9話目
とはいえ勉強とは飽きるものであるからして。
お昼になるころには、グラフェンはすっかり椅子に仰け反ってしまっていた。
「もーーーー、むりぃーーーー」
「キリのいいところまでやるぞ。あと7ページ」
「いやだ!」
「ガキみてぇなこと言いやがる」
「逆になんでそんなにやる気なんですか! 意外すぎる!」
「俺は元来真面目な男だ」
「はんっ!」
鼻で笑うと、頬をつねくりまわされる。
「正装も着崩しておいて、なにが真面目なんですか!」
「ああいう服は窮屈なんだよ!」
「ほら真面目じゃない!」
「もう教えるのやめようかなー」
「すみませんでした、ごめんなさい。でも、とにかく紅茶でも飲みましょ。私が作りますから。温かいミルクティー作りますから、外の風に当たりましょ」
「しょうがねえなあ」
律儀に栞を挟んでから本を閉じるナノホーン。本当に、まだまだ意外に几帳面なところがありそうだ。
「じゃあ紅茶作ってきますから待っててください」
「俺も行く」
「厨房に行くだけですよ?」
「いいだろうが、別に! ていうか、付いて行きてえわけじゃねえよ! ふたりで歩き回ったほうが庭に出るのに楽だからだろうが!」
「ですね」
うんと伸びをすると、背中がパキパキと鳴った。
厨房に向かうと、厨房は戦場のようだった。昼前とあって、なにを作れ、なんの盛り付け、なにを添えろ、指示が飛び交っていて、グラフェン達が入ってきても気にしていられない、そんな感じだった。というよりは、また勝手になにかしていくんだな、という諦めも孕んでいた気もする。
料理の最中のシェフ達をくぐり抜け、隅っこでミルクティーを作りながら小声で会話する。
「すごいですね」
「ここで王家と使用人全員分の食事を作ってるからな」
「ひぇー!」
いったい、同じ皿をいくつ作るのだろうか。考えただけで目が回りそうになる。
グラフェンはこれまた勝手にミルクと茶葉を拝借してミルクティーを作り、そそくさと厨房を出た。
グラフェンの見立ては正しかった。窓から見える空の色で、洗濯物の乾き具合を予測できる。
今日は曇り空で、あまり陽が出ていない。厚手の洋服は乾かないだろう。
庭はパーティーの夜に出た噴水と薔薇園のある中庭だった。
女神の持つ水瓶から絶え間なく水が流れていて、細やかな水飛沫がふんわりと頬を包む。
ミルクティーを飲むと、ほっとした。
「さて、午後はなにしますかね」
「8番は公務もほとんどねえし、暇なんだよなあ」
毎日こうして、なにをするのか考えて、思い付かないのは地獄のようだ。なにか楽しめればいいのだけど。
と、考えて、楽しむ誰かの中にナノホーンも入っていることに気が付いた。自分だけが、ではなくて、ナノホーンも含めて楽しめることを考えている。
(はて)
なぜだろう。
契約結婚だと言いつつ、意外とナノホーンが遊びに行かずに放置しないでおいてくれるから、すっかりふたりでの行動を考えてしまっていた。
ひとりで楽しむものを考えておかないと。まあ、しばらくは語学になるだろけれど。
そこへ侍女が城から出てきた。きょろきょろとしてからグラフェン達を見つけると遠慮がちに駆け寄ってくる。
なんだとふたりで視線を向けると、侍女は俯いてしまった。
「あの、その、昼食を共にと、第1王子夫人からご要望が……」
グラフェンはナノホーンと自分とを交互に指差した。どちらを呼んでいるのか、念のために確認するつもりだったのだが、侍女の掌が向いたのは当然にグラフェンだった。
「私ひとりですか?」
「……はい」
「なるほど。今すぐに?」
「……はい」
「では行きましょう」
ぐいっとミルクティーを飲み干して足を向けようとすると、ナノホーンが止めてきた。
「ちょっと待てよ。あんた、わかってんのか? 1番の嫁だぞ? あいつらクソ性格悪いんだぞ。悪いなんてもんじゃねえ、ゴミだゴミ。なにされるか、だいたいの予想はつく。どうせ胸糞悪いこと言われて終わるんだ。行かなくていい」
「まあ、そうでしょうね。ここでの待遇を1日見ただけであらかたのことは予想がつきます。でも、なにを隠そう、すっっっごく暇なもので。やることがないので暇潰し程度に行って参ります。それに温かいご飯が食べられるかも」
きゃはっ!
と、わざとらしく喜んでみせたが、ナノホーンは騙されてくれなかった。
なにをそんな顔しているのやら。
とにかく侍女が躊躇いがちに誘導するのに付いていく。一歩、出遅れたナノホーンもすぐに隣に追い付いた。
どうやらグラフェンの意見を尊重してくれるらしい。それでいてアドバイスをくれる。真剣な顔だ。
「使うのは今まで俺達が使ってたところじゃなくて、本物の王家専用のダイニングだ。かなり広いが、あんたは8番王子夫人。絶対に1番夫人から最も遠くに座るんだ。近くに座れって言われても、絶対に遠くだ」
「わかりました」
「ナイフとか全部外側から使っていくんだぞ。左右から一本ずつ使えるようにセットに置かれてるからな。皿の真上のほうに置かれてるのはデザートとか、単一で使うものだからな。皿の手前にあるのはスープ用」
「わかりました」
「音は立てるなよ。フォークとかナイフとか、料理を掬うときもカトラリーは皿に当てないようにしろ。飲み物は一気に全部飲むなよ。相手が立ったら自分も立って、相手が座るまで、もしくは相手が部屋から出るまで座っちゃ駄目だ。ナフキンは膝の上。皿に盛ってある水は指を洗うものだから飲まない。あいつらが言うことには、とりあえず『そうですね』って言って笑っておけばいい。それから──」
「ナノホーンさん」
グラフェンが立ち止まると、ナノホーンもそれに倣った。
思わず笑ってしまったのはグラフェンだ。
ナノホーンはひどい顔をしていた。悲しいような苦しいような、そんな顔だ。
「なんて顔をしてるんですか。こんなの、予想していたことではないんですか?」
グラフェンに契約結婚を持ち掛けたそのときから、王家の中で、自分と同じくグラフェンも虐げられると予期していたはずだ。どうせ仮面夫婦だから、そんなことは耐えてもらえばいいと考えての提案だったはず。
なのに、なぜ心配している?
なのに、なぜ、申し訳なさそうに目を伏せる?
なのに、なぜ、そんなに必死に恥をかかぬようにとマナーを教えようとしてくれるのだ。
「今さら付け焼き刃でマナーを覚えても見抜かれます。どうせ嫌なことをされるなら、取り繕ったって無駄ですよ」
「……ごめん」
なぜ、泣きそうなのだ。
「謝る必要はありません」
「ダイニングのすぐ外で待ってるから。もう無理だと思ったら逃げ出してきていいから」
「わかりました」
やっぱり笑ってしまう。
ナノホーンが必死になる理由がどうしてもわからなかった。
こいつなら、そういう世界に落としても構わないと、思ったはずではなかったのか。
左手首の痣が疼いた気がした。
◇◆◇◆◇◆
王家専用のダイニングは広いわりにとても張り詰めた空気で満たされていた。
大きなダイニングテーブルには7人の女性達が既に座っていた。3人と4人が向かい合わせになっていて、彼女達の前には料理が並べられている。
色とりどりの華やかなドレスを着飾った彼女達は化粧も髪型もアクセサリーもばっちりで、香水に包まれた女性らしい外見はとても美しい。グラフェンは偶然にもナノホーンが購入してくれた新品の服を着ていた。侍女がグラフェンのものを洗濯してしまって手元になかったからだ。その点はよかった。
ナノホーンが廊下にいることは知っている。
すぐ背後で侍女によって閉じられた扉の向こうにナノホーンが立っている。
女の食事会に男が立ち入るのは御法度らしい。
「初めまして。第1王子夫人です。お座りになって?」
開口一番は桃色の髪をした女だった。ウェーブの掛かった美しい髪をひとつにまとめて、同じ色の花飾りを着けている。他の女達よりやや歳上に見えた。グラフェンはその女から最も離れた席に向かった。
これで向かい合わせに4人ずつが座った形になる。
グラフェンの前には小さな紙が伏せて置かれていた。
開いてみようかと思って、やめた。どうせ言われるまでテーブルに手を出してはならないとか、そんなところだろう。
「ご結婚おめでとう。これで王家の仲間入りね。これからどうぞよろしく。貴族のご令嬢ではないんですってね?」
「はい」
「ちょっと! まだ喋っていいって言ってないでしょう!」
そう言ったのは1番夫人とは別の女だ。順番的に5番だ。なるほど、上に取り入りたくて必死と見える。せいぜい前半の4番までが優遇されていて、5番からは蚊帳の外。あとひとつの数字さえあげれば、と考えているのだろう。
だが1番に笑顔で制され、口を噤む5番は悔しそうにグラフェンに一睨をくれた。
「城下町で、ご家族で衣服の仕立てをしてらしたとか?」
「はい」
「従業員は何名ほどの規模で?」
「いません。家族だけでやっていました」
ぷぷ、と笑いが起きた。ちっぽけな店だとでも思われたのだろう。彼女達の知る企業はきっと何十人、何百人もの従業員がいて、莫大なお金が動いているに違いない。
「そういったお仕事ですと、どうやって8番王子とお知り合いに? 接点など、ないように思うのですけれど」
「それは……そうですね」
答えに窮したので、ナノホーンに言われたとおりに笑って受け流しておいた。彼女達は知りたいのじゃなくて、貶したいのだからどんな答えでなくてもいいのだ。
「8番王子ったら、自暴自棄になってしまったのかしら。だって、お化粧もアクセサリーも香水も、なにもつけていないわよ。この子のこと、愛してもいないんだわ」
2番が言った。
この世界は名前を名乗らないらしい。なるほど、ナノホーンが『8番だから』と自虐的に言う理由を見た気がする。
「あら、本当。指輪もつけてない!」
また5番だ。どうしても上位数字に気に入られたいという欲望が見えすぎて鬱陶しい。
「王家で誰も世話をしてくれないから、召使い代わりに欲しかっただけなんじゃない?」
と3番。
「それにしても8番の嫁になんて、よくなろうと思ったわよね。使えるお金も少ないでしょうし」
「実情を知らなかったのでは? 貴族の間では蔑ろにされているのは有名なお話でしたけれど、この方の育ったところでは、ねえ?」
「大切にされてないのも見え見え。私なんて婚約してから指輪3つにドレス、靴、ネックレス、ティアラ、数え切れないくらい買い与えてもらったのよ」
「最高級のお化粧品を取り寄せてくださったりね」
「とってもお金を使ってくれるんだから」
「それが愛されてる証拠なんですか?」
もうグラフェンのことなんか気にせずに宝石自慢をし始めようとする彼女達に疑問をぶつけたのは、純粋なる知的好奇心からだ。
お金を使ってくれることが愛だというのか。
宝石や、ドレスや靴をどれでも好きなものを与えてくれることを愛だというのか。自分に使ってくれる金額の大きさが、愛の大きさだとでも言うのだろうか。
「そんなものが愛だというのなら、私、愛なんていりません」
言うと、1番の青筋がぴくりと浮かんだ。それでも笑顔であるのは、貴族の社交界の教養の賜物だろう。
皆、1番を窺い見ている。
どう反論するのか。
どう懲らしめてやるのか。
我々も加勢するぞと、そんな目だ。
1番は嫌味ったらしく小首を傾げた。
「では、8番夫人は8番王子になにを与えてもらったの?」
8番をやけに強調して言うのは、自分の立場を弁えろよ、という警告かもしれない。
けれど、聞かれたことに答えるだけなら、攻撃にはならないだろう。
グラフェンは素直に答えた。
「一緒に本を選んでいただきました。一緒に朝食を作りました。一緒に紅茶を作りました」
7人はぽかんとしたあとで、貴族らしからぬ声で大笑いした。
「やだ、ご冗談はよして!」
「なにも与えてもらってないじゃないの!」
「たったそれだけ?」
目尻に溜まった涙を上質そうなハンカチで拭く仕草をする。
その指には大きな宝石が嵌った指輪が輝いていたが、グラフェンは、ちっともそれを欲しいとも思わなかった。
グラフェンは自分の服を撫でながら、服を選んだあの時間を思い出していた。
「そうです。たった、それだけです。
二人で楽しく過ごす時間を与えてくれました。
これが愛というのかわかりません。
でも、優しさをくれたのは、間違いありませんでした」
自分でも驚くほどの優しい声音だった。
はっとすると、1番がさすがに目を三角にしている。そして冷たく言い放った。
「8番夫人の前に今日のメニューを記してあります。お好きなものをお選びになって、シェフを呼んで自分でご注文してくださいな」
なるほど、そう来たか。
グラフェンはそっと紙切れを引っくり返した。
文字が書かれているが、なにもわからない。
庶民の識字率が低いことを知っての嫌がらせだろう。グラフェンは文字をぼんやり眺めて、四つ折りにして握り締めた。
「この城にいる中で、最も若いシェフを呼んでくださいますか」
控えていた侍女が返事もせずにダイニングを出て行く。少しして、あの若いシェフがやってきた。
自分の着ているキッチンコートの汚れが意味するものを知っているのか、背中を丸めて隠そうとしている。隠しきれていないが、その一瞬で7人は馬鹿にした空気を出すのに成功した。
目が合うと、少し怯んでいる。
先日の失言を諌められると思っているのかもしれないし、これからなにをさせられるのかに恐怖しているのかもしれない。
グラフェンは努めて柔らかく言った。
「昼食を用意してくださっているとお聞きしていますが、残念ながら私には文字が読めません。ですので、我儘な注文をさせてください。私が心から美味しいと思えるものを、あなたが作っていただけますか、デルタフェ」
言うと、シェフ──デルタフェははっとしたように左肩を握った。
キッチンコートの左肩部分に名前の刺繍があることは、湯を作りに行った夜から気が付いていた。名前を読めたのは、服のサイズによく使われる文字がいくつか使われていたからだ。
シェフが名を呼ばれるのは、最も腕を信頼しているという証でもあると、どこかで聞いた。デルタフェは震える唇をぐっと抑え付けて、グラフェンを見つめた。
「仰せつかりました」
一礼をして部屋を出て行こうとするデルタフェを止めたのは、1番夫人の一声だ。猫を被るのはこれまでと、見切りを付けたようだ。
「作らなくて結構です。8番と食事なんてするつもりございませんもの。庶民でしょ? 汚い食べ方をされたら胸が悪くなるわ。どうせ食事のマナーも知らないくせに」
「そうよ、そうよ。庶民が貴族の一員になろうだなんて!」
「思い上がりもいいところだわ。文字も読めないなんて、恥ずかしくないの?」
「私なら恥ずかしくて死にたくなるわ」
「教育を受けられないって、親はなにをしてるの? 他のご子息も受けていないの? それともこの子だけ? 愛されていなかったんじゃないの?」
「そうよ、きっとそうだわ。家族にも蔑ろにされていたなんて、ゴミも同然じゃない!」
「ゴミ!」
「あっち行けゴミ!」
ふむ。これはダイニングを出るのが正解なのかよくわからない。
とにかくデルタフェに目配せをして、彼は逃してやれたが、自分はどうすべきか。
やる気がないなら帰れと言われて、帰ろうとしたら怒られるアレだろうか。
うーむ、と考えていると、1番が痺れを切らして言った。
「8番! 1番の私が言ってるのだから従いなさい!」
それを聞いて、ふと疑問に思ったグラフェンは、また純粋な気持ちで言ってしまった。
「その順番って王位継承順位のことであって、
別に夫人である私達の偉さの順位ではないのでは?」
そのときの1番の顔といったら。
そんなことを言ってのける人間に初めて会ったときのような物凄い形相だ。自分の足場が崩れたような絶望と、崩した怒りとで戦慄いている。
(おっと、これは逃げたほうがよさそうだ)
また罵詈雑言の雨が降る前に逃げようとすると──
扉が開いてナノホーンが飛び込んできた。
そして、7人から隠すようにグラフェンを抱き締めてしまう。あまりにも素早い動きだったので、一瞬、なにが起きたのかわからなかった。小声で問う。
「……ナノホーンさん、入ってきてはいけないのでは……?」
「もう、いいから、早く出て来いよ。なんで出て来ないんだよ」
「ちょっとタイミングを失いまして。それより、これはお迎えということでしょうか」
「そうだよ。こっちはずっと待ってんのに、全然出て来ねえから待ちくたびれた」
「……本当は?」
意地悪心で本音を聞いてみると、ナノホーンは抱き締める力を強めて、グラフェンにだけ聞こえる声で吐露した。
「聞いてられない」
あんたを傷付ける言葉を、もうこれ以上、聞いていられない。
その言葉とこの行動が、彼女達が身につける宝石よりもずっと輝いていることをグラフェンは知っていたし、彼女達も知っているらしかった。非難されるべき行動をしている王子ではなく、羨望の眼差しをグラフェンに向けているのがなによりの証拠だった。
グラフェンはナノホーンに強引に連れ出された。
その後のダイニングに満ちたのは、羨ましいという嘆息だった。
ただし、1番を除いて、ではあるが──。