達は都市の主要産業である紡績業に参入する他、病人たちの世話をしたり、教会に祈りに行ったり、共同体内で教育を施していた。教育は、基本的には詩篇を学ぶ。
1200年より少し前のブリュッセルで、後にブラバンドのハデヴィヒと呼ばれる女が生まれる。そしてこの時代の神秘主義者の類に漏れず、この女は幼い頃に天啓を受け、詩やヴィジョンをテキストに書き起こしてきた。
女は貴族の出身と思われる程度にラテン語と詩学を修めているが、家名はわからず素性は知れない。1220年代には既にある程度の名声があったようだ。
ベギン会派に所属していたという話は直接的には説明されていないが、神秘主義的な考え方や共同生活についての言及によって推定されている。
全部で31通残っているハテヴィヒの手紙は送り先を明示していないものの何人かの女性とのやり取りで、多くの場合、三位一体や愛minneについて詩的に語っている。
ハデヴィヒのいう愛minneは神学的なものと恋愛的なものを合わせたものに見える。それは求めるものでありつつも惜しみなく差し出すもので、それを抱いたときに衝動的な感情に支配され、苦しみ悩み、乗り越えることで真の愛minneに辿り着くという。
そうした交流の中で、ハデヴィヒはサラを始め何人かの女を特別懇意にしていた。いつ頃からかサラとは疎遠になってしまうが、ハデヴィヒは変わらず彼女に思いを寄せていたようで、彼女に伝わるように手紙を書いていた。
「サラにも私の呼びかけを伝えて下さい。私にもあなたと同じ熱意があるのです。もし愛する彼女のために出来ることがあれば私は彼女のために全てやりますし、彼女がするように私は彼女のためにそれを果たすでしょう。
サラは孤独から来る私の悲しみを知らないでいるけれど、だからといって彼女を責めたい訳ではないのです。何故なら愛minneは彼女を安らげるものであって、彼女を戒めるものではないからです。それに彼女はいずれ新しい彼女の高貴な恋人に夢中になるのだから。
今、もし彼女が私の悲しみに耐える事が出来るなら、私の苦悩を許して下さい。
けれど惨めな環境にいる私にとって彼女自身こそが気晴らしであることも彼女は知っているでしょう。たとえ私が欺かれていたとしても、それはきっと確かです。だからこそあなた達は、心に傷を負っていない誰よりも私に(彼女のために出来ることを)要求することが出来ます。
けれどあなた達は私にとっては既に一緒です。あなた達の愛で私は満たされず、私の心、私の魂、そして私の意識は愛の動揺によって包み込まれていて、私には昼も夜も安らぎが有りません。私の魂は燃え上がっています。
あと、マルグレーテにも伝えて下さい。
(※中略)
私はある時、聖アウグスティヌスの説教を聞いたことがあります。私がそれを聞いたとき、私の胸の内で強く燃え上がるものがあり、私の心は地上の全てが炎の熱で焼き尽くされるかのようでした。
愛が全てなのですDe Minne es al」
その後、彼女達がどうなったのかは知れない。
サラに言及する手紙はもう一つあるが、こちらは手紙の贈り相手である誰かに対して
「私は心の底からあなたを睦まじく思っていて、それを受け入れています。あなたはサラと離れた後の人生の中で最も愛しい人です」
といい、ハデヴィヒは手紙の贈り相手を新しいパートナーと見做しているようだった。
他にも、中世の百合的な関係はトロバイリッツの詩の一つや、12世紀のテガーンゼー修道院写本の修道女が別の修道女に贈った手紙、そしてアルテナの女子修道院長がヒルデガルドに贈った手紙に見ることが出来る。
修道女関連が多いのは、それが女性中心のコミュニティであることだけでなく、彼女達が詩や手紙を扱える程度に知的階級であり、また修道院自体の史料の保存性が高いためである。
また中世の百合文学には「イダとオリーヴ」や「オリエントの女王」という作品がある。二作とも古代ローマの頃に書かれた変身物語と同じく片方が最終的に男体化する内容である。