コミックス発売記念SS レオの悩み
宰相の執務室。
その机に座っているのは宰相、レオ・サントリナだ。
しかしいつもであればひたすら政務をこなすレオの様子が、今日は違っていた。
氷のような冷酷さと狼のような圧力で周囲を圧倒しているその目を閉じ、腕を組んでただひたすら瞑目していた。
レオには目下、大きな悩みごとがあったからだ。
だがその悩み姿は世の女性が見れば嘆息することは間違いないほど様になっていた。
「……」
「……あの、宰相様?」
腕を組むレオに文官が恐る恐る訊ねる。
静かにレオの目が開かれる。
「ひぃっ!?」
貫くような鋭い視線に話しかけた文官が小さく悲鳴を上げた。
しかしレオは意外にも平坦な声色で文官に問いかける。
「すまない、考え事をしていた。どうかしたのか」
考え事の最中に話しかけて激怒されたのではないとわかり、文官は安堵した。
そして同時にこころの中で『考え事をしてたらここまで怖い顔になるのか』と思いながら、言った。
「いえ、その……政務が滞っていらしたので……」
「……」
レオは視線を机に落とす。
そこには大量に積まれた書類が置かれていた。
すべて考え事の最中に増えたものだ。
レオは無言でペンを手に取り、政務を片付け始めた。
ペンを取り仕事を始めるとみるみるうちに山積みになっていた政務が減っていく。
文官はその仕事ぶりを感嘆して眺めながら、逆にレオをそこまで悩ませている悩み事に興味を持った。
どのような面倒くさい書類仕事という名の難敵にあたったとしても、獣が戦いの中で即座の判断で相手の弱点に噛みつくように、要点をつかんで仕事を処理するレオのその姿は、文官が全員見習いたいと思っていた。
即断即決を基本としているレオがそこまで悩んでいることとは一体何なのか。もし国政に関わる重要な事柄であれば、知る必要があると文官は好奇心半分で訊ねた。
「その、宰相様は何を悩んでいらしたのでしょう」
レオの動きがピタリと止まった。
「……」
「も、申し訳ございません! 不躾な質問でした!」
長考するレオに文官は今度こそ無礼な質問をしてしまった、と慌てて謝罪する。
しかし返ってきたのはまたもや意外な答えだった。
「いや、俺も助言がほしい」
「えっ」
文官は顔を上げる。
(まさか宰相様が助言を欲しがるなんて、そこまで重要な事柄だったのか? 一体国政のどれだけ重要な部分を……いや、国の将来を左右するほどのことなんじゃないか?)
文官は深刻そうなレオの表情にごくりとつばを飲み込む。
「ソフィアが、俺と顔を合わせてくれないんだ」
「………………はい?」
文官は素っ頓狂な声を上げた。
国の未来を左右するような重要な事柄について聞いたつもりが、まさかレオからそんな言葉が飛び出してくるとは思わず、文官は思考をフリーズさせた。
そして文官にとっては、レオがそのようなことで悩んでいるというのも非常に驚きだった。
氷狼宰相として知られるレオが婚約者のことについて頭を悩ませているなど、イメージとかけ離れているからだ。
(どうする。いや、落ち着け。国政を左右する重要な事柄であることには間違いはない。なぜなら宰相様の手が止まっているからだ)
現にレオの手は今止まっていて、仕事が溜まっていることには間違いない。
レオが本気を出せばすぐに終わる量であることは知っているが、文官は無理やりそう考えることで色々なものを抑え込んだ。
「……ええとたしか、ソフィア様は宰相様の婚約者様、でしたよね?」
「そうだ」
レオが首を縦に振る。
「どうして婚約者様は顔を合わせないのでしょうか」
「恐らく、以前上半身裸になっているところを見られたからだ」
「待ってください。どういう状況ですかそれは」
文官はツッコまざるを得なかった。
「鍛錬の途中にソフィアが来た。俺はちょうど汗を拭っているところだったからソフィアは俺の裸の上半身を見てしまった。その日からソフィアが目を逸らすようになった」
「……なるほど」
状況が飲み込めてきた文官は頷く。
文官は一週間ほど前、レオを尋ねて執務室にやってきたソフィアに、レオは鍛錬しに行っていることを教えたことを思い出した。
あまり男性慣れしているようには見えない令嬢だった。
レオの裸体を見て目が合わせられないほど赤面してしまうのも無理はないだろう、と文官は心の中で結論付けた。
(さて、これはどうするべきか……)
文官は考える。
レオに「それはあなたが上半身裸だったからですよ」と伝えるのは簡単だ。
だがそれは求められている答えにはなっていない。それにそのことを伝えるのはなんとなく違うような気がした。
文官は悩んだ末、何を言うか決めた。
「宰相様、そういうときは時間が解決します。解決をお急ぎになる必要はないかと」
「そうか?」
「ええ。そういうものです。もしどうしても、というなら直接原因をお聞きになってみては?」
レオは文官の言葉を聞いたあと、真剣な顔で頷いた。
「なるほど。助言感謝する」
レオはまた高速で書類仕事を処理していく。
文官は「これでなんとかなるといいのだが」と心の中で呟いた。
***
「どうしよう、うまくレオ様と顔を合わせられなくなっちゃった……」
自分の研究室の机で、ソフィアは突っ伏していた。
いつもなら寝食を忘れて没頭できる魔術の研究にもまったく身が入らない。
理由は一つ、一週間ほど前にレオの裸体を見てしまったからだ。
婚約者としてはあれくらいで動揺するようなことでもないのかもしれないが、魔術の研究一筋で生きてきたソフィアにとっては刺激が強すぎた。
あれ以来、まともにレオと顔を合わせて話せなくなってしまった。もちろんソフィアも頑張ってレオとまともに顔を合わせられるように頑張ったがどうしても無理だった。
(レオ様もたぶん気がついてる、よね……)
当の本人であるレオが目をそらされているということは一番良く理解しているはずだった。
どうにかしなければならないことはソフィアもわかっているが、どうすればいいかわからなかった。
コンコン、と扉がノックされる。
「はい」
ソフィアは返事をする。
扉を開けて入ってきたのは──レオだった。
「レ、レオ様……っ!?」
ソフィアは椅子から慌てて立ち上がる。
レオと目があった。
途端に顔がかぁっ、と熱くなり、ソフィアは咄嗟に目を逸らす。
どうしても目を合わせることができない。
「レ、レオさま、一体なんの御用でしょうかっ」
せめて黙っているだけなのはやめようと、ソフィアは必死に言葉を絞り出す。
声が上ずってしまった。
「ソフィアの顔を見に来た」
「は、はい」
「元気そうでよかった」
「え、えっと、はいっ」
ソフィアは上ずった声で答える。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が降りる。
この一週間の流れではこのあと、レオは微妙な空気を察して、ソフィアに気を遣って帰っていく。
しかし予想に反してレオはソフィアへと向かって歩き出した。
ずんずん、とレオがソフィアに向かってくる。
「えっ? えっ?」
ソフィアは目を泳がせながら後退りする。
だがすぐに壁際に追い詰められた。
レオがソフィアを壁に追い詰めた。
加えて壁に手をついて逃げられないように退路を断つ。
その端正に整った顔がソフィアに近づく。
世の女性から『氷』と称えられるその透き通った青色の相貌で、ソフィアを獲物を逃さない狼のように見つめている。
加えていつもは紳士的なレオが、普段と違い少し乱暴な仕草を取っているということもあり……
「ぴょはぁ……っ!?」
ソフィアの口から変な声が漏れた。
「あああ、あのっ、レオ様!? これはいったいどういう……」
顔を真っ赤にしたソフィアはガタガタと震える。
そんなソフィアを見てほんの少しだけ眉を下げたレオは、
「……俺のことが嫌いになったか?」
と訊ねてきた。
「はいっ!?」
突拍子もない質問にソフィアの思考がフリーズする。
「あ、あの、どうしてそんなことを」
「ソフィアが俺から顔を逸らすから」
(わ、私のせいかぁーっ!)
ソフィアは頭を抱えたくなった。
「そ、そんなことはありません! 私がレオ様を嫌いになるなんてそんなことは決してありません!」
ソフィアは必死に否定するが、それでもレオの顔は晴れなかった。
「……なら、どうして俺と目を合わせないんだ?」
「そ、それは……」
ソフィアは言い淀む。
しかしこのまま黙っているわけにはいかない、と理屈抜きでソフィアはそう思った。
意を決して言った。
「せ、先日レオ様の刺激が強すぎる裸を見てしまったせいで気恥ずかしいのですっ!」
「……」
レオは驚いたように目を見開いた。
そしてソフィアから顔を離してしばらく考えるように顎に手を当てたあと、頷いた。
「……そうか、すまなかった。今後は、気をつける」
「わ、私もごめんなさい。これからはレオ様の顔をちゃんと見て話すようにします」
ソフィアはそう言ってレオと目を合わせた。
しかしすぐに顔が赤くなっていき、ぷるぷると震え始める。
そんなソフィアを見てレオはほほ笑みを浮かべ、言った。
「無理に目を合わせずとも、ゆっくりでいい」
それからソフィアがレオと目を合わせられるようになったのはさらに一週間が経った頃だった。
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