最終話
グラフェンの帰還に国民は湧いた。
どうやらグラフェンが発見された茨の森は、悪魔が巣食う邪悪な場所として有名だったらしい。なんでも、そこに踏み入れると人格が変わって、まるで別人になってしまう人が続出したのだとか。
(彼女が奪い、彼が与えていたのだろうか)
グラフェンは、セレンから両手足の手当てを受けながら考える。
彼女が愛を求めるのが捕食というのは嘘ではないのだろう。だから仕方なく愛を喰らう。
けれど彼が愛を与えるのは、もしかすれば暇潰しなのかもしれなかった。この世の多くの心変わりが彼によるものだとすると、なかなか愛というのは与奪が激しいらしい。
「終わりました。刺さっていた棘も抜きましたし、数日もすれば痛みはなくなると思います」
「ありがとうございます」
「……お会いできたんですね」
痣のない左手首を見つめながら、セレンは言った。
グラフェンの隣に座るナノホーンには、男の正体と、その男を探していた理由のすべてを話してあると城に移動するまでに聞いていた。
「はい。でも、愛を返してくれたのかは、わかりません。お断りしてしまいました」
「えっ」
驚く二人に経緯を説明した。
セレンと違って、自分は自ら望んで愛を与えて欲しいと言い出した。けれど、与えられるために代償があるというから、ならば不要だと言った。
それでよかったと思っている。
愛は今もわからない。
けれど、愛は愛という概念ひとつではない気がした。
相手を大切に思うこと、相手と喜ぶこと、楽しむこと、悲しむこと、会いたいと思うこと、それらすべてが、どこかに愛がある気がしたし、あるいはそれらの少しずつが愛のような気もする。
そこでふとグラフェンは疑問を抱く。
「……おや? でも、そうしますと、ちょっとおかしいですね。ナノホーンさんに会いたかったのは事実ですが、セレンさんが悲しんでいてはいけないと思ったのも事実ですし、ということは、私は二人を愛して──?」
「違う違う違う違う」
慌てて否定したのはナノホーンだった。
「愛するっていうのにもな、種類があんだよ。親が子を思う気持ち、恋人を思う気持ちを、子が親を思う気持ち、友人を思う気持ち。あんたの俺に対するのは恋人を思う気持ち、セレンに対するのは友人を思う気持ち」
「なるほど」
確かに、似たようなことを彼も言っていた気がする。
「逆かもしれませんよ。わたくしに対してが恋人への愛の可能性もあります」
「確かに」
「ふざけんなよクソ執事。なに誑かそうとしてんだよ、はっ倒すぞ」
「わたくし、こう見えて最も得意とするのが護身術ですが?」
「俺だってクソつまんねえ武術やらされ続けてんだよ、ガキの頃からな!!」
二人のやり取りをグラフェンは幸せそうに見つめていた。
そして、自分がナノホーンを思う気持ちと、セレンを思う気持ちがほんの少し違うのも自覚があった。
それがだれに対する愛なのか知るのは、まだ先の話。
3年後、ナノホーンとグラフェンには双子の男の子が産まれ、20年後には、産まれた順ではなく適正をみて王位継承を決定する改革がなされることになる。さらに、選挙制度までが確立された。
ナノホーンは初めて選挙で推薦され、王位を継承した王となり、今もグラフェンと仲睦まじく生活している。
なんでも、天下無敵のナノホーン国王陛下に強く出られるのは、妻のグラフェンだけなのだとか。
◇◆◇◆◇◆
「やあ」
グラフェンが森から戻った直後の執事の私室で、セレンを待ち構えていたのは金髪にバンダナで目隠しをしたあの男だった。
ぎょっとして逃げようとするも、彼は両手を挙げて無害を訴える。
「ごめんごめん、驚かすつもりはなかったんだよ。僕に愛を奪われた奴に会うのは貴重だから、話がしてみたくて」
なんの話を聞きたいのだ。
とにかく、こんなところをだれかに見られたら、自分がグラフェン誘拐を手引きしたと勘違いされてしまう。セレンは足早に私室に入り、戸を締めた。
「なんのご用です」
「聞いてみたいんだ」
「なにを。まず、グラフェン様にお怪我をさせたことを謝るべきでは? 足にひどい怪我をされています。あんな場所に解放しなくともよかったではありませんか」
「まあ、それは、ちょっと意地悪しちゃったかな」
「意地悪? 傷跡が残るものもありそうでした。そんな傷を負わせておきながら、なにをふざけたことを──」
「愛って苦しい?」
強引に彼は本題を捻じ込んできた。
意図が読めなくて、ベッドに座って足を組む彼を目を細めて観察する。目を隠しているせいで、よくわからないけれど、口元は笑っていない。
男は、心底理解できない、とばかりに話し始めた。
「あの子はさ、もう君じゃない人を想ってるじゃんか。でも君はさ、僕が与えた愛のせいで死ぬまで、ずぅぅっっっっとあの子を愛さずにはいられないんだよ。手に入れたくて仕方ないはず。振り向いてもらえなくて悲しいはず。
愛してるから、なおのこと、愛されない絶望があるはず。
それってどう?
苦しい?」
当たり前だ。
なにを言いたいのだ。
そんな眼差しを察したのか、彼はステッキに顎を乗せた。
「愛、奪ってあげようか?」
その声は女性的なようでもあった。
男の姿から今までとは異なる女性の艶めかしい声が発せられて、頭が混乱する。その混乱がどこか媚薬めいていて、目眩がしそうだった。
この愛がなくなれば、自分は楽になるのだろうか。
楽になるのだろう。
きっと、仕事をこなすだけの日々になる。毎日同じことの繰り返しで、明日の悲しみもない代わりに楽しみもない。
セレンは自分が誰も愛さなかった別の生を覚えている。
空虚で、味気なくて、とても退屈だった。とっかえひっかえの女達はおもちゃと同じだった。壊れたら捨てて、飽きたら捨てて、ゴミ箱に山積されていく屑を邪魔くせえと蹴散らす。
反吐が出る。
セレンは首を振った。
「このままでいいです」
言うと、彼は意外そうに口を歪めた。セレンは続けた。
「生涯、ひとりの女性を愛するって素敵なことだと思うんです。例え叶わなくても思い続けるだけで幸せです。傍にいられるだけで」
グラフェンの笑顔を思い出す。
美味しそうにミルクティーを飲むあの横顔も。カップを包む小さな手も。寝惚けているときの焦点の定まっていない瞳も、庭を歩く儚げな姿も。
「それに、もしかしたらわたくしにもチャンスがあるかもしれませんしね」
そんなものはないと知っていながら誤魔化して言うと、彼は薄く笑った。満足そうだった。
「どうやら僕は、いい仕事をしたみたいだ。感慨深いよ」
言葉の最後のほうは煙のように消えかかっていた。
言葉が消えていくのと同時に、彼の姿もなくなる。
ひとりになった狭い部屋。
左手を見ると、まだ痣が残っている。
かつて、グラフェンと同じだった痣。
それだけで幸せを感じる自分はどこか狂っているのだろうか。これが狂おしいほどの愛というなら、自分は一向に構わない。
「そうだ、グラフェン様に手袋を持っていかないと」
包帯が汚れてしまうからと、手袋を頼まれていたのだった。
葬祭用にと準備していた黒色手袋があるはず。それにシェフのデルタフェが特別デザートを作ったから持っていけとも言っていた。自分で持っていけばいいのに、今、会ったらなにかしそうだからと意味深な発言をして逃げていた。やれやれ。
セレンは足早にグラフェンの元へ向かった。
軽い足取りだった。
了




