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01.ヒルデガルドとリヒャルディス-始-

 1098年、神聖ローマ帝国のマインツ近郊ベルマースハイムの裕福な貴族の家に十番目の子供が生まれた。

 その娘の名前はヒルデガルド。語で、戦いの場を意味するという。

 のちに聖女ヒルデガルド・フォン・ビンゲンと呼ばれるようになる娘は、8歳で神に捧げられた。



 1106年のこと。

 ライン川流域の貴族シュポンハイム伯家の令嬢ユッタが14歳になると、多くの縁談が準備された。ユッタの父親はすでに亡く、伯爵位を継承した(※あるいはまだ正式に継承していない)兄メギンハルトにはまだ男の子が生まれていなかった。

 しかし活発で放浪癖があったというユッタは結婚を厭忌し、母親ソフィアによって神に仕える道が与えられる。


 8歳のヒルデガルドはユッタに随従した。ヒルデガルドの父がシュポンハイム伯家の遠縁で廷臣だったからだ。

 ヒルデガルドとユッタは未亡人の隠者ウダの下で宗教生活に入る。隠者と言うが、古い時代の隠者のように森の中で孤独に暮らしているわけではない。この頃の隠者は主に女性で、修道院の回廊やその近くの庵に引きこもりつつも、修道院規則に従う義務を課されず、病人への癒しや修練見習(novitiale)への教育、そして瞑想や裁縫をして暮らしていた。

 見習いの宗教生活は、祈りやヴィジル、断食で構成される。初歩的なラテン語の読み書きについてヒルデガルドはこの頃に学んだかもしれない。


 1111年、ユッタの母親ソフィアが亡くなる。

 その翌年、20歳になったユッタは成立して間もないエルサレム王国への巡礼を望むが、兄メギンハルトおよびその親縁バンベルク司教オットーの薦めによって14歳のヒルデガルド、そしてユッタの姪と共にディジボーデンベルク修道院に入った。


 7世紀の聖人ディジボード縁の地であるディジボーデンベルクの修道院は戦乱により打ち捨てられていたが1108年にベネディクト派修道院として再興したという「設定」で、この修道院は設立されることになった。

 1108年、マインツ大司教ルサルドの指導によってマインツとヒルザウの修道士たちが集められてこの修道院の共同体が結成され、修道院の建設が始まる。この計画は、神聖ローマ皇帝に対して教皇を支持する大司教と、1125年の皇帝選挙で近縁のロタールを支持したシュポンハイム伯家の結びつきを示す。

 女子のための修道院の建設運動は11世紀から活発になった。社会上層の男女人口比の偏りに加えて宗教的な理由つまり近親婚や離婚の禁止によって引き起こされたこの状況において、貴族の女性の入信は7-8世紀頃の結婚を拒否する聖女たちの伝説を流用することで正当化された。

 1112年11月1日、修道院の祭壇で修道院長ブルヒャルトの祝福を受けてヴェールを被り、3人の見習は修道女になる。



 修道院の女子回廊は、シュポンハイム伯家の寄進によって建設された。ユッタの実家シュポンハイム伯家からの寄進は度々行われている。修道院が庶民から10分の1税を取り立てるための領地も提供された。

 世俗的な地位の高いユッタは教導者(magistra)として、修道女たちを教え導く立場になった。伝記によればヒルデガルドは詩篇と音楽についてユッタから学んだという。


 ベネディクト会派の修道院は、厳しい規律の下に規則正しい修道士生活を送ることを是とする。ドイツにこの会派が伝わったのは11世紀後半だった。

 この会派の日常生活は細かいスケジュールによって縛られていて、修道院衰退期には全く守られなくなる厳格な規則も当時は厳守された。

 朝は2時起きで、冬の就寝は18時過ぎ。夏は20時まで起きているが昼休みがある。祈りの時間は一日七回で、2~3時間置きに讃美歌を歌ったり詩篇を唱える。女性は隔離されていて修道院身廊での聖体拝領に参加することは出来ないが、聖体を見ることの出来る場所で祈っていたかもしれない。ユッタは裸足に襤褸を着て、日々静かに読書し、詩篇を暗唱していたという。ユッタから教育を受けていたヒルデガルドは彼女の近くにいたのだろう。

 またベネディクト会派は修道女の労働として裁縫を割り当てる。

 食事は正午と夕方の2回。修道女たちは食堂の同じテーブルで揃って食べる。食事内容はパンと豆スープになるばずだが、もう少し豪勢だったかもしれない。

 ただユッタは倹約的で、テーブルの残り物を食したという。また伝記によればユッタは病に伏す中で肉を拒否したため注意されたこともある。ベネディクト会派では通常時は動物の肉を食べることを禁じていたが、病人には許されていた。


 修道女たちはいくつかある小部屋に一人ずつ宛がわれる。女子の建物は他と隔離されていてはいたが、完全に分離していたわけではないようだ。

 石造りの壁に備えられた小窓から訪問客と面会し、また必要なものを受け取るが、年寄りの世話係がドアから入ることもある。修道院長にも小部屋に入る権利があった。祭壇の聖体拝領を伺うことの出来る外窓から修道士と知り合うことも出来ただろう。

 また特定の人々は癒しを求める患者たちを祝福するために立ち会った。権威ある人々、そして貧しい人々がユッタに会うために修道院を訪れていたという。

 足を濡らさずにグラン川を渡ったというユッタの伝説は、彼女が何かの機会に外出していたことを示すが、その一方で毎日詩篇を暗唱していたり、身体を鉄の鎖で縛っていたという伝記の記述は殆ど小部屋に引きこもっていたことを想像させる。



 1136年12月22日、ユッタは45歳で逝去した。ヒルデガルドは10人ほどいたユッタの弟子の中から選び出されて教導者(magistra)を継いだ。それからすぐにユッタの伝記が作成される。この作成にヒルデガルドが関わっていた。


 1141年、42歳のヒルデガルドは天啓を授かる。

 ヒルデガルドは躊躇うものの、たまたま病を患い、そこで神意を察して彼女の最初の著作スキヴィアスの執筆にとり掛かる。彼女の筆力を補うために親しい男性の修道士ヴォルマールが執筆を代行し、そしてヒルデガルドの補佐として修道女リヒャルディス・フォン・シュターデが寄り添っていた。

 1141年当時、リヒャルディスは17歳。ヴェールを被った日は不明。彼女はザクセン有数の高位貴族ノルトマルク辺境伯及びシュターデ伯家の令嬢であり、ユッタとは血縁関係にあった。

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