ウシノクビ
俺、向田渉16歳。
多分、今が初恋。
文化祭の準備を好きな子とできて嬉しい。
その子は山岸京子さん。休み時間に本を読んでいる姿がとても綺麗だ。
先月転校してきたとき、担任の隣に立っている彼女が輝いて見えた。
黒くて長い髪。制服のスカートから見える足や手首には包帯が巻かれていた。
家が火事になって祖父母の家で暮らしていると、どこからか聞いた。
余計に神秘的に思えた。
転校してきて数日は、女子も男子も彼女の周りを取り巻いて、いろいろと話しかけ情報を得ようとしていたけれど、静かな微笑みで何も答えないので諦めて散っていった。
授業での問いかけや日常会話には参加するので、詮索されるのが嫌いなのだろうと、なんとなく皆で納得をした。
そんな山岸さんと一緒に文化祭の実行委員をやることになった。
夕方も遅い時間に一緒に文化祭準備の書類の準備をしている。
静かな二人だけの教室で作業をする音だけがしている。
窓の外はまだ明るい。塾も今週はお休みだ。
こんな時、何か面白いことを言えればいいのに。
そして、一緒に笑いあいたい。
もうすぐ資料は出来上がってしまう。この二人の時間も会わってしまう。
何かないかな。
僕は姉に聞いた話を思い出した。
「ねえ。ウシノクビっていう怪談知っている?」
「知らない」
「誰も知らないんだよ。知ったら死んでしまうのかな?恐ろしいことは確かにあった。でもそれは誰も知らない。気づかれない。気づいても口に出してはいけない。そんな内容なんだ。何だか分からないよね。おかしいよね」
「ああ、なるほど」
「意味が分かるの?」
「わかる」
「え!嘘」
「ならば、ウシノクビを話そうか」
「知っているの?」
「そう。私のウシノクビだよ。聞きたいでしょう。君にだけ教えてあげる」
ゾクゾクした。切れ長の瞳は今は僕を捕えている。
黒く濡れたような瞳に飲まれそうだ。
彼女がふいと横を向いた。夕焼けに染まる教室。逆光で少女の形の黒い影が話し出した。
私の死んだ両親は実の兄と姉なの。
そして、私は小さいころから父に性的虐待を受けていた。
いや、本当に愛してくださったから、私は虐待を受けているとは気付いていなかった。
母には黙って、居ないときに愛し合う行為をした。
とても優しくしてくれたから、私はただ快楽を楽しんでいた。
父は、自分を産んだ母親を愛したそう。でも、その思いはかなわず面影のある妹を愛した。そして、娘の私はもっと実の母親に似ているのだと言っていた。
でもね。初めて恋をしたの。
相手は同じクラスの普通の男子。私と同じ本の作者が好きで、私の好きそうな本を教えてくれた。その本は全部面白くて夢中になった。
感想を言い合って、笑いあって、また本を貸してもらうの。そのうち好きになっていた。
向こうは、前から私の事が好きだったと言っていたわ。
手をつないだ時、彼の手は汗で湿っていた。
キスをした。彼の指は冷たくて緊張しているんだと気付いた。唇も震えていた。
その時に気づいたの。
私が父親としている行為はおぞましい事なのだと。
自分が汚れていると知ってしまったの。
丁度すぐ後に、私の妊娠が分かった。
生理が来なかった。検査薬で確認したら陽性と出た。
父を憎んだ。
私の身体を私が知らないうちから勝手にされた事が悔しかった。憎かった。
だから、家庭が壊れるのを承知で、母に妊娠したことを伝えた。
母は兄である父を愛していたから、憎しみは私に向いた。
父が居ないときに、水風呂に入れられたり、腹を蹴られたりした。
父が家に居る時は、両親は蛇のように獣のように交わり続けていた。
何かにとりつかれたような母に最初は怯えていた父も狂気に馴染んで、それに応えるようにより大きな狂いに身を投じたようだった。
家は荒れ果て、仕事にもいかなくなった父と母が寝室以外でもキッチンやリビングや玄関ででも常に裸で絡み合っていた。
私はお腹が痛くなって動けなくなり、気が遠くなった。
気が付いたら、股が気持ち悪かった。肉片が足の間から出ていた。
どれが胎児だか分からない肉の塊を産んでいた。
その時、私は何を感じたんだろう。
何を思ったんだろう。
私の産んだ血肉をまとめてタオルに包んだ。
綺麗なお菓子の箱に入れた。
そして、箱を燃やしたの。お葬式をしなきゃいけないからね。
そこは和室だった。
奥の寝室では扉を開けたまま両親が交わっていた。
和室は良く燃えた。あっという間に炎に包まれた。
家は1週間掃除も洗濯もしないゴミが溜まっていたから、炎は色々なものに引火して家中に広がっていった。
私はキッチンに行って、水を飲みながら炎を見ていた。
父の悲鳴と母の笑い声が聞こえた気がした。
別にどうでもよかった。
私も死ぬのだと思った。
煙が苦しくて、炎はキッチンにはまだだけれど、凄い熱さだった。
気が付いたら私は病院のベッドの上だった。
初めて見る祖父母が目の覚めた私に気付き喜んで泣いていた。
そして、父と母が私を巻き込んで無理心中をしたところ、火事に気付いた隣のおじさんが玄関から近い場所にあったキッチンに倒れている私を助け出してくれた。
そう聞かされた。
それからしばらく入院して、警察も来て色々聞かれたけれど、
私は「お母さんとお父さんはずっと二人きりで話し込んでいて、私には何も教えてくれませんでした」と応えただけで、後は警察が自分たちで適当に事件結果というものを出していたみたい。
……祖母はお祖母ちゃんだけれど、若くて優しくて綺麗な人だわ。
父は、本当はあの人だけを愛していたのでしょうね。
僕は相槌も打てずに聞き入った。
背中は変な汗でびっしょりだ。
横を向いて話していた山岸さんが、僕に向きなおった。
「これが私のウシノクビ」
静かな瞳だった。
あんなに激しい内容だったのに淡々と語り、今は微笑を浮かべて僕を見ている。
口の中が乾いている。何度もつばを飲み込んだ。
「さあ、準備は全部終わったわね。遅くなってしまったけれど、帰りましょう」
何事もなかったように山岸さんは言った。
うなずくしか出来なかった。
プリントを教壇の机の上にまとめて僕たちの仕事は終わった。
窓の外は真っ暗だ。
山岸さんは先に荷物を持って教室を出ようとしていた。
「ねえ」
僕の声はかすれていた。
「なんで、僕に話したの?」
山岸さんはドアのところで立ち止まり、教室の電気を消した。
廊下の電気は明るい。振り返って言った。
「初恋の人ね、あなたに少し似ていたの」
教室は暗くて、山岸さんの顔は見えなかった。
でも、気のせいかな。なんとなく声が震えていた気がする。
ドアの外に出て、足音も遠ざかって行った。
僕はぼんやりしながら家に帰った。
翌日、山岸さんは学校に来なかった。
夕方のホームルームで担任が言った。
「山岸さんの家が昨夜火事になり全焼しました。お爺さんお婆さんと、山岸さんと思われるご遺体が見つかったそうです」
僕は息が出来なかった。
ホームルームが終わり、皆がガヤガヤ話しながら、女子は泣いたりしながら帰って行く。
僕も鞄を持ち席を立ったところで担任から声をかけられた。
「おい、向田。ちょっと良いか」
「はい」
「お前、昨日の夕方、山岸さんと最後まで一緒だったろう?何か変わったことはなかったか?」
一瞬で色々なことを考えたけれど、口から出たのは、
「いえ。特に変わった感じは受けませんでした」
だった。
担任は「そうか」と言って帰してくれた。
僕の……僕のウシノクビが出来てしまった。




