3話 老人を助けた結果
馬車はもうスピードで老人の男性に迫っている。
馬は暴れており、御者では制御ができないようだ。
老人の男性にあたれば、もちろん老人はタダでは済まないだろう。
最悪命を落とすかもしれない。いや、確実に落とすだろう。
それだけではない。老人は胸を押さえている。何か病気の可能性が高い。
「っ!」
ソフィアの判断は早かった。
傘と手に持っていた物を放り出し、老人へ向かって走り出した。
「『風噴射』!」
そして背中から竜巻状の風を翼のように出して加速する。
風の轟音と共にぐん、と体に慣性の力が加わる。
「お爺さんっ!」
すんでのところで老人を抱きかかえる。
そしてソフィアは馬車に轢かれる直前で老人を助けることに成功した。
「はあっ……! はあっ……! 大丈夫ですか!」
ソフィアは息切れながら老人の安否を確かめる。
馬車にどこかぶつけたかもしれないし、それにさっき老人は胸を押さえていた。
今すぐに病院に連れて行かなくては──。
「ああ、大丈夫じゃ」
しかし、老人は意外にもケロッとしていた。
「えっ?」
「お前さん、助けてくれてありがとう」
「あの……えっと、さっき苦しそうに胸を押さえていませんでしたか?」
あんなにも苦しそうにしていたのに全くそんな様子はないのでソフィアは老人へ質問した。
「ああ、あれは持病でな。急に胸が苦しくなったんじゃがもう大丈夫じゃ。心配ない」
「そ、そうなんですか……。でも、無事で良かったです」
何にせよ老人が無事で良かった、とソフィアは胸を撫で下ろした。
だが反対に老人は申し訳なさそうな表情でソフィアの後ろを指差した。
「申し訳ないのう。それは大切な物だったんじゃないのか?」
「え?」
ソフィアは後ろを振り返る。
「あ……」
そこには雨のなか放り出され、『風噴射』で吹き飛ばされたため、辺りに紙が舞い散り、水に濡れたりと大惨事になっていた。
殆どが水浸しになり、恐らく文字も読めなくなっているだろう。
この紙束はソフィアが研究所にいるための最後の頼みの綱であり、命綱でもあった。
しかし。
「全然気にしないでください! 無くなっても大丈夫な物なので。それよりもお爺さんの命の方が大切ですよ」
ソフィアはワザと明るい笑顔で気にしていないと首を振る。
助けた相手に気を遣わせたくはなかったからだ。
「申し訳ない!」
その時馬車から貴族と思わしき高価な服に身を包んだ紳士が慌てた様子で降りてきた。
「いきなり馬が暴れ出して手がつけれず、申し訳ない! どこか怪我はありませんか!」
紳士は私と老人にどこか怪我がないか確認する。
「大丈夫じゃ、この子が魔術で守ってくれたからの。大した使い手じゃ」
「いえ、私はそんな……」
「確かに、私が言うのも何ですが、先ほどの魔術の腕は見事でしたな。いや、そんな話をしている場合ではありませんでした」
紳士は頭のハットを取り、老人とソフィアに頭を下げた。
「あなたのようなご老人に危害を加えそうだったお詫びをしたい。どうか私の家で歓待を受けてはいただけませんか」
「ほほ、それでは言葉に甘えようかの。それで、君はどうする?」
「えっ? 私ですか?」
「もちろん、あなたにも謝罪させていただきたい。私のせいであなたの荷物を台無しにしてしまったのだから」
「いえ大丈夫です! これは大した物ではないので」
ソフィアはそれを固辞した。
本当は大した物だがもう戻ってこないし、歓待も侯爵家の自分の家でいくらでも同じことができる。
それに今すぐに帰ってお風呂に入って寝たいというのが本音だった。
紳士と老人はそれでもしつこいくらいにソフィアに勧めたが、ソフィアは全く頷かなかった。
先に折れたのは紳士と老人の方だった。
「そこまで言うなら」
「仕方がないのう……」
紳士も老人も残念そうにしていたが、諦めて馬車に乗り込む。
そして紳士と老人を乗せた馬車は走り出した。
さっきまで暴れていた馬は落ち着いたのか、今度は大人しくゆっくりと歩いていた。
ソフィアはその姿を笑顔で見送って、老人の姿が見えなくなると暗い表情になった。
「……」
ソフィアは散らばった紙を拾い上げる。
その時に望みをかけてまだ書いた文字が読めないか確認するが、どの紙も水でインクが滲んで全く文字が読めなくなっていた。
老人を助けたのは後悔していない。
「…………はぁ」
だがそれとは別に、ソフィアは肩を落としていた。
これが自分の将来を左右する、大切なものだったのは間違いないのだ。
「どうしよう……」
研究所に戻るための最後の命綱が消えたソフィアは呆然と呟く。
そして水浸しになった最後の一枚を拾い集めると侯爵家の屋敷へとふらふらと歩いて行くのだった。
馬車が走り始めてからしばらくして、老人が話し始めた。
「ううむ……断られてしまったか。このまま王宮に連れて行くつもりじゃったのだが」
「……それ、まだ続けるんですか」
紳士が老人にそう尋ねると、老人はニヤリと笑った。
「それにしても、やはり気づかれなかったな」
老人の声がさっきまでのしわがれた声から、深く渋い響きの男性の声へと変わった。
対面に座っていた紳士はため息をつく。
「あなたも無茶をなさいますね」
「なに、バレはしないさ。これでも変装魔術は私が最も得意とする魔術なんだから」
そう言うと、老人の体からペリペリと皮膚が剥がれ始めた。
細かく剥がれた皮膚や髪は光となって空気に消えてく。
そして老人が座っていた場所には、一人の四十代ほどの年齢の男性が現れた。
「だから流石に気が付かれては困る。──私が国王だとはね」
彼の名前はユリオス・エーデルワイス。
この国の国王だった。
「確かに貴方の変装魔術に気づく人間はこの国にはわずかでしょう。ですが、私が言っているのはそのことではありません。ご自分で馬車に轢かれそうになる演技をなさったことです」
紳士が言っているのは馬車に轢かれそうになるという危険な演技を行ったことだった。
国のトップが自ら轢かれに行くのは少々肝が冷える。それに加えて紳士は国王を轢く演技までさせられたのだから、一言ユリオスに言いたくもなるだろう。
「危なくなれば自力で脱出するさ。私は一流の魔術師ではないとはいえ、それくらいの技量はある」
「確かにそうでしょうが……代わりの者を使っても良かったのでは?」
「やはり自分で見極めたくてね。だがそのおかげ様々なことに気づけたよ」
「たとえば?」
「彼女の魔術の腕は一級品だ。私を助けるところを見ただろう?」
「はい。見事な『風噴射』でした。同じ魔術とはいえ魔術を二つ同時に発動するとは普通の魔術師より優れていることは間違いありません。それに二本同時に噴射することで速さを保ちならが姿勢を制御する技量も──」
「そうじゃない」
「はい?」
「考えてみろ。私はあの速さで抱き抱えられたんだ。どこか怪我をしていてもおかしくない。それなのに私が抱えられた時、痛みすら感じなかった。と言うことは──」
紳士はハッと気づいた。
「三つ以上同時に魔術を発動させた上に、ユリオス様を抱える時にそんな微細な調整を……!?」
ユリオスはニヤリと笑う。
ソフィアは一流の魔術師でも難しい三つ同時の魔術の発動に加え、細かい調整までできる余裕まであったのだ。
あの咄嗟の場面で。
紳士はごくりと唾を呑みこむ。
「それにしても、まさか躊躇なく捨てるとは……あれは研究所に残るための最後の希望だろうに」
ユリオスは老人に扮した自分を助けるために、躊躇いなく自分の命の次に大切であろう研究成果を投げ出したソフィアを心の中で賞賛していた。
「他人のために自分の将来でも投げ出すことができる善性。それに加えて“あの魔術”の発明までした稀代の天才……。やはり魔術を奪って満足しているバカ息子の婚約者などではなく、彼女には相応しい場所がある」
ユリオスは馬車の窓から外を見る。
雲の切れ間からは光が差し込んでいた。