2話 冤罪と婚約破棄
それは突然だった。
昨日、結局デルムにさせられた仕事が終わらず、徹夜をしたソフィアは頭がほとんど働いていない状態で紙束をデルムの研究室まで提出しに行った。
ソフィアがデルムに対して書類を提出すると、デルムはその紙束に目を通して、舌打ちをした。
「何だこれは! 全くできていないじゃないか!」
「えっ」
デルムは廊下中に響く声でソフィアに対して怒鳴り出した。
デルムの叫ぶ声を聞きつけて、次々と人が集まってくる。
「どれもこれもミスだらけだ! よくこんな状態で俺に渡してきたな!」
そんなはずはなかった。
ソフィアはミスがないように確認してから渡している。それは紙束に目を通しているデルムも知っているはず。
つまりデルムはソフィアがミスなんかしていないのを理解して怒鳴っているということだ。
デルムはソフィアを陥れようとしている。
「分かったぞソフィア! お前はワザとこんなものを渡して俺を陥れようとしているんだな」
「ち、違っ……」
ソフィアは否定するがデルムはそんな言葉を聞き入れたりはしない。
「全く……そんなに俺が新しい魔術を発明したのが気に食わないのか。何か成果を出したいという気持ちは分かるが、これは流石に目にあまる……」
周囲の研究者たちは厳しい非難をこめてソフィアを見ていた。
これがソフィアとデルムの研究者としての信頼度の違いだった。
「違います! 私はそんなことをしていません!」
ソフィアは無実を訴えるが、廊下に虚しく響くだけでソフィアを擁護する人間は現れなかった。
そんなソフィアを見て、デルムは小さく笑っていた。
それに気づいたのはソフィアだけだった。他の研究者たちはデルムが正しいことをまるで疑っていない。
「ソフィア・ルピナス! お前は嫉妬心から俺が魔術の権利を奪ったと嘘をつき、その上デマを言いふらした! お前の醜い嫉妬心にも、虚言癖にもうんざりだ! 俺はお前との婚約を破棄する!」
そして、デルムはソフィアとの婚約を一方的に破棄した。
「そんな……私と婚約破棄するなんて、他に相手だって……」
「俺は新たにロベリア・オーネスト公爵令嬢と婚約する」
「えっ? だってロベリア様は……」
ソフィアは驚いた。
なぜなら、ロベリア・オーネストは昨日廊下でぶつかったレオ・サントリナ宰相の婚約相手だったからだ。
その疑問の答えはデルムが話し始めた。
「あちらも宰相殿に酷い扱いを受けていたそうだ。そのため宰相殿との婚約破棄をして、俺と婚約を結び直すこととなった」
(このタイミングで婚約破棄したのは、ロベリア・オーネストと婚約するためか……!)
ソフィアはデルムの目的を理解した。
(大声で叫んだのは、人目があるところで婚約破棄の宣言をするため……)
ソフィアとデルムの婚約は王命によるものだ。本来、婚約は簡単に破棄できるものではない。
しかし公衆の面前で婚約破棄宣言をして、代わりにロベリアと新たに婚約すると宣言すれば強引にでも話をそちらに持っていけると踏んだのだろう。
デルムはふん、と鼻を鳴らす。
「元々お前は俺と釣り合いが取れないと思っていた。侯爵家の分際でろくに成果も残さず、ただ俺の王子という地位にしがみついているだけ……挙げ句の果てには俺が発明した魔術までも奪おうとする。もううんざりだ」
「それは、デルム様が……!」
ソフィアが研究成果を残せなかったのは朝から晩まで休みなく働かせて研究する時間を奪い取り、挙句の果てには研究成果までも奪って行ったからだ。
ソフィアはそう主張しようとした。
「何だ、まさか俺のせいだとでも言うのか?」
デルムが挑発気味に聞いてくる。
ソフィアは歯噛みをした。
今ここで真実を訴えようとも、誰もソフィアの言葉を聞き入れないだろう。
魔術に対する研究のメモを見せて自分の魔術が奪われたことを主張したとしても、後から捏造したのだと言われるだけだ。
研究者たちだって、信じようとはしないだろう。
それが分かっているからだろう、デルムはニヤニヤと卑しい笑みを浮かべてソフィアを嘲笑っていた。
「……っ!」
ソフィアは悔しさに拳を握りしめる。
何か良い案はないかと必死に思考を巡らせるが、三日徹夜しているソフィアの頭はまともに動かない。
「醜い足掻きは終わったようだな」
ソフィアが黙ったのを見計らってデルムは一方的に話を終わらせる流れに持って行き始めた。
もちろんソフィアは認めていないため、もう一度抗議をしようとする。
「私は──」
「くどい! お前の婚約破棄は決定だ!」
ソフィアの言葉をデルムは遮る。
「早くこの国立魔術研究所から出ていけ! お前に与えていた研究室も没収する!」
「なっ……!」
研究室とはあの小さな雑用部屋のことだ。
しかしソフィアにとってはあれが唯一の研究室だった。
それがなくなるということは即ち研究所で魔術の研究ができなくなるということを意味する。
魔術の研究が生き甲斐であるソフィアにとって、それは耐え難いことだった。
「ま、待ってください! それは……」
「お前の言葉など聞きはしない! ここから去れ!」
デルムがそう言うと、研究所の中でデルム派閥に所属している研究者がソフィアを糾弾し始めた。
「そうだ! いつまでデルム様に迷惑をかけるつもりだ!」
「デルム様の魔術を盗もうなんて、無駄なんだよ!」
浴びせられる罵声。
ソフィアはただ立ち尽くすことしか出来なかった。
そして、ソフィアは研究所から追い出された。
デルムは人事権を持っていないため本当に国立魔術研究所をクビになったわけでは無いが、無理やり外に追い出されてしまったのだ。
研究所の外で、ソフィアは立ち尽くす。
「…………」
その時、ポツリと頬に雫が落ちてきた。
ソフィアは空を見上げる。
空からは雨が降ってきていた。
「…………帰ろう」
ソフィアは持っていた紙の束が雨に濡れないように自分のローブで包む。
手元に残されたのは、少量の紙の束と、研究材料だけ。その他は全てデルムの派閥の人間が持っていってしまった。
「良かった。まだ未発表の研究は守れた……」
まだ研究段階で未発表の魔術が書かれている紙は持って帰ってくることができた。
そのことにソフィアは安堵のため息をつく。
「でも、明日からどうしよう。新しく研究室を借りないといけないけど、ろくに成果がない私じゃ新しく研究室を借りるなんて……」
加えて、今は冤罪だがデルムの魔術を盗もうとしている、と言う悪い評判までついている。
このままでは確実に研究所を借りることはできないだろう。
ソフィアは思考を巡らせる。
しかしどれだけ考えても出てくるのは「詰み」という答えだけだった。
「いや、この研究を家で完成させて提出すれば一つくらい研究室が借りれるはず」
ソフィアは首を振る。
寝不足だとどうしてもネガティブな思考が頭の中を支配してしまう。
(駄目だ。早く家に帰って寝ないと頭が働かない……)
ソフィアは改めて自分の研究所に残るための最後の命綱である書類をぎゅっと握りしめた。
その時だった。
「馬が暴れ出したぞっ!」
誰かが叫んだ。
ソフィアは声の方向を向く。
「っ!」
そこには道の真ん中で胸を押さえて蹲る男性の老人と、その老人に馬車が猛スピードで迫っているところだった。