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26話目


 その申し出を受けて、興奮のあまり、グラフェンは早口になった。


「本当ですか、返してくれるんですか」

「うん。返してあげるよ」

「ありがとうございます、お願いします」

「でも、今すぐには返してあげられない」


 その言葉はグラフェンの期待をぴしりと凍らせた。

(ああ、やっぱり駄目なのね)

 彼はそんなグラフェンの消沈を察したみたいに膝を付いて、左手に手を重ねた。


「ごめんね。僕はね、愛を貰わなくちゃ愛を与えてあげられないんだ。だから、誰かの愛を奪ってこなくちゃならない。そのためには──」

「……ああ、やはり、インキュバスとサキュバスみたいに、あなたと魔女は同一人物なんですね」

「ごめん。僕がどうして未来の君から愛を奪ったのかはわからない。こんなに優しいから、きっと傷付かない人生を送らせてあげたいって思ったのかも。でも、君が愛を望むなら、愛を取ってくるから、少し待っててくれる?」


 ということは、また誰かが愛を奪われて、愛とはなんだと疑問に思って、両親からの愛も、両親への愛も、姉妹への愛も姉妹からの愛もわからずに育って、こうして悩むのだ。


 愛なんて代用品。そんなふうに考える。


 それって正しいのかしら。


 人から奪った愛で人を愛するって、人を蹴落として愛するって、正しいことかしら。


 グラフェンは唇をきゅっと締めて、握られている手を引いて膝に置いた。


「やっぱり、愛はいりません」

「でも、大丈夫だよ。すぐに取ってこられるから。例えば、母親の子に対する愛でもいいし、婚約者に対する愛でもいいし、ペットに対する愛でもいいし──」

「でも、そんなことをしたら、母親は子どもを愛せなくて、手を上げたりして自分は駄目な母親だと自分を責めてしまいます。あるいは、心変わりをして、婚約者を裏切る浮気や婚約破棄に至って、もしくはペットを棄てる羽目になるのではないですか?」

「そうかもしれないけど、でも、そんなの君には関係ないよ。会ったこともない他人なんだから、そんなの気にしてどうするの」

「そんなのも気にしないで手に入れた愛なんて、いりません」


 彼は怒ったのだろうか。


 しばらくの沈黙があって、おもむろに後頭部の結び目をほどき、両目のバンダナを外し始めた。

 するりと現れた両目は、宇宙のように煌めいて、そして蠢いている。


「合格だ」


 それだけを言うと、彼はグラフェンの左手首を取って貪り食うように齧り付いた。


 痛い


 そう思って、ぎゅっと目を閉じた。



◇◆◇◆◇◆



 再び目を開けると、そこは森の中だった。



 あの密室の部屋はどこにもなく、清々しいまでに青い木々がずっと続いている。昼だろうか、朝だろうか。わからない。


 ここは、どこだ?


 周囲を見渡してもわからない。


 小鳥の囀りが聞こえるから、きっと長閑な森なのだろうけれど方角さえわからないのは難儀な話である。


 一歩、動くと、スカートの裾が植物の棘に引っ掛かって裂けた。引っ掴んで歩き進めると、棘は、今度はグラフェンの足をじわじわと削っていく。


 薔薇以外にこんな棘だらけの植物を見たことがなかった。さらにセレンから貰った柔らかい生地の靴を履いていたとあって、靴がすぐに駄目になってしまう。結局、ただの布切れになってしまって、裸足で針の(むしろ)の上を歩く羽目になる。


(あの人、意地悪すぎないかしら。なんでこんなところに帰すのよ。やっぱり怒ってたのかも)


 それにしたって酷い仕打ちである。痛くて痛くて堪らない。


 けれど、早く帰ってやらねばならない。


 ナノホーンがきっと心配している。セレンも寝ずに捜索をしてくれているかもしれなかった。


 いや、本当に何十年も経っていて、もしかすればナノホーン達は他に愛する人を見付けているかもしれない。そう考えると胸が痛んだ。

 それとも、何百年と経っていて、ナノホーン達は既に亡くなっているかもしれない。そう考えると、胸が張り裂けそうだった。


 彼らの無事を確かめたい。


 ナノホーンに会いたい。


 逸る気持ちが強さを与えた。

 痛みに耐えて走ると、なにかが聞こえた。


 人の声だ。


 待て。早合点してはいけない。森での獣との遭遇は命取りになる。身を屈め、息を潜めて耳をそばだてる。


 いや、間違いない、人だ。


「すみません! どなたか、どなたかいらっしゃいますか!? 私、迷ってしまって、ここがどこかわからないんです! カーボニル国に戻りたいんです! どなたかいらっしゃいませんか!?」


 声のするほうへ、声のするほうへ進むたびに、棘が深く足の裏の肉を抉る。痛みがあまりにも大きくて転んでしまうと、着いた掌も真っ赤になってしまった。


 はっとした。


 痣が消えている。林檎も蛇も消えている。


(どういうこと? 愛を返してくれたの?)


「誰かいるのか!?」


 返答があった。繁った木の向こうに何人もいるのかもしれない。騒々しくなったのがわかる。


(とにかく、今は帰らないと)


 グラフェンは歯を食いしばって立ち上がった。痛くて痛くて、足の裏どころか、足のすべてが痺れているみたいだった。


 それでも叫んだ。


 会いたい。あの人に、会いたい。


「ここです! 助けてください!」


 足を踏み出すたびに、ギシギシと棘が阻む。


 いいのか?

 本当にいいのか?


 そんなふうに、最終警告をされているみたいだ。


 目の前の茂みを剣で邪魔そうに割って現れたのは、ナノホーンだった。


 ナノホーンは右手に剣を携えていた。

 ナノホーンの体には、いたる所に傷があった。

 ナノホーンの頬がこけて痩せていた。


 それが、他ならぬ『証拠』だった。


 二人の視線がかち合うと、ほんの数秒、どちらも動かなかった。姿形など、とっくに思い描いていたはずなのに、いざ現れると驚きで止まってしまう。

 あれはナノホーン。

 間違いない、ナノホーン。


 けれど、グラフェンがなにかを言う前に、急にナノホーンの眉がぐしゃりと歪んだ。




「グラフェン」




 震えた声で呼ばれたその名が、美しかった。



「ナノホーン」


 駆け寄ろうとするも、スカートが引っ掛かって前に進めない。その様子を見たナノホーンが喫驚した。


「血だらけじゃねえか! 待ってろ、俺が行く!」

「いえ! 大丈夫です! もう、私が()()()に行けますから!」


 棘は縋りつく指のようにスカートを引き留めている。


 やめておけ、愛など辛いだけだ、知ると傷付く、知らぬが幸福。


 それは、彼からの最後の警告だったのだろう。

 グラフェンはスカートに縋りつく棘を撫でて、囁いた。


「ありがとうございます。でも、平気です。愛がいつか終わっても、愛にいつか裏切られても、私、きっと大丈夫」


 風が吹いた。

 言葉が風に乗って、どこか遠くに運ばれていく。


 すると、嘘のように棘がスカートを手放した。


「ありがとう」


 最後にもう一度言って、もはやぶら下がっていただけのスカートの裾を引きちぎった。グラフェンは膝丈になってしまった素足で走る。


「おい、待ってろって──!」


 茨を剣で切り裂き、突き進もうとしてくれていたナノホーンに駆け寄ると、だがそれでも両腕を広げてくれた。だからグラフェンはなにも疑わずにその腕の中に飛び込んだ。


 どちらともなく抱き締める。


 ナノホーンの力と香りに包まれて、グラフェンは心の底からじんわりと湧いた想いを口にした。



「会いたかった」



 するとナノホーンの腕の力がぎゅっと強くなった。首筋にあるナノホーンの顔が熱い。


「俺もだ。俺も、会いたかった。会いたくて会いたくて堪らなかった。どれだけ心配したと思ってんだ」

「ごめんなさい」

「10日間、まともに飯も食ってねえし、寝てもねえんだ。クタクタなんだぞ」


 10日も過ぎているのか。

 彼が言っていた何十年も経っていたらという例え話は、あながち嘘ではなかったらしい。


「ごめんなさい」

「なにもされてねえか。嫌なことも、痛いことも、なにも」

「はい。なにもされていません」



「もう、会えないかと思った」




 ナノホーンが必死にグラフェンを探してくれたと、その声が嗄れていることでも伺い知れた。

 ずっと呼び続けてくれていたのだ。グラフェンの名を。ずっと。


「本当にごめんなさい」

「言ったじゃねえか。いなくなったら、探し出して連れ戻してやるって。……マジでさせんなよ……」

「はい」

「もう、いなくなるなよ」

「わかりました」

「約束しろよ、ずっと、ちゃんと」

「約束します」


 ふと見ると、ナノホーンの首周りが赤く汚れていた。グラフェンの手の血が付いてしまったみたいだ。慌てて距離を取ろうとする。


「ごめんなさい、汚れてしまいました」

「いいんだよ、そんなの」

「でも──」

「いいから」


 それからしばらく、ナノホーンは放してくれなかった。

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