3話目
「……ああ"これ"が?」
城に着くなり、出迎えてくれたのは第1王子のカルビンだ。さすがに弟が妻を迎えるとあって、次期王としての、さらには兄としての儀礼を尽くしたのだろうけれど、他の兄達はいないし、侍女もいない。
あっ。(察し)
とは、まさにこのことで、どうやらグラフェンは歓迎されていないらしかった。
よくよく考えてみなくとも当たり前の話で、王子といえど、どこぞの貴族でもない平民庶民代表のグラフェンを王家の妻に迎えるなど反対されるのは当然だ。
笑顔を崩さないまま、つつつつつ、とナノホーンに歩み寄る。
「もしかして、嫌がらせとかされたりするんですか?」
「違ぇ、違ぇ。こいつら、俺がやること成すこと全部気に食わねえだけ。あんたを嫌ってんじゃなくて、俺を嫌ってんの」
「なるほど。理解」
カルビンは奇しくも、ひそひそ声で耳打ちをし合うグラフェンとナノホーンを見て、本当に恋仲であると勘違いしてくれたようだった。
グラフェンは秘技と自負する笑顔で、一応のマナーに則った挨拶をした。
腕組みをして見下すカルビンは挨拶をし返してはくれなかったが、グラフェンは軽く咳払いをしながら姿勢を正す。本来であれば、挨拶を返してもらわないと姿勢を崩せない。
カルビンは絵に書いたような好青年の王子だった。
さらさらの黒髪は清潔感があるように整えられ、短すぎず、長すぎず。白シャツは眩しいくらいに輝いているし、肌も負けないくらい白い。少し痩せ気味ではあるものの、しっかりと鍛えているらしいことは服の上からでもわかる。
「婚礼の儀は省略だ。この紙に署名さえしてくれればいい」
従えていた執事が紙を差し出してくる。反射的に受け取ったのはいいものの、どこで書けというのか。部屋に持ち帰って書けという意味だろうか。
上目でカルビンを窺い見てみると、早くしろ、と無言の圧力を掛けてくる。
ですよねー。ここで書きますよねー。
ええっと。
きょろきょろと机になるものを探していると、ナノホーンが手を差し出してきた。
「名前書くだけなんだから、そんな深く考えんなよ」
手の甲を下敷き代わりにして、ほれ、と促してくる。
貴族の殿方はこういうことがスマートにできるよう訓練されているのかと思うと、税金の使い方とはこれいかに、と思わなくもない。ただ、カルビンの目の圧力がそろそろ次の段階に進みそうだったので、甘えることにした。
手が大きいのだろう。
グラフェンの手では絶対にでこぼこの字になってしまうのに、大きなナノホーンの手は見事に力を発揮した。
ただ、いかんせん文字を間違えてはならぬと言い聞かせれば言い聞かせるほど、紙との距離が近くなる。一文字一文字を懇切丁寧に書いていると──
「手の甲にキスしろとは言ってねえんだが? それとも忠誠を誓うか?」
頭上から意地の悪い声が降ってくる。
見上げれば、ナノホーンの悪そうな笑顔がある。
(こいつ、性格ひん曲がってんじゃないの)
口角を下げて抗議してみるけれど、ナノホーンはどこ吹く風で、にやにやしているだけだ。
名前を記入し終えるのを見計らって、グラフェンの手からするりと執事が紙を抜き取った。そのままカルビンに見せると、カルビンは主らしく瞳だけをちらりと紙に向けて鼻を鳴らす。
「これで正式な夫婦だ。せいぜい大人しくしてろ」
そうしてカルビンはくるりと背を向けて、執事と共に消えてしまう。
玄関前で取り残された名ばかりの新婚夫婦。
馬車も御者も、もういない。荷物を運んでくれる従者さえいない、ふたりぼっちの門出。
「……あなた、本当に王子ですかぁ?」
怪しんだ目でナノホーンを見ると、さすがに心外だとばかりに眉がぴくりと反応した。
「あんた、随分と舐めた口の聞き方してくれんじゃねえか。あ?」
「いや、だって、こんなことあります? 王子って、もっと至れり尽くせりなものじゃないんですか。腕を広げたら、いつの間にか着替えが終わってる的な」
「そんな生活がお望みだったか? あいにくだが、そんなもんはせいぜい3番目の兄貴くらいまでだぞ。それ以下はただの同居人だ。執事以下の扱いだぞ」
「王子なのに?」
「王子なのに」
「ふうーーーーん?」
「……その目は信じてねえな? このチビ! この、この!」
「い、いひゃいーー!」
ナノホーンはにたり顔をしていたグラフェンの両の頬を抓って引っ張った。ぐりぐり捻ると、グラフェンの頬は真っ赤になる。降参の意味でナノホーンの手をタップすると、ようやく解放してくれた。
「ヒリヒリする……」
「王子に向かって無礼なことしやがるからだ。これで済んでありがたいと思え。部屋に行くぞ」
そう言って、グラフェンの背丈ほどもある風呂敷包みの荷物をひょいっと持ち上げてくれた。そのまま大股で歩き進んで行く。
(まさか、王子が直々に荷物を運んでくれるとは……)
さすがに人を呼ぶのかと思いきや、ナノホーンはさも当然とばかりに荷物を担いでいる。
もしかすれば、いつものことなのかもしれない。
誰にも助けてもらえず、王子なのに王子扱いされない。
幼いころから今に至るまで、自分のことは自分でしてきたのだろう。庶民にとっては当たり前のことだが、優遇される兄を前にしてその仕打ちでは、性格が少々捻くれても仕方ないのかもしれない。
「寝室は別な」
「ありがたいです」
「部屋は隣な」
「あ、へー」
(隣かよ)
「んだよ、その反応は」
「いえ、特には」
そんな会話をしていると、グラフェンの私室に着いた。
部屋は応接室、寝室、浴室、書斎が続く広い部屋で、用意されたベッドは天蓋付きでレースが掛かっている。絵画などの装飾品はないものの、シンプルで使いやすそうだった。もっと、ごりごりに金持ちをアピールした部屋なのかと気構えていたけれど、杞憂に終わってよかった。
「荷物は寝室に置いておく。けど、まあ、こんなんじゃ足りねえから物資の調達が必要だな」
「いえ、生活するには問題ないです。着替えと、洗面道具と、その他諸々を入れてくれています」
ダイヤが用意してくれた荷物を解くと、案外、量は多くなかった。しかしグラフェンには洗濯の技術がある。着替えには困らない。
「一応、正装も用意しておいたほうが無難だぞ。いきなり国王とディナーの流れになったらどうすんだ」
「……有り得ます?」
「大いに。だから、仕方ねえ。忙しい俺様が付き合ってやるから調達に行くぞ」
「どこにですか?」
「街に」
「街にも行くんですか? 王子なのに?」
「自由気ままな王子サマでよかっただろ?」
決め顔をされても困る。