25話目
「なんなんだ、あの男は!」
王家お抱えの騎士達に、グラフェンを拐った男の特徴を通達してから1時間、一向にその足取りが掴めずにいた。ナノホーンは知らせを待つだけの時間をじれったく思い、部屋の中を右往左往する。
いてもたってもいられない。
そもそも窓から飛び込んでくるというのはどういうことなのだ?
あれは誰だ。
なんの目的でグラフェンを連れて行った?
「くっそ!」
腹から叫び出したくなる。
だめだ、じっとしていられない。
ナノホーンは騎士達と合流して捜索に乗り出すことを決めた。これでも王子として剣の使い方くらいは教え込まれている。身動きの取りやすい服と上着を羽織る。武器庫に剣があるはずだから──
「ナノホーン様」
そこへセレンが声を掛けてきた。苛ついて返す。
「んだよ」
「お話が」
「急いでんだ、見りゃわかるだろうが! あとにしろ!」
上着のボタンも留めずに部屋を出ようとする。
「グラフェン様を拐った男についてでございます」
しかし、その言葉で踏みとどまった。
「なんだ、言ってみろ。発言を許可する」
「わたくしは、あの男を存じております」
それを聞いて、瞬時にセレンの思惑が頭によぎった。
グラフェンを手に入れるために盗賊の類を雇ったのか。
はたまたグラフェンを手に入れ、なおかつ金を要求するか。
どちらにせよ、非道な行いに違いはない。
ナノホーンはセレンに掴みかかった。胸倉を捻じり上げ、睨む。
「グラフェンになにをした」
セレンの目が細まった。ナノホーンの想像を察したらしく、その想像こそおぞましいというような顔をする。
「誤解をなさらぬようお願いします。男とわたくしは仲間などではございません」
「なら、なんだ」
「あの男はわたくしに愛を与えた者でございます」
ナノホーンは力が抜けていくのを感じた。解放すると、セレンは乱れた衣服を整えながら語り始めた。
「……なんだと?」
「グラフェン様から、わたくしとグラフェン様の共通点をお聞きしたと思います。別の生の記憶があり、グラフェン様は愛しても愛されないことを苦に自死を選び、その寸前で魔女に愛を奪われました。愛に疲れてしまっていたのでしょう。もう、愛なんていらないと、その代わりに愛してくれる人が欲しいと、魔女に心を差し出してしまったのです。
一方でわたくしは、自由奔放に遊び回り、たくさんの人から愛されることを利用して生きていて、それでいて誰も愛しませんでした。とうとうわたくしを愛して愛してやまなかった、名も思い出せない女から刺し殺されてしまいます。命途絶える寸前に、誰かひとりを生涯愛さずにはいられない、と愛を与えられました。その愛を与えた男こそが、グラフェン様を拐った不届き者なのでございます」
ナノホーンにとって、あまりに奇怪な話だった。愛を奪うだの与えるだの、現実に起こるなんて信じられない。グラフェンから聞いて心構えはできていたものの、こうして別の人間からも同じ話を聞かされると、まるで自分が生きている世界こそが脆くて曖昧なものなのではないかと混乱する。
くらりとする頭をおさえながら、頭を整理した。
とにかく、あの男は賊ではないようだ。その点は良かった。それでも相手は男である。守らなくてはならないのは命だけではない。
指一本、触れないで欲しい。
焦燥を抑えて、疑問を投げ付ける。
「……なるほど、理解した。とにかく、事情はわかった。でも、それでなんでグラフェンを拐う? しかも、あんな派手に。あんたの話を聞くと、死の淵に立つ奴ばかり狙っていて、その男と女は目立つのが好きではなさそうだ」
「それは……」
初めてセレンが言い淀んだ。そこに核心があると見て、ナノホーンは追及した。
「早く言えよ。非常事態だ。勿体ぶってる暇はねえんだぞ」
こっちは今すぐ駆け出したいのを我慢して話を聞いている。もしかしたら、グラフェンの居場所に繋がる情報があるかもしれないと期待しているのだ。
セレンは未だに迷いながら、口にした。
「愛を返してもらうためでございます」
その言葉の意味を、ナノホーンは図りかねた。
なんのために?
セレンは続ける。
「わかりませんか、ナノホーン様」
「……どういう意味だ」
「グラフェン様はあなたのために愛を知りたかったのです。
このままではあなたの愛に疑問ばかり抱いて、向けられる愛を信じられずに斜に構えた見方をしてしまうから、愛を受け止められないから、それではあなたを傷付けてしまうから、だから愛を与えてくださる男を探していたのです。
わかりますか。
グラフェン様はあなたを愛するために、愛を探しているのです。
わかりますか。
あなたはもう、グラフェン様に愛されておいでです……!」
ナノホーンは嗚咽を抑えるのに必死だった。手で口を覆って、引くつく喉で呼吸をするので精一杯だった。涙を耐える力は残っていなかった。
嬉しくて堪らなかった。
孤独の地獄に舞い降りてくれたグラフェンだと思ったのに、違った。
孤独の地獄から引き上げてくれた。
誰にも愛されずに苦しかったあの日々が、愛を前にしてこんなにも歓喜させる。
そんな話を、グラフェンに思いを寄せるセレンが打ち明けるのは辛いものがあっただろう。その点にも感謝しなければならない。彼は私利私欲でグラフェンを陥れたりしない。グラフェンの身を案じるがゆえの告白なのだ。
ナノホーンは深呼吸して、荒々しく涙を拭いた。
「……わかった。男を探しているという情報が本人に届いて、なんの用だと、あっちから来たと考えるのが妥当だろう。けど、あんたの話からすると、もしかしたら愛の与奪には死を伴うのかもしれない。グラフェンが馬鹿な選択をするとは思えねえが、さっさと見付けよう。なにされるかわからねえ」
「畏まりました」
この国に暮らす高齢者達に話を聞こう。奇妙な男と女の噂を知っているかもしれない。あるいは愛の与奪に関する話を。
急がなくては。
「おい、馬を──」
「ご用意してございます。前庭に繋いでおります。念のため、数日分のお召し替えと食料も積んでおきました」
こいつは、嫌味なくらい優秀な男だな。
「グラフェンがここに戻ってくる可能性もある。そしたらすぐにしらせろ」
「畏まりました」
ナノホーンは走り出した。
◇◆◇◆◇◆
「例えばさ、僕が君を元いた場所に戻してあげたとして、そのときに何十年も経ってたらどうする?」
彼はよくグラフェンに訊ねた。
グラフェンが連れてこられたのは、見覚えのない部屋だった。
入口もなく、窓もなく、ただ2脚のソファが向かい合わせに置かれただけの不思議な部屋だ。それでも閉塞感を覚えないのは、木造りだからだろうか。
埃みたいに、いつの間にかこの部屋に湧いて出たグラフェンは、ひとり掛けのソファに深く腰を掛け、彼は向かいのソファに前のめりで、両膝に両肘をついた姿勢で座っている。
セレンの言うとおり、彼は両目にバンダナを巻いて隠していた。
ざんばらの金髪に黒のシルクハットを軽く乗せ、色白の肌。耳朶にはぶらぶらと三角形のピアスが飾られていて、白いシャツに裾の切れた茶色の古いズボン、穴の開いた革靴。黒光りするステッキの持ち手は黄金色の樹脂を円形に固めたようで、わずかにきらめいている。
彼はそのステッキの黄金の上に顎を乗せて、にこにこと笑っていた。
左右に小首を傾げては、そのたびに質問を繰り返す。だからグラフェンも、そのたびに応えた。
「何十年も経っていたら……そうですね、これから生活していけるのかを考えます。家とか仕事とか」
「君を愛してくれていた人は君を忘れて、他の人を愛しているかもしれないよ?」
「そうですね」
「ふむ。そういう反応なわけね」
彼は名乗らない。
グラフェンは自分がこれからどうなるかよりも、今頃ナノホーンとセレンがどうしているのかが気になった。
自分がいなくなって、探してくれているのだろうか。
それとも、死刑執行を阻んだことを咎められているかもしれない。それは私の責任だというのに、彼ら二人が責められたら堪らない。王に言い訳をすべきは自分なのだから、早く帰りたい。
早く──……。
「本題に移ろうかな。君は僕を探しているね。他の国にまで僕の人相の手配を掛けているから、知ったときには驚いたよ。どんな奴が僕を探しているのかとカーボニル国に来てみたら、これは驚き、愛を奪われた女と愛を与えられた男の二人が揃ってるんだもの」
「手の痣でわかったんですか」
「そうとも言える。僕はこのとおり、余計なものは見えない。なんていうんだろう、痣が暗闇で光って見えるんだよ」
暗闇の中で蓄光シールが光っているような感じだろうか。
グラフェンは考えながら、床に視線を落とした。くすんだ色の木張りの床は埃ひとつ落ちていない。
静かだった。
他には誰もいない。この部屋の外に出られたとしても、暗黒が延々と広がっているだろうと思えるほどに、なんの音も、なんの気配もしなかった。
男はまだ話し続けていた。
「愛を与えられた男よりも、愛を奪われた女のほうが僕に用があるのかな、と思ったのと、君のほうが面白そうだったから事情を聞くために連れてきた。ちょっと荒っぽかったこと、怒らないでくれる?」
「もちろんです。探していたのは私でしたから、むしろ来てくださって助かりました」
ふむ、と彼は頷く。
「それで? 僕になんの用? 僕、目立つのは好きじゃないんだ。用が済んだら帰してあげるから、さっさと手配を取り下げてくれるとありがたいね」
彼も姿勢を崩して背凭れに落ち着いた。ソファの軋みが鳴り終えるのを待って、言った。
「愛をください」
彼の周りの空気が冷たくなった気がした。
「どうして?」
「セレンさんに愛を与えたと聞いています。だから私にも愛をください」
「どうしてそう思ったの?」
「愛したいからです」
「僕はね、愛を奪う魔女とは懇意にしているからよくわかっているんだけど、あの人が愛を奪うのは、とてつもなく人を愛することができる優しくて純粋な子だよ。なおかつ、愛しても周囲の人に恵まれなかった、愛が成就しなかった子。それだけを狙ってる性悪女なんだよ。つまり、君は人を愛したけど愛されなくて、愛なんていらないと承諾してあの人に愛をあげたわけだ。どうして今さら愛が欲しいの?」
「愛を知りたいんです」
「愛を知ったら、また傷付くよ。愛してるからといって、愛されるとは限らない。君はよく知ってると思うんだけどね」
胸のどこかが痛んだ。
愛しても見向きもされない虚しさと絶望を体が覚えている。辛くて、自分の存在意義さえ見失えるほどだった。
なぜ愛してくれないのか。
誰でもいい、愛して欲しい。
そんな悲痛な願いも届かなくて、蟻の一匹でさえ愛してくれなかった。
グラフェンは、なんだかカウンセリングを受けている気分になった。
「では、私が今していることは、愛してくれなかった人達と同じこととは言えないのでしょうか」
問うと、彼は膝を組んだ。
唇の笑みが三日月よりも深い。
「どういうこと?」
「今の私は愛してもらっても、どんなに愛してもらっても、愛してあげられません。それは、前の私がされたことと同じです。愛されても愛さない。それが、どんなに酷いことか、私は知っています」
「じゃあ愛されたら全員を愛してあげなきゃいけないの? 浮気じゃない? 嫌いな奴から好かれたって迷惑なだけじゃない?」
「……確かに」
言うと、彼は馬鹿にしたみたいに鼻で笑った。ほらね。と馬鹿にされる。
「だから愛なんていらないじゃない? むしろ、愛なんてないほうが誠実だよ。愛があれば裏切ることになる。愛がなければ最初から結ばれないから裏切りはない。どちらにとっても健全だと思うけど?」
「……確かに」
頷くと、彼はまた『ほれ見たことか』とシタリ顔で顎を引いた。
それが彼にとっては用済みの判断らしかった。
杖に重心を乗せて立ち上がると、グラフェンの左手を取って、どれ触ってみるか、とでもいうように人差し指で痣を撫でる。グラフェンは、言い返せないでいる自分がやっぱり情けなかった。
どうして愛が欲しいと思ったのか、忘れてしまったわけではないのに。
「確かに、愛なんてないほうが傷付かないで生きていけるのかもしれません。愛は浅はかで、強欲で、重くて、窮屈です。でも──
なぜ愛されるのか、不思議に思わなくて済みます。
愛を知らない私は、愛されていても愛されていると知らずに、愛していると言われても、どうして私を愛するのか、行動や言葉のどこが私を愛しているという証拠なのかと考えます。つまり、投げられた愛がわからない。
要するに、愛を知ることは、愛を受け止めることと同じなのです。
私は、ナノホーンの愛を受け止めたい。
それだけです」
ぽとりと言葉を落とすと、じんわりと床に染み渡っていくように静かになった。
伏せていた視線を上げれば、彼の口は笑っていなかった。
「愛を返してあげてもいい」
唐突に彼が言った。




