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7話目


 夢を見た。


 橋で艶美な女に出会う前、自分がどれほど(から)っぽであったか。誰にも見向きもされない。ここにいるのに、ここにいない。


 ──大好きだよ


 と言っても首を傾げて不審者を見るような視線を寄越す実の娘。


 ──大好きだよ


 と言っても、背を向けるか、その場にいないか、そのどちらかであった夫。かつては同じく好きだと言ってくれたのに、それは子どもを産んで欲しかったがゆえの詭弁だと思い知る。


 そこに愛はなかった。


 あったのは、自分を利用しようとする淀んだ思惑だけだった。


 ──大好きだよ


 叫んでも、母も父も姉も友人達も、誰も心をくれはしなかった。


 私が悪いのだろうか。私のすべてが悪いのだろうか。笑顔になれないこの役立たずな口周り。速く走れないこの愚鈍な脚。外よりも内が落ち着く静かな性格。


 愛されたいと思う気持ち。


 私のすべてが悪かったのだろう。


 夢の中で、グラフェンはこの心がかつての自分だと確信していた。この記憶は、確かに自分のものだ。日本で生まれ育った女。それがグラフェンの別の(せい)


 そう。


 私、愛する心を手放してしまったのね。



 グラフェンはゆっくりと瞑目した。


 愛がなくて心が楽になったぶん、なぜか、心が乾いている気がした。


 虚しい──……。



◇◆◇◆◇◆



「起きろ」


 ぺしん、と乾いた音がして、グラフェンは目が覚めた。

 滲んだ視界をくっきりとさせるには瞼の上下が不可欠なのに、寝起きはなぜかそれが難しい。レースの揺れる天蓋を見上げながらぼやっとしていると、ナノホーンが覗き込んできた。端正な顔立ちですこと。


「……おはよーございます」

「寝惚けてんのか。さっさとどけ」


 もう一度、ぺしん。

 その正体はナノホーンがグラフェンの額を掌で軽く叩いている音だった。

 どけ、とは?

 はっきりしてきた意識でよくよく周りを見てみると、グラフェンはどうやらベッドに対して直角に寝転んでいるようで、ナノホーンのお腹を枕にしていた。


(どおりで温かいわけだ)


 むにゃむにゃとしながら、ごろんとナノホーンの胸のほうへ寝返りを打って俯せになり、ベッドに手を着く要領で体を起こした。

 そうすると、当然に至近距離にナノホーンの顔がある。

 しばし見つめ合った。

 先に目を逸らしたのはナノホーンだった。不機嫌そうな顔で、ナノホーンの頬に垂れ下がっていたグラフェンの髪を鬱陶しげに払いのける。しっ、しっ、と言われているみたいだ。


「あんた、いくらなんでも危機感なさすぎだろ」

「あ、私のせいであなたのお腹の傷が悪化するかもって? すみません。それはうっかり。痛いの痛いのトンデケー」

「そうじゃねえんだよ! わざとか!?」

「いえ、寝相は無意識です」

「そこじゃなくて──もういい。あんたと話してると疲れる」

「お腹はどうです? また温かいタオル用意します?」

「いらねえ」


 左様か。

 グラフェンはのそのそとベッドから降りて、顔を洗った。

 窓を開けると冷たい空気が吹き込んでくる。今日は昨日に比べるといくらか涼しいようだ。風も穏やか。こんな日は早めに洗濯物を干したほうがいいのだけれど、そうか、もう、それを考える必要はないのか。

 今頃、父が母のダイヤに指示されながらテキパキと洗っているに違いない。


「今日は、私もなにかお城でやらなくちゃいけないことがあるんですか?」


 問いながら振り返ると、ナノホーンは痛そうにお腹を抱え、顔を歪めながら体を起こしていた。


「特にねえはずだ」

「わかりました、それは気楽で助かります。まだ痛むんですね」

「まあな。人間だもの」

「みつを?」

「は?」

「いえ、ちょっと前の記憶に触れるところがありましたもので。お腹空きましたね。食べに行きます?」

「ここの飯は嫌いだ」

「ああ、冷たいですもんね」


 クローゼットに入って、洋服を取り出す。といっても選ぶほどの数はないので目に付いたものを手に取った。ナノホーンが寝室にいる間に浴室で着替えてしまおうと移動して、いそいそと服を脱ぐ。


「あんたにもそんな(メシ)出してんのか?」


 が、そこはさすがのデリカシーゼロのナノホーン。

 浴室を無遠慮に覗くものだから肌着姿のグラフェンと視線がかち合った。


「おっと」


 と、グラフェン。

 しばらくそのままで、やはり負けたのはナノホーンだった。

 赤面した顔をさっと引っ込めて怒鳴ってくる。


「あんたさぁ! 普通、男がいんのに着替えるかよ!?」


 声が右往左往して聞こえるのは、彼が焦って歩き回っているに違いない。存外、初心(うぶ)な反応である。女性と接しなかったのは事実らしい。


「女嫌いなんですから、女の裸を見たところでどうにも思わないのでは?」

「あ!? くっそ、なんなんだよ、この女……調子狂うな……」

「それより、ご飯作っちゃいます?」

「は?」


 服を着て、髪を整えて部屋に戻ると、ナノホーンがお腹に手を当てていた。少し猫背気味なのはお腹を庇っているからだ。


「美味しいご飯を出してくれないなら、自分で美味しいご飯作っちゃいましょうよ。ついでに鍋も返したいですし」

「……飯、作れんのか?」

「これでも6人分の食事5品を30分で作れるんですからね!」


 えっへん、と腰に手を当ててみせたが、ナノホーンは合点がいかない顔をしている。料理の腕前の基準が曖昧なのだろう。


「それってすげえのか?」


 言われてみれば、確かに凄いのか不明である。


「うーん……わからん」

 

 言うと、はー、と盛大な嘆息。失礼な。


「あんた、もう喋んなよ。疲れる」


 うんざりといった顔で背を向けられる。そんな態度ならばそれで構わない。


「はーい。じゃあひとりで作って食ーべよっと」

「行かねえとは言ってねえんだが!?」

「素直に一緒に行くって言えばいいのに」

「あ!? なんか言ったか!?」

「なんでもないでーす」



◇◆◇◆◇◆



「入りまーす!」


 昨夜同様、大胆に厨房に入ると、食事を作り終えたシェフ達が皿を洗ったり、拭いたりしながら、数人、くつろいでいた。その中には昨日の新人シェフがいて、入ってきたのがグラフェンとわかると、さっと目を逸らした。


「ちょっと厨房お借りしますー! 食材も勝手に使いますー! 色々と使っていきますー!」


 ぞろぞろとナノホーンを引き連れて突き進む。厨房は左手に食在庫、右手に作業スペースがあって、シェフ達全員は作業スペースにいた。

 食在庫から野菜数種類と、スープに使うキノコと卵、よくわからない肉とバゲットを引っ掴んで戻ってくる。


「とりあえず借りた鍋を洗って再利用しましょう。お湯を沸かしてる間にレタスぶっ千切って、トマトも切っておきます。あ、もうひとつフライパンお借りしますねー! ありがとうございまーす!」

「あんた、凄ぇな。その神経の図太さ恐れ入るわ」

「褒められてもなにも出てきませんよ」

「褒めてはねえよ」


 シェフ達は互いに顔を見合わせていた。

 自分達が丹精込めて作った料理がダイニングに美しく飾ってあるというのに、グラフェン自身が食事を作っているのが不愉快なのと、第8王子の妻なのに料理ができるのかという疑問と、無視し続けていいのかという迷いと、厨房を使わせたくないという困惑を目顔で語り合っている。


 そうして指令を出されたのが、おそらく最も若いであろう昨日の新人だった。顎で使われた新人はすごすごと歩み寄ってくる。

 そして意を決したように、声を潜めて言った。


「なにしてんだよ」


 ナノホーンにも聞こえづらかったほどだが、グラフェンは構わずに手を動かし続けた。温めたフライパンにたっぷりバターを溶かして、スライスした肉を乗せる。じゅっと音が響いた。


「朝ご飯作りです」

「ダイニングに料理が既に並べてあるだろ。俺が昨日、野菜切ってたの知ってるよな? 盛り付けまで全部計算してんだぞ、あれ」

「知ってます」


 肉を引っくり返す。焦げ茶の焼き目と肉のピンクがいい色をしている。

 沸いた湯にキノコと調味料を加え、また放っておく。その間に卵をといて、焼けた肉を皿に掬い上げ、粗熱をとる。バゲットを切って、ヘタスとトマトを乗せる。スープに溶き卵を放して、ゆるりと掻き混ぜた。トマトの上にさらに肉を乗せ、バゲットで蓋をする。

 それぞれ皿に盛り付けて、グラフェンが無性に食べたかったBLTサンドが出来上がった。


「馬鹿にしてんのか? 料理は俺達の仕事だぞ」


 諌めるような声音になって、初めてグラフェンはシェフを見た。

 シェフは、不服そうな顔を隠しもしなかった。怒っているし、気に食わない、出て行けと命令している。だからグラフェンも、じっと瞳を見つめる。


「怒るということは、仕事に誇りを持っていらっしゃる?」

「当たり前だろ。パーティーのクリームだって、何ヶ月も掛かって考えたんだぞ。美味かったって、昨日言ってたじゃねえか」

「ええ。あれは、とても美味しかったです。いつか、また食べたいくらいです。──ただ、ダイニングテーブルに並べられてる料理は、美味しくない」


 まだ手も付けていないし、今日のメニューがなんであるかも見ていない。


 けれど、わかる。


 こうしてシェフ達がくつろいでいるということは、作ってからだいぶ時間が経っている。触れた鍋はどれも冷えているから、また冷たい皿が並んでいるのだ。食べてもらう相手に合わせた料理ではなく、ただ作って置いただけの義務感しか、あそこにはない。あれは飾りに他ならない。


「私は3度の食事と睡眠が大好きです。1日にたった4回しかない楽しみのうち、1回をわざわざ悲しくしたくない。


 料理は美味しいほうが楽しいです。


 それに、美味しいって思ってもらったほうが作ったほうは幸せです」


 言うと、新人シェフがぐっと唇を噛んだ。


 もしかすれば、説教じみていたかもしれない。時間を掛けて作り上げた料理を、たかが嫌がらせ目的でわざわざ穢すなと、暗に抗弁になってしまったかもしれないと、一瞬、後悔しかけたが、グラフェンは間違っていないと自信があった。


 場を仕切り直すようにパンと拍手をする。


「はい、ナノホーンさん、自分のぶんは持ってくださいね」

「皿なんて持ったことねえよ」

「自分で食べるぶんなんですから持ってくださいよ」

「食べるとは言ってねえんだが!?」

「食べないんですか?」


 結局、盛大な舌打ちをしたあとで皿をぶん取ってくれた。


「王子の俺が皿運びなんて一生の恥だ」

「いやー、だって私にはナノホーンさんが王子であろうと関係ないですからねー」


 そのとき、ナノホーンの表情の変化をグラフェンは見落とした。

 歓喜に極まったナノホーンの瞳を、不機嫌だと捉えたのはグラフェンの心の欠如のせいだった。


 自分がなにを言ったのか、よくわかっていなかったのである。


 グラフェンにとってナノホーンは王子ではなく、ナノホーンであるということを、ナノホーンが喜んでいると気付けなかった。すぐに隠されてしまった本心を知る由もなく、昨夜と同じくまたグラフェンは足で厨房のドアを開ける。


「どういう環境で育ってきたんだよ」


 呆れたナノホーンにごちゃごちゃ言われたけれど、両手が塞がっているからなんちゃらと誤魔化してダイニングに着いた。

 並んで席に着く。


「は? なんで並ぶんだよ。あんたは普通、あっちだろ」

「えっ、なんで?」

「向かい合わせに食うのが普通なんだよ」

「えー。もう立つの面倒くさいー。それに近いほうが話せていいじゃないですか」

「……ったく。仕方ねえな。正式な場では、本気(まじ)で俺の言うとおりにしろよ」

「ちなみに、これは手で持って食らいつきます。貴族の恥とか関係なく大口を開けてください。んあーっと!」

「人の話も聞かねえんだよなあ」


 四の五の言わずにと、ぱくりと頬張る。

 バターの香り、さくさくのバゲット、肉汁、レタスのしゃきしゃき、トマトのさっぱり。最高の朝食だ。

 隣を見ると、迷いつつも頬張っているナノホーンがいる。


「どうです? 美味しいでしょ?」


 ナノホーンは答えてもくれなかったし、目も合わせてくれなかったし、終始、ふんっと鼻を鳴らしたような不機嫌そうな顔ではあったけれど、綺麗に完食してくれたので、それが答えなのだろうとグラフェンは思った。

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